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June 2004

Jun 30, 2004

トリネコとコラリオン

 『ヴァルキューレ』第1幕で,一人の老人(ヴォータン)がトネリコの木に剣を突き刺したことが語られる。昔,このトネリコというのを文字でのみ見て,トリネコだと思っていた時期がある。間違っていた時期は長くはないのだが,その後も「えーと,鳥猫じゃなくて…」と一瞬迷うことがあった。
 『マイスタージンガー』に出てくるニワトコと混同しそうになったこともあった。いずれにしても現物を知らなくて現実感がない。トネリコは英語ではash(「灰」のashとは別語)で,バットや家具にするそうだ。

 もっと昔,中学生のころ,ベートーヴェンの序曲「コリオラン」を「コラリオン」だと信じていた。クルマ用品のクラリオンというのはすでにあったから,そのせいかもしれない。それがある日,ラジオで放送され,アナウンサーが「コリオラン」と言ったのでぶったまげた。

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Jun 28, 2004

夏の夜の夢

 ちょっともたもたしているうちに1週間以上たってしまい,「当日」を過ぎてしまったが,6月24日は西洋ではヨハネ祭,すなわち洗礼者ヨハネの祝日である。英語でのこの日の別名はmidsummerで,要するに夏至であり,冬至の祭りと結びついたクリスマスと対になる。
 洗礼者ヨハネというのは,『サロメ』でヘロデ王の命令で首を切られるあの人である。キリストに(ユダヤ教の)洗礼を授けたから「洗礼者」(バプテスマ)と呼ばれ,キリストのいとこということになっている。もちろん,十二使徒の一人で福音書の著者とされるヨハネとは別人である。
 ヨハネ祭といえば,そう,『ニュルンベルクのマイスタージンガー』はこのヨハネ祭の日に行われる歌合戦と,その前日の物語である。この季節は,梅雨時の日本と違って非常にさわやかな季節であり,一方で,ヨハネ祭前夜(英語ではMidsummer Eve)は,らんちき騒ぎの夜,魑魅魍魎の活躍する夜というイメージがある。『マイスタージンガー』第2幕も,シェイクスピアのA Midsummer Night's Dreamもそれを下敷きにしている。
 ヨハネという名は,英語ではJohn(そのnicknameはJohnny,Jack),ドイツ語ではヨハンJohann,ヨハネスJohannes,その変形がハンスHans(さらにその愛称がヘンゼルHänsel)である。だから,『マイスタージンガー』第3幕でダーヴィットが気づいたように,ヨハネ祭はハンス・ザックスの命名祝日でもある。

 午前3:45に起きて生中継を見る元気はないが,ポルトガルのUEFA EURO 2004は,ニュースやスポーツ新聞で見るだけでも興奮するような試合が連日行われている。妖精パックが,midsummerだけでなく3週間にわたって大規模ないたずらをしているようだ。

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Jun 19, 2004

5チームのリーグ戦

 近鉄とオリックスの合併が報道されたのは13日(日)夜,巨人を分割して一方をパリーグにという「飯尾構想」が発表されたのが14日午前2時すぎ,それを受けて(!?)『朝日新聞』は15日朝刊の社説で「巨人を分割したら」と書いた。
 さらにその尻馬に乗ったのが『東京新聞』18日朝刊で,普通の新聞の中でもっとも週刊誌的または野次馬的な「こちら特報部」という欄で朝日社説の「巨人分割案をマジメに検証」している。そこではチーム名は「東京巨人」「大阪巨人」で,大阪巨人は,現巨人の中の関西出身者と近鉄の一部メンバーで構成されている。
 最初は冗談と思ったが,実はナベツネさえその気になれば意外と容易に実現するかもしれない。まことにiioさんの慧眼である。

 でもまあ,その前に,5チームでのリーグ戦というのはどうなるだろう。
 6チームが5チームになると,組み合わせ(カード)は15種から10種に減る。これが魅力減のいちばんの要因で,実際にはインターリーグをやるしかないと思うが,とりあえずそれはなしにして普通に各チーム140試合とすると,総試合数は420から350に減る。(逆に1カードあたりの試合数は28から35に増える。)
 現在は1日に3試合できるので,所要日数は420÷3で140日だが,これが5チームになると1日に2試合しかできないので,350試合行うのに175日かかる。だからナベツネは「ダブルヘッダーやらないとできない,それじゃ選手がかわいそう」と言ったのだろうが,考えてみると,あぶれた1チームは休みだから,びっしり連日のシングルゲームのスケジュールでも各チームは3日に1日は休みとなり,それほどの無理は出ないのではなかろうか。
 実際には6連戦のあと3日休みということが多くなり,移動や雨の時の処置が大変になるということはあるだろう。

 この件で思い出したのは,東フィルと新星日響の合併。「人員削減なし」でスタートし,メンバー表には今も他のオケの7割増しぐらいの人数が載っているのはまあ立派といえるかも。もっとも,オケは「対戦」するわけではないので,1チーム減っても全体への影響は少ない。

