Jul 05, 2009
閉店にも気づかなかったが,たぶん6月最後の週末ごろ,すずらん通りの「須賀楽器」の建物が取り壊された。その右隣の一群が取り壊された時の写真(2007年1月)を,本拠地の「神保町昼食ニュース」07年2月号に載せたが,そこで中央右寄りに写っているのが須賀楽器の背面である。
須賀楽器は,隣にあったツルオカピアノと共に,神田の初期の楽器店街を形成したという(「神保町昼食ニュース」06年3月号参照)。
7月3日は近くを通らなかったので,帰宅して夕刊を見るまで知らなかったのだが,3日未明,靖国通りの洋菓子店「柏水堂」ビルで火事があり,老店主が亡くなったという。
[追記(7日)]写真下は6日昼,焼けた4階の窓が開いている。近くではまだ焦げた臭いがしていた。1階には「3日(金)~10日(金)休業」の貼り紙があった。
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Jul 04, 2009
子供のころ,テレビで高校野球をよく見ていた。小学生の目から見ると,そこに出ているのは「ずっと大きいお兄さんたち」だった。しかし,自分の高校時代は意外と早くやってきて,いつの間にか過ぎていき,登場する選手たちはたちまちみな年下になっていった。
そして,プロ野球にも相撲にも年下が登場するようになる。スポーツ選手に次いでは,歌手や俳優も「年下率」が高くなっていく。その後はもう加速度的で,三十を過ぎれば相撲取り,四十を過ぎれば野球選手の大部分が年下になる。同世代で最後まで現役だった野球選手は村田兆治だった。
年下の歌手の登場が印象に残っているのは郷ひろみとアグネス・チャン――この2人は同い年である。後から思えばそれ前にも自分より年下の歌手はたくさん出てきていたはずだが,この2人のブレークは比較的よくテレビの歌番組を見ていたころだったせいで,印象が強い(その後はテレビというものを見る時間が激減した)。郷ひろみの「男の子女の子」のヒットは17歳のときで,こんな舌足らずな歌い方でいいのかなと思ったりした。
初めて来日した年下の演奏家として記憶されているのは,ピアニストのミシェル・ベロフ――当時22歳――である。若くして世界で活躍を始めたのは,17歳でオリヴィエ・メシアン国際コンクールに優勝したことによるが,来日はそれから5年後だったこともあり,日本では後のブーニンのように騒がれることはなく,普通の大人の演奏家として迎えられた。もちろん,年下が本当に初めてだったのか,正確なことはわからないが,友人との間では話題になった。
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Jun 30, 2009
・写真をクリックすると大きい写真が出ます。
◇「百歩ラーメン」が開店(9日)
◇豆腐屋さんがちゃんとラッパを吹いて登場(10日)
◇「闌(たけなわ)」の夏メニュー(11日)
◇錦町更科のあじさい(19日)
◇錦町更科の時事ネタ満載メニュー(29日)
★「本拠地」の「神保町昼食ニュース7月号」は7月4日に掲出しました。
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Jun 28, 2009
先日,マイケル・ジャクソンの死去のニュースでプレスリーのことを思い出したと書いたが,新聞の報道で,マイケルの最初の妻はリサ・マリー・プレスリー,すなわちプレスリーの一人娘であることを知った。そういえば,そう聞いたことがあったような気もするが,まったく忘れていた。
関係ないけど連想したのは,ホロヴィッツ夫人のワンダがトスカニーニの娘であること。こちらは離婚しなかったようだ。
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Jun 27, 2009
近藤健児『クラシックCD 異稿・編曲のたのしみ』,近藤健児他『クラシックCD 異稿・編曲のよろこび』(共に青弓社)というクラヲタ度のきわめて高い本を読んだ。半年以上前に買って以来ほっぽりっぱなしだったが,最近読み始めたら,データ本ではあるが読んでなかなかおもしろくできていて,一気に2冊読んでしまった。
