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August 2004

Aug 29, 2004

食堂車にて

 今は昔,新幹線に食堂車があったころの話である。山陽新幹線の岡山から乗り,しばらくしてから食堂車へ行った。食堂車は,2階建て車両の2階にあった。
 斜め向かいのテーブルに中年のおばさん3人のグループがいて,にぎやかにおしゃべりしている。この世でおばさん3人ほど強いものはない。飲んでいるわけではないが,話し声はセンプレ・フォルテで,しばしばギャハハハと笑いころげ,うるさいことおびただしい。いい加減にしてくれないかな,思い始めたころ,そのなかの1人が急にまじめな顔になって「何時に着くんだったかしら」という。他の2人もわからず,ウェイトレスをつかまえて「京都はまだですか」と尋ねる。ウェイトレスは一瞬きょとんとした後に,「あの,もう過ぎたんですけど。」
 3人組は「えーっ」「次はどこ?」「どうしよう」などと叫んで大混乱になり,この期に及んで急いでもしょうがないのに大あわてで勘定を払って嵐のように去っていた。私は「自業自得」とつぶやき,もう食べ終わろうとしていたが,ビールを追加した。

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Aug 28, 2004

アテネの白い星印

 先週書いたように,時差6時間(夏時間)のアテネで夜になってわかる結果を,新聞は,朝刊に載せるために大奮闘している。23日午前0時にスタートした女子マラソンは,結果が出たのが2時半で,一般紙は朝刊に野口のゴールのカラー写真を載せた。スポーツ新聞は,スポニチの場合,ゴールでなく途中(20km付近)の写真だったが,もちろん結果はちゃんと特大見出しで書いてある。
 駅で買ったそのスポニチをじっくり読んでから会社へ着いてみたら,会社に来ていた宅配用のスポニチには,まだ結果が出ていなかった。スポーツ新聞はもともと宅配用と駅売り用では紙面がが異なる(普通は要するに宅配用のテレビ番組欄が駅売り用ではいかがわしい記事になっている)が,この場合は,配達にかかる時間の分だけ駅売り用は刷り上がりは遅くていいという時間差を「利用」したことになる。これだけ紙面が違うと,つっこむのはいいとして,他の記事を動かしたり縮めたりするのが大変だが,しかしまあ,マラソンの場合,結果がわかる時間がはっきりしているから,準備しておいて対応したのだろう。(1週間後の30日未明,同様のことが男子マラソンで繰り広げられる。)
 なお,1面左上欄外の表示は,私の買った駅売りは「11版B」,会社に来ていたのは「11版B☆」で,白い星印ひとつの違いだった。

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Aug 22, 2004

7周年&9周年

 この世界(といっても人によって違うが)の先駆者にして達人かつマメ人であるiioさんのサイトCLASSICAが,開設9周年を迎えた。パソコン・ネット関係の時の流れの速度は通常の7倍,という「dog year説」によれば63年に等しいということになり,悠々自適の年だが,CLASSICAは毎日新しく,iioさん自身も草サッカーの現役フォワードで若々しい。
 まことにおめでとうございます。

 iioさんに2年遅れて97年にスタートした小生のサイト(「本拠地」のほう)も,実は忘れていたのだが,去る8月10日に7周年を迎えた。開設のときは,ある大仕事の山場を迎え,修羅場状態で,かつて試験前になると関係ない本を読みたくなったのと同様の感じで,半ばやけになってサイト開設の作業をした。その仕事が終わった日,秋葉原にかけつけて最初のデジカメを買った。
 昨年夏は,その大仕事の次のバージョンの修羅場だった。ただし,6年たつと修羅場の様子もだいぶ変わり,かなりの部分がパソコンの中の格闘だった。そんな話になったとき,iioさん曰く「なるほど,e修羅場ですね」。

