« May 2005 | Main | July 2005 »

June 2005

Jun 30, 2005

よくぞ女に

 暑くなって

夕涼みよくぞ男に生まれける
という句を目にするたびに,ステテコひとつでうちわを片手に縁側に座っている磯野波平さんのようなオヤジを,長年何となく思い浮かべていた。

 しかし,平成の(昭和後期からか)都会の夏,「よくぞ…に生まれける」という思いを抱いているのは圧倒的に女性ではないだろうか。肩,胸元,背中,腹,脚の大部分を露出すれば,その露出面積の割合はステテコひとつの場合に勝るとも劣らない。
 しかも,ステテコおじさんはさすがに町を歩くわけにはいかないのに対し,女性はかなりの露出度でも町を歩いて特に不自然ではない。

 ところが,冒頭の句は,実は芭蕉の高弟・榎本其角の句であることを,つい2,3年前に知った。江戸時代だと,ステテコではなくて褌?――問題は複雑化した。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 28, 2005

関西弁のハンガリー人神父

 高校の時,ハンガリー人の神父N師に英語を習ったことがある。ハンガリー動乱のときに,貨車の床下に隠れて国境を越えて脱出したという強者で,美しい銀髪と対照的に顔は赤く,一見,赤鬼のような人だった。
 N神父に習う前の年に使った自家製の英作文の教科書に Which do you like better, Bartok or Liszt? というような例文があって,なぜわざわざバルトークとリストが出てくるのか不思議に思ったことがあった。後で聞けば,その教科書の編集の中心になったのはN神父だった。
 N神父の日本語は,最初に神戸で学んだため,ときどき関西弁が交じる。生徒との議論の中で,「そりゃ,あかん」という甲高い声がよく聞かれた。

 数年前,神保町の飲み屋のカウンターにいたとき,隣に中年男と年齢不詳の女性が座った。その男が話していることがきれぎれに聞こえてくる中に登場するのが,ハンガリー人,神父,関西弁,といった言葉だった。
 あれ,と思いつつ聞き耳を立てているうちに,貨車の床下という言葉が出てくるに及んで,思わず「あ,N先生」と口にしてしまった。びっくりして振り向いた隣人は,やはり同窓生だった。

 外国人の関西弁というと思い出すのは,昭和30年代の阪急(という球団が昔あった)の名選手,キューバ出身のロベルト・バルボンである。現役とコーチを引退後,球団の通訳となり,マルカーノのお立ち台でのインタビューのときなどに,スペイン語から関西弁に「直訳」する様子がテレビでも見られた。
 バルボン氏は,今もUHF局の野球中継に解説者として登場することがあるらしい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 25, 2005

チケットの配達

 故・柴田南雄(作曲家)のエッセイで読んだのだと思うが,戦前,新交響楽団(N響の前身)では,定期公演の会員券の配達サービスをしていたという。郵送ではなく「自力」で配達し,もちろん代金を回収するわけである。会員は数百人かはいただろうが,配達を希望する人はその何割かで,地域も東京の山の手寄りの中心部が主だったから成立したものだろう。

 ということは,プレイガイドはまだなかったのだろう。プレイガイドが成り立つには,かなりの数の公演が日常的に行われている必要がある。すると,たまの音楽会の宣伝とチケットの販売はどのように行われたのだろうか。

 と書きながら,プレイガイドという言葉もほとんど死語になったことに気づいた。70年代後半まで電話予約はあまりなくて,有力なオーケストラの来日公演などというと,プレイガイドに徹夜で行列した。繁華街の有力な店のほか,クラシックファンのあまり行かない「穴場」とされていた上野の赤札堂(現ABAB)などに並んだこともある。繁華街の大行列ともなると,ホームレス(という言い方はなかったが)の人が並び,翌朝来た人にその「場所」の権利を売ったりしていた。
 今のNHKホールができる前,N響の定期公演は東京文化会館で行われていた。A・B両チクルス,各2回公演だったと思う。その会員券も,売り出し日の前夜に車を持っている友人宅に泊まって,当日の始発前に並んでようやく入手した。

 チケットの配達は経験がないが,小学生のころ,本を配達してもらったことはある。そのころの本屋さんは,月刊誌を定期購読者に配達していて,そのついでに,取り寄せを頼んだ本を持ってきてくれたりした。
 いま再び,ネット通販という形で,チケットも本も自宅に届く時代になった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 22, 2005