ここで異稿(この言葉はIMEで変換できなかった)というのは作曲者が改訂して複数の版ができたもののことで,たとえばモーツァルトの交響曲第31番《パリ》の第2楽章が2種類あったり,第40番に楽器編成が異なる2つの版がある,といったものである。編曲については,作曲者自身によるものと,他人によるものがある。
タイトル通り,この本はCDがあるものを中心にしていて,著者の近藤氏はネットでの調査を基にすさまじい数のCDを購入し,聴いている。2冊目の『よろこび』の方は,ネット経由で協力を申し出た強者4人との共著で,共にネットの時代ならではの本といえる。
この本がひとつの刺激になって,先日,メンデルスゾーンの弦楽八重奏曲(→参照)とベートーヴェンの弦楽四重奏曲《セリオーソ》(マーラー編)を弦楽合奏で演奏しているCDを買った。メンデルスゾーンはズビン・メータ指揮イスラエル・フィルの演奏で,1979年の録音だが「First International Release on CD」と書いてあり,『たのしみ』のメンデルスゾーンの項でも触れられていない。(ベートーヴェンはドホナーニ指揮ウィーン・フィル,95年録音)
もともと弦楽器の八重奏ともなると室内楽の枠を越える寸前のような曲なので,そのまま弦楽合奏で演奏して何の違和感もない。ただし,演奏者の顔ぶれから想像されるように,青春がほとばしる原曲よりだいぶ濃厚・妖艶な演奏である。
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Jun 26, 2009
26日朝のTVニュースが,「マイケル・ジャクソンさんが亡くなりました」とトップ記事扱いで報じた。
それで思い出したのは,エルヴィス・プレスリーとジョン・レノンのことである。前にも書いたように,プレスリーの死(1977;42歳)はイギリスで知ったために印象深い。
ただ,プレスリーの音楽はよく聞いていたわけではないから,さしたる感慨はなかったのに対し,ジョン・レノンのとき(1980;40歳)ははるかに強い衝撃を受けた。もちろん,殺害されたからということがあるが,ビートルズの音楽をリアルタイムで一応ずっと聞いてきていたからということが大きい。
この3月,私の郷里・横須賀から近い三浦半島某所にある霊園に,知人の納骨のために行ったときのことである。その墓所の近くに,花が大量に飾られている墓があり,何かと思ったら X JAPAN の HIDE の墓だった。今も墓参の女性が絶えないらしい。
山口百恵はデビュー直前まで横須賀に住んでいたが「出身」ではないのに対し,HIDE は横須賀生まれである。
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Jun 20, 2009
(承前)
プレイガイドで徹夜で行列することもまだ行われていた時代だが,このときのチケットは,登録した人に送られてきた往復ハガキか何かで申し込んだ。料金はS29,000円,A26,000円,B23,000円…。ただし,9月1日の『シモン・ボッカネグラ』初日は「ガラ公演」,2日の『オテロ』初日は「チャリティー公演」とされ,記念品付きとはいうものの,他の日よりS,Aは1万円,B以下は5千円高い料金設定だった。
その高い日を避けた私の初日は9月5日の『オテロ』(NHKホール)。タイトルロールは初めて聞くプラシド・ドミンゴ,デズデモーナは77年のベルリン国立の『フィガロ』で聞いたアンナ・トモワ=シントウ,ヤーゴはその後聞く機会がなかったシルヴァーノ・カローリだった。
74年バイエルンの『ばらの騎士』以来のクライバーは,この間に急速にカリスマ化し,盛大な拍手で迎えられた。拍手が終わらないうちに始まった第1幕は,まず嵐の場面ということもあり,パワー全開で飛ばしていく。合唱もすごい。息つく暇もなく,オテロの登場となる。