 97年夏,OSはWindows95,CPUはたぶんペンティアム150だったと思う。その後7年間に見たオペラは107回だった。

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Aug 21, 2004

がんばれ,スポーツ新聞

 今週は,帰宅が毎日11時過ぎだった。しかしそれは,アテネで柔道や水泳の決勝の始まるゴールデンタイムだった。おかげで,柔道の大部分と,もう少し時間が遅かったが北島の金メダルの瞬間を,ナマで見ることができた。これだけ毎日金メダルというのは,今後たぶん経験できないだろう。暑さとあいまって,当然寝不足である。

 そして朝は,ワールドカップのときと同様,スポーツ新聞を買う。ふだん,平日は会社で読めるので,買うのは土日だけであるが,今は特別。オリンピック以外にも,高校野球やパリーグ再編問題,松井とイチロー,ぼろぼろの巨人,辞任後のナベツネなど,読むところはたくさんある。
 だいたい日本時間で午前1時半ごろまでのことは,翌朝の新聞に間に合うようだ。カラー写真もちゃんと載る。きっと編集局は戦場の騒ぎなのだろう。がんばれ,スポーツ新聞。しかし,体操男子団体と,今朝の柴田(女子800メートル自由形)の金メダルは,翌朝には間に合わなかった。
 より詳しくいうと,体操のときは,一般紙も朝刊には間に合わず,夕刊のトップになった。スポーツ新聞は翌日,1周遅れで追いかけた。「予想外」だった柴田については,一般紙では(たぶん都内版だけ)間に合ったが,なんとか1面だけ形をつけたものの,2面以下では触れられていない新聞もあった。スポーツ新聞では,スポニチの場合,よく見たら2面の中村礼子銅メダルの記事の最初の所に,「柴田 金」という小さい見出しがはめこんであった。しかし,いくら捜しても記事はなく,いかにノーマークで準備されていなかったかがわかる。明日,ゆっくり拝見しよう。

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Aug 15, 2004

20年前――ロサンゼルス,アイスランド,モーツァルト

 40年前の東京オリンピックは,もちろん思い出深い。新聞記事を切り抜いてせっせと貼った大判のスクラップブックが2冊や,アサヒグラフの別冊,それに1000円の記念硬貨などが,実家にあるはずだ。

 しかし,それと別の意味で印象に残っているのは,20年前のロサンゼルス・オリンピックである。期間中の1984年8月10日(現地時間),友人Fが,ヨーロッパの北西の隅のアイスランドで,事故で亡くなったのである。
 Fは当時アメリカに住んでいて,そこからアイスランドに地質調査のために出かけ,氷河のとけた濁流にジープごとのまれたのだった。日本の関係者にFの遭難が伝わったのは12日で,翌13日の新聞で報道された。その朝刊は,オリンピックの柔道で優勝した山下泰裕選手の記事で埋まっていたが,その片隅で,しかしかなりのスペースで事故が報ぜられ,ひげを生やしたFの不鮮明な写真がほほえんでいた。

 Fは大学のサークルの1年上級生だから,私は話し言葉では「Fさん」と呼ぶ。しかしそれ以外に学年の違いを示すものはない。私の学年と1年上のFの学年は,大学紛争の時代の混乱の中でサークル活動を維持するために奔走した「戦友」であり,ある同級生の言葉を借りれば「泥沼的結束」を誇ってきた。
 私たちはしょっちゅうFの家に出入りし,Fの家族とも親しくなった。その結果として,私を含めて仲間3人が,結婚に際してはFの両親に媒酌人を頼んだ。

 私たちの結束の中心人物のひとりだったFの死の衝撃は大きかった。8月19日,成田へ遺骨と家族の帰国を迎えに行った。8月23日に執り行われた葬儀では,友人たちがモーツァルトの室内楽の緩徐楽章を演奏した。作曲者が若いころの曲ではさほどでもなかったが,晩年のクラリネット五重奏の第2楽章になったら涙が止まらなくなった。長調の曲があんなに悲しく響いたことはなかった。

 その後私は仲間たちの有志と共にFの追悼文集を編集し,一周忌の日に彼の霊前に捧げた。追悼文集には,海外を含め50人近い人が,事故当時1歳半だったFの長男のためにという思いをこめて寄稿し,Fの人生の充実ぶりを後生に伝えることとなった。