オリヴィア

 オリヴィア・ハッセーが『マザー・テレサ』に主演し,そのキャンペーンのために17年ぶりに来日したという。

 若いころの方が,映画を今よりはたくさん見た。しかし,封切り作品を見ることは非常に少なく,たいていは二番館・三番館で2本立て(以上)になってから見に行った。(『ぴあ』はこうした映画を見るための情報源として創刊された。)その私が新作を見た少数の映画のひとつが,オリヴィア・ハッセーの『ロメオとジュリエット』だった。
 監督はフランコ・ゼッフィレッリだが,後にオペラの演出家としてその名前を知る以前は,この映画の監督の名を特に意識することはなく,私にとってはオリヴィア・ハッセー(ジュリエット)とニーノ・ロータ(音楽)の映画だった。
 オリヴィア・ハッセーは,撮影時「原作どおり」の15歳ぐらい。(後から考えると,徹底的に写実的な演出をするゼッフィレッリならではのことなのだろう。)渋谷のどこかの映画館で,私はその初々しさに息をのんでスクリーンを見つめた。

 それが,数年後に布施明と結婚するとはねェ…。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 20, 2005

荷風――オペラとカツ丼

 荷風と西洋音楽,特にオペラの関わりは,松田良一『永井荷風 オペラの夢』(音楽之友社)に詳しいが,最近になって読んだ瀧井敬子『漱石が聞いたベートーヴェン』[中公新書](中央公論新社)にも荷風についての章があった。
 この本は文豪たちの西洋音楽体験をたどるもので,「森鴎外とオペラ」(本ではもちろん「鴎」の左側は「區」)に始まり,以下,露伴,藤村,漱石&寺田寅彦が順に扱われ,最後の章が荷風となっている。荷風の章は長くはないが,他の人と違うオペラ実践者の面が印象に残る。

 荷風がニューヨークやリヨン,パリでオペラを見たのは,今からちょうど100年前,1905年から08年だった。『オペラの夢』を読んだときも思ったのだが,荷風が見たオペラの作曲家では,ヴェルディは死んだばかりであり,プッチーニやマスカーニはばりばりの現役だった。特に『トスカ』(1900年初演)はまったくの新作だったことになる。
 古典的名作に新作として接した人々の感覚は想像もつかないが,考えてみると,荷風にとっては何でも初めてで,「現代の作品」だからどうこうという思いはなかったのだろう。

 数年前,荷風が毎日のように通った本八幡駅前の「大黒家」で,カツ丼を食べたことがある。グリンピースがのった「古典的」なカツ丼で,かなりのボリュームだった。これを死(1959年)の前日まで食べていたというから,80歳の胃袋としては並ではない。荷風の注文はいつもカツ丼と上新香,酒1合だったという。
 原則として外でパン粉の衣の揚げ物を食べないことにしている私にとって,それがこの10年で食べた唯一のカツ丼である。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Jun 19, 2005

サンカルロ歌劇場『ルイーザ・ミラー』――首相に遭遇

 作曲家ごとの見た回数64回で第1位のヴェルディの曲は,これまでに12演目見ているが,『ルイーザ・ミラー』は今回が初めてだった。演ずるは,これを初演したナポリのサンカルロ歌劇場,メンバーはサッバティーニをはじめ当代一流。楽しみではあったが,いちばん高い席しかとれなかったので,それに見合うだけのものだろうかという不安もあった。
 会場はオーチャードホール。ここは敷地にまったく余裕がなく,ロビーが狭いしトイレも不便,聞いたところでは,楽屋も狭くて階段をさんざん上り下りする必要があり,楽員にも評判が悪い。そんな中で,今日の席は2階左側のバルコニー席で,これはこのホールでのあまり多くないオペラ経験の中では最高の席である。

 開演5分前に席に行ったところ,前の3列がまったく不自然に空いている。あまり売れてないのかなと思っていたら,ベルが鳴ってから近くのドアのあたりがあわただしくなり,ぞろぞろと入ってきたのは小泉純一郎首相の一行だった。イタリア大使と思われる人と隣り合って座り,後ろを関係者とSPが固めた。
0506prime_minister
 首相になってからだけでも,オペラで出会ったのはたぶん3回目である。小泉氏は,首相になる前も含め,日本の政治家としてはもっともよくコンサートやオペラの会場に足を運んでいると思う(ほかに複数回見かけたのは元首相の羽田氏ぐらい)。その政治については疑問も多いが,オペラ好きであることと,同郷だということで,私としては他の政治家とは違う関心がある。ちなみに,首相の母上,つまり小泉純也氏(元防衛庁長官)夫人は,女学校の教師だった私の祖母の生徒だった。