ドミンゴはこのとき40歳,テノール歌手として「働き盛り」を迎えていた。巨大なNHKホールの3階中程の席まで声がビンビン響いてきた(NHKホールは2階の奥が最悪で,3階の方がずっと素直に聞こえる)。年配の人たちは,1959年に初来日して同じくオテロを歌って大きな衝撃を与えたマリオ・デル=モナコを思い出していたことだろう。(後でフレーニを聞いてから,デズデモーナもフレーニで聞きたかったとぜいたくなことを思ってしまった。1977年のスカラ座のシーズン開幕公演の『オテロ』ではフレーニだった。)
第2幕で,オテロはヤーゴの奸計にはまっていく。どうしてそう思いこんでしまうんだ,オテロよ目を覚ませ!――ここのドラマの運びが巧みなのは,第一にシェイクスピアの功績である。それはヴェルディの計算通りだった。歌でもっとも印象に残ったのは,第2幕の終わりの復讐の2重唱で,メロディのほとんどないような歌なのにオーケストラの雄弁な伴奏(バッソ・オスティナートが効果的)がついて,ぐいぐいと悲劇の結末へ向かう道筋ができる。
ゼフィレッリの舞台は,一貫して黒い柱が並んでいる。第4幕ではそれが黒い立方体の枠になり,悲劇を閉じこめる。たぶん舞台が横に広すぎるせいで,両脇の空間がちょっと間抜けに見えた。第3幕のヴェネツィアの使者の到来の場面への転換は鮮やかだった。
(この項つづく)
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Jun 15, 2009
『チェネレントラ』は今まで前世紀に2回しか見たことがなかった曲である。それが今年は,メト・ライブビューイングで見て(→参照),わずか2週間後に新国立劇場で実演を見る,という巡り合わせになった。メトのがとても良かったので,先日は「(新国立劇場のを)これと比べてしまうと…」などと心配を書いた。しかし,その後予告をよく見たら,王子ラミーロ役は,去年『どろぼうかささぎ』で名演を聞かせてくれた第一人者アントニーノ・シラグーザだったので,ラミーロに関してはメトに負けないだろうと思った。
そして6月14日,新国立劇場は沸いた。曲が進むにつれて歌手も乗ってきて拍手も盛大になり,シラグーザは2幕で鮮やかにハイCを決め,終結部をアンコールまでした。他の歌手も,いじわるお姉さん役の日本人2人を含めてそろって好演,アンサンブルにわずかに決まらない箇所はあったが,演出(ジャン=ピエール・ポネル)の良さが決定打となって,全体としてはメトを(鼻の差でなく)首の差ぐらいで上回るすばらしい上演だった。
メトにかなわなかったのは,アンジェリーナ(チェネレントラ)役の美貌と若さ。休憩時に飲み物カウンターの行列ですぐ前にいた小学生ぐらいの女の子が,「アンジェリーナって,なんであんなに怖い顔なの」と母親に尋ねていた。(昔見たルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニはもっと怖い顔だったが。)
このプロダクションはミュンヘンから借りてきたもので,プログラムには,2007年のミュンヘンの舞台の写真が載っていた。ラミーロは今回と同じシラグーザ,合唱には篠の風さんの姿(斜め後ろからだが)も写っている(→参照)。
20年以上前に死去したポネルの演出は,その後「再演演出」のグリシャ・アサガロフが活を入れているためか,今も生き生きしていて無類に楽しい。81年スカラ座の『セビリャの理髪師』を思い出した。(ポネルの『チェネレントラ』には映画版の映像があり,フォン・シュターデがチャーミングだ。)
今回の『チェネレントラ』は,あと17日・20日(共に2:00)に上演がある。まだの人は見るしか(←iio 調)。
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Jun 13, 2009
90年代後半だったと思うが,個室の寝台車に乗ったときのこと,隣の部屋の人がドアを開けたまま携帯電話で大声でしゃべっていた。ドアを閉めてくれればいいのにと思ったが,少ししてドアを閉めてからもけっこううるさかった。考えてみると,個室で声を出すという状況は携帯電話出現前はほとんどなかったわけだから,隣室との間の壁の防音性はあまり考慮されていないのだろう。