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Jun 17, 2004

The Wonderland of Ozu

 友人と話をしていて,小津安二郎の映画とその舞台,特に日本家屋が話題になったことがあった。年末年始の生誕100年記念の小津作品放映を見ていて,伝統的な日本家屋に住んだことのない子どもたちは「はたきをかける」という言葉がわからなかったという。
 畳の部屋があれば「ふとんを敷く・上げる」というのはわかるかもしれないが,「雨戸(を閉める)」「蚊帳(かや)(を吊る)」「縁側(に腰掛ける)」「なげし」「欄間」「卓袱台」といった事物・表現はもはや死語となった。
 それに比べると,食べ物・飲み物はパッケージが変わっても今もあるものが多いが,「一本つけてもらおうか」なんていうせりふはピンとこないだろう。

 小津映画の常連・笠智衆は,神奈川県某所の私の通った高校へ行く道の近くに住んでいた。一人で歩いているのを,学校の帰り道に何度も見かけた。テレビに出ていたから知っていたわけだが,小柄の,ほんとうに普通のおじさんだった。戦後の名作の数々の撮影から十数年後だったことになる。

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Jun 13, 2004

An American in Bukuro

 数年前,池袋の大衆居酒屋のカウンターにいたところ,西洋人の男が2人入ってきた。隣に座ったので,どこから来たのかと英語できいたが,大きい方の年上の男が,英語はわからない,ドイツ語ならわかる,とロシア語やドイツ語で答えてきた。(ロシア語がわかったわけではないけれど,結果としてだいたいそういう意味だった。)
 それでその2人は,聞いてみるとなんと,東京芸術劇場で翌日演奏するサンクト・ペテルブルクのオーケストラのチューバとトランペット奏者だった。ソ連時代の音楽家は東ドイツとの交流がかなりあったので,ドイツ語なのだろう。私がキーロフ・オペラの来日公演を何度も見た,といったら,いろいろな音楽団体・オペラがひとつの劇場組織(ein Theater)になっているというようなことを一生懸命説明してくれた。
 急いで付け加えるが,私のドイツ語は,英語で言えば中学1年の3学期ぐらいで,ほとんど現在形のみという代物だが,向こうのドイツ語もまあ中学2年の後半ぐらいで,なかなかの「好勝負」だった。

 同じ店に米国人が1人でやってきて,隣になったことがあった。北京駐在で仕事をしていて,休暇で初めて日本に来たという。本名Pikeで,中国語表記「白…」という名刺をもらった。
 中国語ができるから,漢字の知識がある。壁にかけられた札の「若鳥立田揚」(こういう字で書いてあった)を見て,自分の知るところでは若鳥というのは young bird の意味だと思うがあれは何だ,というので,Tatsuta は地名(だったと思うが…)であり,a kind of fried chicken 云々と説明した。(あとで中国語のできる同僚にきいたところ,「揚」という字には油で揚げるという意味はないとのこと。)
 もっとも彼は,私との話は半分上の空で,掃きだめの鶴ともいうべき美人の店員Mちゃんの方ばかり気にしていた。

 同じく池袋で,これは今年の3月ごろのことだが,焼鳥屋のカウンターにいたところ,西洋人の三十代ぐらいの男が1人でやってきた。英語のメニューはないかなどと(英語で)言っているので,横から口を出してメニューの概要を説明してやった。
 ヨーロッパで仕事をしてシドニーに帰る途中で,東京には初めて寄ったという。おおらかなオーストラリア英語で,today はほんとに to die と発音する。シドニーにも日本料理店は多いが,自分は生ものは苦手で,焼き鳥でよかったとのことで,何の店なのかもわからず入ってきたらしい。
 けしからぬことに日本酒を知らないというので,少し分けてやったらけっこう気に入って,自分で注文していた。
 彼が帰ってからマスターが,通訳料です,といってお銚子1本サービスしてくれた。

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Jun 09, 2004

ニコライ・ギャウロフ追悼

 6月4日だったと思うが,帰宅して開いた夕刊で,ニコライ・ギャウロフが74歳で死去したことを知った(詳しくは→ここ)。記録を繰ってみると,私はギャウロフを6回聴いたらしい。
 初来日は確かNHKホールができた1973年のイタリア・オペラだったと思う。NHKホールで歌って,自分の声が吸い込まれていくようだ,と語ったという記事が妙に記憶に残っている。

 私が最初に聴いたのは1981年のスカラ座初来日のときのフィエスコ(『シモン・ボッカネグラ』)。このときは,スカラ座というもの全体に圧倒されて,個々の歌手がどうだったのかは印象が薄れてしまっているが,プロローグとオペラの間に横たわる25年の歳月をつなぎ,ドラマをまとめたのはギャウロフの存在感だった。
 次が1982年にウィーンで見たバンクォー(『マクベス』)で,出番は第2幕まで(途中で殺されてしまう)なので第2幕のカーテンコールに一人で登場し,万雷の拍手を受けていた。
 最後は1999年の藤原オペラのコッリーネ(『ラ・ボエーム』)で,ミミはもちろんフレーニ。もう70歳近かったわけだが,かつて書いたように,舞台上での身のこなしは十分若者だった(フレーニはかなりドタドタだった)。

 これまでに私は,たいした年ではない歌手の思いがけない死や,晩年にちょっと聞いた大歌手の死というのには何度か出会ったが,好調の時期を含めてたびたび聴いた大歌手が老齢になってから死んだというのは,ほとんど初めての経験である。

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Jun 07, 2004

神保町昼食ニュース6月号

 「本拠地」の「神保町昼食ニュース」の章に,6月号を掲出しました。(こちらはほとんど純粋に「昼食ニュース」)

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