 出かける前に『ルイーザ・ミラー』のあらすじをあわてて読んだところ,最初は『リゴレット』,中間は『椿姫』,最後は『ロメオとジュリエット』という感じ。
 全体がけっこう長い中で,ルイーザは出ずっぱり,ロドルフォも出番は長い。ルイーザは初めて聞くバルバラ・フリットリで,よくコントロールされた美声は第2幕の四重唱で特に際だっていた。そして,相手役ロドルフォはおなじみのサッバティーニ。ピアニッシモの美しさを生かした「テノールバカ」の対極にある知的な歌い方は,10年前に初めて聞いたときと同じだが,今回は声がさらにつややかで,熱っぽさも十分にあった。顔が妙に老けてしまったのがちょっと残念。
 その他の歌手は多少でこぼこがあったが,一応要所を締めるオケ,簡素ながら美しい舞台とあわせて,充実した公演だった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 18, 2005

カルロ・マリア・ジュリーニ死去

 引退してだいぶたっていたのでそれほど驚かなかったが,指揮者カルロ・マリア・ジュリーニが亡くなった。
 最初に聞いたレコード(LP)はマーラーの9番だった。帽子をかぶったマエストロの写真がジャケットを飾っていた。それから,ドヴォルザークの7番,ブルックナーの9番などをよく聞いた。
 実演は,たぶん1回だけ,ウィーン交響楽団と来日したときに聞いた。来日オーケストラの記録が充実している大谷さんのサイトによると,1975年10月4日,厚生年金会館でのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番(p ルドルフ・ブフヒンダー)とマーラー:交響曲第1番という演奏会だったと思う。細部は忘れたが,マーラーは非常に禁欲的で端正で,それだけに,ちょっとしたスパイスが生きていた,というようなかすかな記憶が甦ってきた。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Jun 16, 2005

大きかった貴ノ花

 蔵前にあった旧国技館の西の花道に近い席で,貴ノ花(つまり先日死去した双子山親方)を見たことがある。
 今回の追悼記事でも同様だが,当時の貴ノ花は常に「小さい体で…」「小兵ながら」という枕詞と共に語られていた。確かに他の力士よりは小さい。しかし,貴ノ花の身長は182センチ,体重は90数キロあり,普通の日本人の中では十分に巨大である。実際,花道を行く貴ノ花を間近で見ると,(牛のような高見山ほどではないにせよ)大きいなあと思わざるをえなかった。

 明治時代の幕内力士でいちばん重かった人の体重は,現在の幕内力士の体重の平均以下だという。

 追伸:ATOK君は「貴乃花」としか変換しなかった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 15, 2005

ディミトローヴァ死去

 ブルガリア出身のソプラノ,ゲーナ・ディミトローヴァの訃報が,ちょっと見たところでは朝日新聞にだけ出ていた。
 ナマで聞いたのは,1988年のスカラ座来日公演の『ナブッコ』。当たり役のアビガイッレを,美しくしかも力強い声で歌い,で圧倒的な存在感を示した。(このときの舞台装置の色の美しさは特筆もので,幕が開いたとき,みな息をのみ,次いでため息をついたような気がした。)
 その次は2000年のソフィア国立歌劇場の来日公演でのトゥーランドットとジョコンダで,このときは凛とした声はもうあまり聞けなかったようなかすかな記憶がある。

 このほか,先週は塚本邦雄,今週は倉橋由美子と,気になる(正確には,気になっていたことがある)文学者の訃報が続いた。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Jun 11, 2005

グリニッジ標準時

 かつては,中学に入ると買ってもらえるものの代表が,腕時計と万年筆だった。同じく中学生を象徴する英語の教科書でも fountain pen というのはかなり重要な語だった。腕時計は手巻き(毎日竜頭を回してぜんまいを巻く)で,針が時刻を示す以外の機能はまったくなかった。