かつては,路上や駅などで,相手の姿がないのに一人で何かしゃべっているというのは,奇異な光景だった。もちろん,「あっ,しまった」「どうしようかな」といった言葉を思わず発するのは自然なことだが,ある程度以上の長さの言葉を声に出すという状況は考えにくかった。
子供のころ,しばしばラジオのニュースらしいものをしゃべりながら歩いている男が町内にいた。いつも「JOAK,東京第1放送です」というコールサインで一区切りとなる。近所のおばさんたちは,あの人はNHKの試験に落ちたらしいと噂していた。
もう10年ぐらい前だが,駅のホームで突然「そのとき捜査本部では」という声が聞こえた。思わず振り返ると,ベンチで文庫本を読んでいたおじさんが発した声だった。少しの間近くにいたが,発したのはその一声だけだった(実際にはその先のフレーズも続いたがすぐフェイドアウトした)。よほど興が乗ってきていたに違いない。かつて読書というのは音読だったという歴史(→参照)を思い出した。
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Jun 10, 2009
79年のロイヤル・オペラ,80年のウィーン国立に続く「三連発」の最後は,81年のスカラ座である。
まだ真夏の9月1日から10月1日まで1か月の間に,オペラが18公演,演奏会A(ヴェルディ「レクイエム」)2回,演奏会B(ロッシーニ「小荘厳ミサ」)が4回で,ちゃんと大阪公演もあり,さらに室内楽が2公演あるという勤勉なツアーだった。来日人数は総勢490人にもなった。
オペラは,
・クラウディオ・アバド指揮
『シモン・ボッカネグラ』(ジョルジョ・ストレーレル)
4回
『セヴィリアの理髪師』(ジャン=ピエール・ポネル)
4回
・カルロス・クライバー指揮
『オテロ』(フランコ・ゼッフィレルリ) 3回
『ラ・ボエーム』(フランコ・ゼッフィレルリ) 7回
(うち大阪2回,横浜1回)
というラインナップだった(かっこ内は演出家)。ヴェルディ2曲,ロッシーニとプッチーニが1曲ずつというイタリア・オペラの精華をバランス良く並べた絶妙のプログラムである。
そして,ご覧のように,指揮・演出が最強,もちろん歌手もよく揃っていて,空前絶後,史上最強,天下無双…。いや,後から思うとむしろ一期一会というべきか,奇跡的に実現した公演だった。
なお,『ラ・ボエーム』については,プログラムにはもう1人の指揮者の名も掲げられていたが,クライバーでなくてがっかりというような話は聞いたことがないので,クライバーがすべて振ったのではないかと思う。
分厚い公演プログラムに,実質的な仕掛け人と思われる佐々木忠次氏(現NBS常務理事;若々しい写真が載っている)らによる座談会があって,公演実現までの裏話が披露されている。それによると,1966年に仮契約をし,当初は公演は68年の予定だったという。
もし,公演が予定通り68年だったら,あるいは延びても73年以前だったらどうだっただろう。学生だった私はたぶん公演を見ることはできなかった,という個人的なこともあるが,1ドル360円の時代だし,日本の音楽界としても,オペラの引っ越し公演の経験はベルリン・ドイツオペラ(1963年)しかなかったから,受け入れ体制を整えるのは非常に難しかったのではなかろうか。オイルショックを経て,公演が結局1981年になったのが,結果的には幸いした。
当時メールはおろか70年代後半まではファックスもなく,手紙は航空便で5~10日かかっていたし,国際電話はきわめて高価だった。たぶんテレックスが活躍したのだろう。しかも相手はイタリア人である。交渉・連絡が,ロイヤル・オペラ,ウィーン国立のときに比べて数倍たいへんだったことは,想像に難くない。
もちろんワープロもエクセルもないから,500人近い団体の旅行と宿泊,舞台装置の運搬の手配は複雑をきわめたはずだし,メンバー表を作ってプログラムに掲載するだけでもたいへんな手間がかかったのだろうと思う。
(この項つづく)
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Jun 07, 2009