 日航ジャンボ機の墜落は,一周忌の直後の8月12日だった。私たちはFの家族と,520人の犠牲者のすべての家で同じような悲しみのドラマが生まれたのだろうね,と語り合った。とても他人事とは思えなかった。
     ――柔道で谷亮子・野村忠宏が優勝した日に記す

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Aug 14, 2004

夜の海

 テレビでアテネ・オリンピックの開会式をやっている。
 スタジアムのフィールドに海が出現し,また引いていったのにびっくり。マーチらしくないのべつ幕なしのリズムの曲にのっての入場行進,うーむ200か国以上ですか(東京では93か国)。
 ただし,見ているのは再放送。現地の夜8時が日本では午前2時で,夜の競技は堅気の勤め人にはきつい。午後の競技は夜見られてちょうどいいのだが。

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Aug 08, 2004

ヴィシー風に

 藤岡屋さんを見習って,夏の料理の話題をひとつ。
 私の夏の定番料理はヴィシソワーズ,要するにジャガイモで作る冷たいクリームスープである。ほとんど毎週末に作り,火曜日ぐらいまで食べる。多少の手間はかかるが,フードプロセッサーがあればたいしたことはないし(私はほとんどこのためだけにフードプロセッサーを買った),技術もあまりいらない。
 材料は,ジャガイモ1袋(1kg弱ぐらい。皮をむいてざくざくと切る),タマネギ(大)半個(薄切りにする),牛乳3カップ,スープ(市販のコンソメスープの素で作ればよい)3カップ,バターと調味料。

(1) 鍋にバターを溶かし,タマネギとジャガイモを入れ,牛乳を注いでそのまま,ジャガイモがくずれかけるまで弱火でゆでる。
(2) フードプロセッサーにかけてクリーム状にする(あわてずに少しずつした方がよい)。
(3) 鍋に戻して,スープを加え,塩・コショウで味を調える。
(4) 冷やす(私は,流しで鍋の外に水を流し,中にはビニール袋に入れた氷を入れておき,20分ぐらいしたら鍋ごと冷蔵庫に入れる)。
(5) 食べる直前に味を見て調整,好みによって牛乳を足す。パセリを散らしてサーブ。

という非常にシンプルな作り方で十分おいしいと思うが,ものの本によると,生クリームを使う,セロリを入れる,長ネギを少し入れる,パセリでなくセルフィーユをあしらう,などいろいろな流儀があるようだ。
 ただし,生クリームやバターを多く使ったのを,冷たくてのど越しがよくいからといってたくさん食べると,胃にこたえるからご注意を。

 今年はまだやっていないが,だしと白しょうゆ,牛乳で作る和風ヴィシソワーズもなかなかいける。西洋風よりだしを多くして吸い物の感じにするとよい。あしらうのはジュンサイなど。

 ところで,ヴィシソワーズ(Vichyssoise)というのは,フランスの温泉地ヴィシー(Vichy)の形容詞(および住民を表す名詞)である。ヴィシーはスープに名を残すだけならよかったのだろうが,第二次大戦中の親ナチ政権所在地としても名を残してしまった。

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Aug 07, 2004

「新しい」行進曲

 前回書いたように,『ウエストサイド物語』の音楽を中学の吹奏楽部で演奏したのは,曲ができて7年後のことだったが,その他の当時演奏した曲で比較的「新しい」曲としては,團伊玖磨「祝典行進曲」と古関裕而「オリンピック・マーチ」が印象深い。

 祝典行進曲は皇太子(当時)成婚記念に書かれた曲なので1959年,作曲者34歳のときの曲である。そのころ普通の行進曲のパート譜はB6判を横にしたカードのような紙に印刷されていたのだが,この曲の場合はB5判の紙いっぱいに音符が並んでいるのにまず驚いた。
 演奏してみたところ,技術的には中学生・高校生でもちゃんと練習すればできる範囲だったが,オーケストレーション,特に音域や楽器の組み合わせはそれまで慣れていた行進曲とはまったく違っていた。行進曲といえば後打ち専門のホルンにも,後打ちでない部分がたくさんあった。
 もともと行進のためという「実用」とは離れた存在である。トリオの冒頭のシンコペーションのリズムなど,行進していたら足がもつれそうだ。