 中学2年のころからほぼ3年間,何がきっかけだったのか忘れてしまったが,私は腕時計をグリニッジ標準時に合わせていた。時差は9時間だから,時計が2時半を示すと,あ,11時半だ,というわけである。当時はもちろん反射的に「換算」できた。
 電車のつり革につかまっているときなどに,後ろにいる人がたまたま私の時計を見て,不思議そうな顔をしているのが,雰囲気でわかったこともあった。

 高校に入ってしばらくして,日付が表示される時計に買い換えた。日付は時計の12時にならないと変わらないから,グリニッジ標準時にしていると,朝9時までは前の日の日付が表示される。これではさすがに不便なので,日本時間に戻すこととし,私のグリニッジ時代は終わりを告げた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 09, 2005

神保町の5軒長屋

 神保町の古本屋街の中心部,ビヤホール「ランチョン」の向かいの靖国通り南側(神保町1-7)に,3階建て同じ作りのビルが5つ,肩を寄せ合うように建っていたのだが,5月中旬,そのうちの3軒が取り壊された。跡地にはいまのところ建築予定の表示はない。
 左の写真は昨年10月にたまたま撮ったもの,右は今年6月になって撮ったものである。10月の写真を見ると,左の3軒はこのときすでに閉まっていたようだ。
jmb050601
jmb050602

 残った2軒のうち,メガネ店は今も営業していて,そのビルには特徴的な円い窓が残っているのに対し,もう1軒の「べにの資料館」(これは閉まったまま)のビルは四角い窓に改造されている。この場所は,昔々,ミューズ社というレコード屋があったところだ(本拠地参照)。
 この付近のビルはみな同じ幅になっているところを見ると,かつては,同じ意匠のビルが,向かって左の端の小宮山書店からずらりと10軒以上並んでいたのだろう。今回取り壊された部分の左側の数軒の中で,大久保書店のビルだけが昔の姿を留めている。

[追伸] 「本拠地」の「神保町昼食のページ」6月号を掲出しました。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Jun 06, 2005

レオノーレ序曲なしの『フィデリオ』

(これから新国立劇場の『フィデリオ』を見る方は,ネタばれになりますので,読まない方がいいかもしれません。)

 新国立劇場の5-6月公演は『フィデリオ』。未明のW杯予選バーレーン戦を見て寝不足の状態で初台へおもむいた。
 序曲が始まってすぐ幕が開き,出てきたのは真っ赤な洋服のレオノーラ。これがなんと舞台上で旅行カバンを開いて,ナマ着替えを始めた。男装するという設定の説明としてきわめてわかりやすいが,男装する計画があるなら最初から男の服で家を出そうなものだし,途中で男装するにしても,夫の捜索にあんなに目立つ赤い服を着ていくこともあるまい。
 それ以外は演出はまあ普通,歌手陣も指揮者もおおむね堅実で,ベートーヴェンの真面目オペラとして完結していた。
 レオノーラ役は,別に太っていたりというわけではないが,男装してもとても男には見えなかった。しかしこれは原作のせいでしかたがない。これに対し,フロレスタンは巨漢で,とても死にそうな囚人には見えなかった。

 第2幕第1場,ドン・ピッツァロがフロレスタンを殺そうとするところで,大臣到着のラッパが鳴り,ドン・ピッツァロは逃げ出す。ここはまあ,ご都合主義の解決だからやむを得ないのだが,さっさと殺してしまえばまだ間に合うのに,と思ってしまう。その前に,書類を改竄するとか,いくらでも「方法」はありそうなものなのだが。
 『フィデリオ』を見るのは6回目になるが,第2幕の途中で「レオノーレ序曲第3番」を演奏しなかったのは,たぶん初めてだ。これはマーラーの始めた「ファンサービス」なのだが,大臣到着のラッパをもう一度聞かされるのは力が抜けるから勘弁してほしいとかねがね思っていたので,今回,序曲を入れない演奏を見ることができたのは幸いであった。

 第2幕第2場は,もともと劇が終わった後の大団円でオラトリオ状態だが,今回の演出では,合唱が結婚式の服装で登場した。ここは,そもそもなぜ女性たちが急に登場するのかわからないところ(囚人が釈放になるという知らせが電話連絡網で届いたのか?)だが,結婚式にする必然性は感じられなかった。
 しかしまあ,レオノーレが再び舞台上で赤い服に着替え,最後はベートーヴェンの音楽の力で超法規的なまとまりを見せた。

 新国立劇場は,次の『蝶々夫人』で今シーズンの幕を閉じる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« May 2005 | Main | July 2005 »