オペラ演出家のボリス・ポクロフスキー氏の訃報(6月5日)が新聞に載った。享年97歳。
ポクロフスキーの演出は,ボリショイ・オペラの来日公演で『エウゲニ・オネーギン』(2回),『ジャンヌ・ダルク』『イーゴリ公』のほか,91年にはモスクワ室内オペラという実験劇場のような団体の『劇場支配人』『賭博師/ラヨーク』(ショスタコーヴィチ)を見た。91年のときは79歳だったはずだが,会場にその巨体を現し,元気に拍手に応えていた。
今月また,といっても14年ぶりにボリショイ・オペラの公演(→参照)があるが,今回の『オネーギン』は新しい演出である。
ついでといっては申しわけないが,音楽評論家の黒田恭一氏が5月29日に死去した。ジョン・カルーショーの「指輪」手記の最初の翻訳(→参照)などずいぶん昔から活躍しているが,また71歳だった。
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Jun 04, 2009
汐留へ行ったついでに,松下電工改めパナソニック電工のミュージアムで開かれている「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 恵みの居場所をつくる」(→参照;6月21日まで)という展示を見た。建築の写真が中心だが,遺品のほか,軽井沢の山荘の内部の再現もある。20棟あまりの建物がある神戸女学院の模型は,特に印象的だった。
ヴォーリズは,何よりもまず宣教師であり,布教のために建築家として教会や学校を建て,「メンソレータム」の事業を起こした。建築については,リチャード・ロイド・ライト(自由学園明日館,旧帝国ホテルを設計)のような完成された技術を持つ大家ではなく,結果だけ見ると「素朴派」のように見える。それだけに,展示のタイトルにあるように,大きな建物でも個人の居場所がちゃんとあるようなほっとする空間が快い。なにしろ25歳で来日したのだから,実地経験を重ねながら,持ち前のセンスを磨いてきたのだろう。
神保町近くにも,ヴォーリズの作品として,「山の上ホテル」と「主婦の友社本社ビル」がある。後者は今残っているのは外観だけだが。ほかに,かつてはお茶の水・水道橋間のお堀端にあった受験生の宿「日本学生会館」もヴォーリズだと初めて知った。これは,元「日本文化アパートメント」という高級アパートだったそうだ。
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Jun 01, 2009
「METライブビューイング」の今シーズン最後の演目『チェネレントラ』に行ってきた。2月の『オルフェオとエウリディーチェ』に続いて2回目である。『オルフェオ』よりだいぶ長く,トーマス・ハンプソンによる口上と歌手へのインタビュー,休憩などを含めて3時間20分の上映で,小さい会場ではあるが満席の盛況だった。
5月9日収録の舞台で,聞きもの・見ものは,タイトルロールのエリーナ・ガランチャ。ロッシーニのアジリタが鮮やかなのはもちろん,ゆっくりの歌も立派で,しかも原作どおり(!)の美人でHDのアップに耐える。王子役はローレンス・ブラウンリーで,背が低いのが唯一の難。ガランチャという人は初めて,と思ったが,調べたら2003年の新国立劇場の『ホフマン物語』でニクラウス/ミューズをやった人だった。
今月は新国立劇場で『チェネレントラ』がある。こちらも期待していたのだが,これと比べてしまうと……。別の楽しみがあるだろうと頭を切り換えることにしよう。
METライブビューイングの次のシーズン(今年10月から)のラインナップも発表され,予告編をやっていた。『トスカ』『アイーダ』『トゥーランドット』など,ポピュラー路線である。来年2月の『シモン・ボッカネグラ』ではドミンゴがバリトン役(としか言ってなかったが,もしかしてシモン?)を歌うという。(その後,上記ホームページに次シーズンのラインナップが掲出された。)
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May 30, 2009