 オリンピック・マーチは東京オリンピックのための曲なので1964年,作曲者55歳のときの曲である。たぶん作曲の翌年,東京オリンピックの開会式・閉会式の記憶も新たなころに演奏した。この曲のパート譜もB5判だった覚えがある。
 こちらはかなり「実用」の曲だし,楽器用法にはそれほど変わったところはないが,細かいところでなかなか凝っていて,技術的にも体力的にもけっこう大変だった。

 考えてみると,作品の演奏回数・頻度では,古関裕而は今もトップクラスではないだろうか。昨年,何百万人もの人が「六甲おろし」を歌ったのはちょっと別格にしても(実は巨人・中日の歌も作っている),NHKのスポーツ中継のテーマ「スポーツショウ行進曲」,早稲田の応援歌「紺碧の空」,懐メロで必ず登場する「鐘の鳴る丘」「長崎の鐘」,それに「露営の歌」をはじめとする軍歌など,誰もが聞いたことのある曲が多い。今日からは高校野球の大会歌「栄冠は君に輝く」を毎日耳にすることになるだろう。

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Aug 01, 2004

未来都市ニューヨークから

 中学の吹奏楽部で『ウエストサイド物語』のハイライトを演奏したのは1964年だった。I feel pretty,Maia,Tonight の3曲というシンプルな構成だった。
 このミュージカルの完成・初演は1957年だから,できて7年後の演奏だったことになる。当時すでに,Tonight は中学生でも知っていたから,Tonightを中心に「ポピュラー音楽」として早い時期に日本に上陸したのかもしれない。(I feel pretty は知らず,後にレコードを聴いて,こういう速いテンポでやるものだったのかと思った。)

 ブロードウェイのオリジナルキャストによるレコードも出て,しだいに主要なナンバーの数々を知るようになったが,映画を見るまではまさに隔靴掻痒で,ピンとこない部分も多かった。私だけでなく,大部分の日本人にとって,この作品の全体像を知ったのは,ロバート・ワイズ,ジェローム・ロビンス監督の映画によってだろう。
 映画では,群衆の合唱の中で2人だけの世界が浮かび上がるダンスパーティの場面,5人がそれぞれの思いを歌いながら Tonight を再び歌う五重唱など,きわめてオペラ的な場面が非常に印象的である。音楽語法はジャズによっているが,実体はまさにオペラであることを知った。
 日本以外での『ウエストサイド物語』の「古典名曲化」の過程はどうだったのだろう。ちなみに,オーケストラのための「『ウエストサイド物語』による シンフォニック・ダンス」は1960年の作品。

 ものの本ならぬもののサイトを見ると,1964年にブロードウェイの人たちが来日して初の舞台上演を行ったという。その後,日本人による舞台初演は1968年の宝塚で,「男性入り」日本人初演は1974年の劇団四季の公演だそうだ。
 74年の四季版は,その年だったか少し後の再演だったか忘れたが,日生劇場で見た。比較的簡素な舞台装置を背景にした,白いドレスの久野綾希子の姿が鮮やかな印象を残した。

 映画『ウエストサイド物語』の製作は1961年,私が見たのは60年代後半になってからだった。イントロダクションで,空から見たニューヨークの街がしだいに浮かび上がってきて,抽象的な模様のようなものは実は高速道路だったことがわかるという場面がある。ここで見たニューヨークは,当時の感覚では,まったくの別世界であり,未来都市の姿を見ているような気がした。
 東京ではそのころすでに首都高速の一部は開通し,高度成長に伴う「破壊の時代」が始まっていたのだが,街には木造2階建ての店舗や住宅がいくらでもあり,バキュームカー(死語ですね)が走り回っていた。
 ただし,その後の変化は急速で,ニューヨーク(実はまだ行ったことがないが)が私の中で未来都市だった期間は短かった。

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