・写真をクリックすると大きい写真が出ます。
◇神田祭@神保町三井ビル(8日)
――北西側に神酒所
――ロビーには御輿
◇20日,麺祥来が開店(すずらん通り南)
◇「神田神保町エリア便利帳」が登場
◇錦町更科 5月はなんと婚活メニュー
★「本拠地」の「神保町昼食ニュース6月号」は6月1日に掲出しました。
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May 26, 2009
元高見山の東関親方が間もなく定年を迎えるので,5月場所が最後の本場所となった。
今の国技館ができる前の蔵前の国技館で,西の花道のすぐ脇の席で本場所を見たことがあるが,そのときいちばん印象に残ったのは,高見山と貴ノ花(先代双子山親方)だった。小さいと言われていた貴ノ花も実は身長は 182cm あったという話は前に書いた(→参照)が,それと比べるまでもなく高見山は確かに巨大だった。公式記録では 192cm,205kg だから,その後さらに大きい力士は曙など何人も登場したわけだが,間近で初めて見る高見山は小山のよう,あるいは牛のようだった。
高見山が相撲以外で印象に残っているのは,初めての小型ワープロ(専用機)My OASYS のコマーシャルである。あの巨体,にこやかなひげ面としわがれ声,そしてワープロという最新機器――おもしろい組み合わせだった。
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May 23, 2009
先述の『赤穂浪士』の次の大河ドラマは『太閤記』だった。昨秋亡くなった緒形拳が秀吉,というより「サル」の役でテレビ・デビューした。『赤穂浪士』でできた習慣で『太閤記』も最初のうちは見ていた。音楽は入野義朗で,「ドーーミレドレララーー」という明るい大らかなテーマ音楽の冒頭が記憶に残っている。
次の『源義経』はほとんど見なかったが,その次の『三姉妹』はときどき見た。旗本の娘3人(架空の人物)が幕末から明治初期の激動の時代を生きていく物語である。岡田茉莉子演ずる長女が,明治になってしばらくして,舞踏会へ出かけるためだったか,初めて洋装になるシーンがあった。それまでの着物姿から白いドレス(モノクロだから白としか見えなかった)になって登場したときは,美しさに息をのんだ。明治の欧化を視覚化するまことに鮮やかな変身だった。
その後は,大河ドラマはもとより,テレビでドラマを見るということがほとんどなくなってしまった。
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May 20, 2009
近くの住宅街の中に,なかなか良い蕎麦屋がある。去年の秋のある休日に,そこへ昼食に出かけたところ,見慣れないおばさんが店員をしていた。どうやら臨時に手伝っているらしい。
ものごとをひとつずつしか処理できない人で,「山菜の天ぷらとヱビスビール」と注文しても,「えーと,山菜の…」と言いながら伝票に書いているうちに,ビールのことは忘れてしまう。「辛味大根のソバ」と言っても,「おそばですか,うどんですか」と聞き返してくる。
そういう人って時々いるよなと鷹揚に構えてはいたが,伝票に担当者の名前の欄があるらしくて,書きながら「えーと,あたしはスズキで」と声に出したのにはちょっと驚いた。だれも名前を尋ねたりしていませんって。
その店にはその後何度か行ったが,スズキさんには会っていない。
(スズキというのは仮名です。そういう普通の名字でした。)
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May 17, 2009
私の中学は,払い下げになった旧日本海軍の施設をそのまま使っていて,目の前は岸壁だった。湾の向こうには,引退した南極観測船「宗谷」が停まっていたりした(→参照)。
吹奏楽部は,秋の運動会で行進演奏をするので,夏には岸壁沿いの道でその練習をした。夏休み中の行進の練習のときのことだった。休憩時間に,当時ホームランの量産を始めていた王貞治の一本足打法の話になり,1年上のクラリネット奏者がその真似をした。彼はバットの代わりにクラリネットを持って,スイングした。もちろん,フルスイングしたわけではなく,彼としてはほんの形だけのつもりだったと思う。しかし,あろうことか,クラリネットの上半分が離れて飛んで,海に飛び込んでしまったのである。
木の楽器だから浮くかと思ったが浮いてこない。学校の周辺の海に入るのは厳禁されていたが,潜りに自信のある者が2人ほど飛び込んで探した。海水パンツやメガネを用意してからなので,たぶん翌日のことだったのだろう。しかし,軍艦が使っていた岸壁だから海は深く,しかも濁っていて,結局見つからなかった。
その1年後,学校は海のそばから丘の上に移転した。旧校舎での最後の練習の日,トランペット奏者が海に向かって別れのファンファーレを吹いた。
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May 10, 2009
NHKテレビの「大河ドラマ」の第1作は『花の生涯』(最初,「鼻の障害」と変換された),第2作は『赤穂浪士』(1964年)だった。『花の生涯』はほとんど見なかったが,『赤穂浪士』はかなり見た。この年の東京オリンピックをきっかげにカラーテレビがかなり普及したのだが,うちは白黒(当時,モノクロという言い方はなかったと思う)だった。
大石内蔵助役は長谷川一夫だった。内蔵助の「おのおのがた」という口調が,ちょっとした流行語になり,学校でも何かというとふざけて「おのおのがた」と呼びかけるやつがいた。若い浪士の矢頭右衛門七役は,「高校三年生」の大ヒット後間もない舟木一夫だった。(あれ,2人は同名だったのか。)
印象深いのは,芥川也寸志のテーマ音楽である。リズムはオスティナート風に一貫していて,4拍子の2拍目にパシッというムチ(?)の音が入る。テーマが繰り返されるとそこに対位旋律が絡んできて,寄せては返すような起伏が作られていた。
ずっと後に,原作の大仏次郎『赤穂浪士』を読んだ。ストーリーはもちろん史実通りだが,タイトルが示すように浪士たちの姿を描くのが物語の中心である。多くの浪士は単独でそれぞれに生活している。そのばらばらの動きが,討ち入りに向けてまとまっていくさまは,まさに小川が合流して大河になるようで,巻を措くあたわずという感じで読んだ。
ずいぶん時間がたっていたので,読みながらテレビの場面を思い出すことはほとんどなかったが,架空の人物である蜘蛛の陣十郎については,宇野重吉の顔を思い浮かべた。
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May 09, 2009
学生時代にメンデルスゾーンの弦楽八重奏曲変ホ長調を初めて聞いて,はつらつとした若さがわき上がってくるような音楽に感動したが,それが作曲者16歳のときの作品だと知って驚いた。モーツァルトは6歳で作曲を始め,8歳で交響曲を書いたのに対し,メンデルスゾーンが本格的に作曲を始めたのは11歳のころだというが,十代半ばでの音楽の成熟ぶりは,私見ではモーツァルト以上である。
有名な『夏の夜の夢』の序曲も17歳のときの曲で,これが,オーケストラで演奏したことのある曲の中で,作曲者がいちばん若いときの作品となっている(モーツァルトの29番より前の交響曲はやったことがないので)。
『夏の夜の夢』の序曲以外の付随音楽は三十を過ぎてからの作曲で,序曲の16年後のことだが,続けて聞いてまったく違和感がなく自然につながっている。悪く言えばその後進歩がなかったのかもしれないが,それも早「熟」の故だろう。
ちなみに,演奏したことのある曲で『夏の夜の夢』序曲に次いで作曲者が若いころの作品は,上記モーツァルトの29番とリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番(共に18歳)である。シュトラウスはホルン協奏曲を2曲書いているが,第2番を書いたのは,第1番の実に60年後だった。
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