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December 2005

Dec 30, 2005

三都物語――(2) 雪のプラハへ深夜着

◇ビールのあるドトール
 日暮里駅のJRから京成への乗り換え階段にはエスカレーターがなかった。JR成田エキスプレスへの抵抗勢力に対するいじめに違いないと腹を立てつつ,トランクを引っ張り上げる。その後は順調に成田空港着。
 一応ツアーなので,団体用の旅行会社別カウンターに「出頭」し,チェックイン。セキュリティ・チェックでは何度もブザーが鳴ってベルトを外されたりした。出国管理を済ませるとあとはヒマで,ドトールで休憩した。ここのドトールにはなんと生ビールがあった。

◇乗り継ぎ4時間
 1:00に予定通り出発した。周りは,前夜トヨタカップで優勝したサンパウロのチームのサポーターたち。日本の新聞のスポーツ欄で前夜の写真を見つけて喜んでいる。
 国際線に乗るのが14年ぶりなので,飛行機の食事やトイレも14年ぶりだし,各座席に液晶画面があっていろいろな「番組」が選べるのも初めてだった。

 現地時間で夕方5時(日本時間午前1時)過ぎ,パリ・シャルルドゴール空港着。やれやれあと少しと思ったのだが,波乱はそれからだった。
 出発案内には雪のためか遅延の便がいくつかあったが,乗り継ぎの6:45のプラハ行きはずっと on time という表示になっていたので,搭乗口前の待合室に入った。しかし,6:30になると突然,「遅れている。8:45搭乗開始」というアナウンスがあった。
 小さな薄暗い待合室で,英字新聞を読むぐらいしかすることがない。7:30ごろ,サンドイッチとジュース類が配られ,少し落ち着いた。
 8:45 にやっと搭乗。しかし,飛び立ったのは9:30ごろだった。機内で,冷たい軽食(ソーセージ,チーズ,パン)が出た。

◇プラハの白タク
 11:15ごろ,一面の雪のプラハ空港に着いた。成田を発ってから18時間たっている。自動両替機でカードからキャッシングしてとりあえずの現金を入手した。ホテルまではツアーの一部として迎えの車があるはずだったのだが,遅延を待つのは1時間半までということになっている。路線バスももう終わっていたが,他の乗客たちといっしょに待っていたらバスが来て,市内まで行くから乗れという。航空会社の手配によるものらしく,無料だった。

 降ろされたのは,地下鉄のひとつの始発駅だった。しかし,地下鉄はもう終わっていて,タクシーもつかまりそうにない。雪が降っているし,なにしろトランクを引きずっているから,簡単に歩き回ることもできない。
 見回すと,すぐそばにかなり大きなホテルがある。そこのフロントでタクシーを読んでもらえないかと頼んだところ,わかった,中に入って待っていろという。しばらくして車が来たというので出てみると,タクシーではなくそのホテルの車だった。ドナウ川を越えてだいぶ走り,予定のホテルまで連れて行ってくれた。「料金」を言われて払い,チップも渡した。要するに「白タク」をやってくれたわけである。

 1:15に,ようやくホテルにチェックイン。長い1日だった。

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Dec 29, 2005

三都物語――(1) 序

 久しぶりに日本を出て,プラハ,ウィーン,ブダペストの3都市を巡ってきた。

 75年から91年までの16年半の間に7回海外へ出かけているから,その間は2.75年に1回の割合になる。最初の2回は成田空港ができる前で羽田出発だったとか,77年のときはヨーロッパから南回りで23時間半かかって帰ってきたとか,今思うと貴重な体験もした。
 しかし,1991年暮れにオーストリアに出かけた後は,14年間,どこにも行く機会がなく(必要もなく)過ごした。したがって,今回はEU発足後初めての訪欧である。
 ただし,訪れた3か国のうち,チェコ,ハンガリーはEUに加盟したものの,通貨統合はまだで,それぞれ両替する必要があった。

 今回は,往復の飛行機と上記3都市間の列車,および中級ホテル宿泊のみがセットされたツアーを利用した。ツアーとはいうもののまったくの単独行動である。年末のハイシーズンの前で料金は安く,これだけを見ると国内旅行より安いくらいである。実際にはほかに,最低限,昼食・夕食代がかかるが。

 寒くて日が短いのは,覚悟していたとおりだった。どこでも,クリスマスの飾りやイルミネーションが出迎えてくれた。6夜のうち4回オペラを見た。クリスマス・イブにはすべてが閉ざされて何もすることがなく,翌日はクリスマスの音楽つきミサを体験した。

 モデムをレンタルして持って行ったが,ネット接続は結局できなかったので,現地でのブログへの書き込みはできなかった。パソコンは,メモ帳と写真のストレージ装置としてのみ役立った。

 以下,少しずつ報告を記す。

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Dec 19, 2005

神保町のクリスマス '05

今年の神保町三井ビルの明かりです。
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Dec 17, 2005

“気”を送る

 中学・高校の同級生Sががんで死んだ。
 Sは在学中は野球部の選手で,誰よりも元気なやつだった。会社勤めのほか,議員秘書,選挙参謀など,いろいろな仕事をした後,五十を過ぎてから小説の本を3冊出した。よりによってその元気なSが,昨年9月,余命6か月を宣告された。
 その直後の私は出られなかった同期会では,

是非とも「がんばれS」を同窓生のクラスメイトの心の中で三度繰り返して唱えていただければ幸甚です。もちろん,口に出していただければ,更に幸いです。周囲の方の善意の気が,快方に向かわせることが,まま,あるそうですから。もう,奇跡しかありませんので。

という幹事あてのメールが紹介され,母校で国語教師をしている同期生が書いた「がんばれS」という横断幕と共に記念撮影をして,皆で“気”を送った。

 Sはその6か月を無事に生き延び,6月には闘病記『しあわせになろうよ 余命6ヶ月を克服した私のがんサバイバル50の方法』を刊行した。しかしこの秋,一進一退を繰り返しながら容態は悪化し,11月始めには,同期会のメーリングリストで「ぜひまたSのために“気”を送ってください」というメールが届いた。
 最後は,夫人が頼み込んで退院させ,いつも散歩していた道を見ながら帰宅してから1週間後,「ちょっと疲れた。寝る。」と言って,静かに息を引き取った。

 本人はもちろんその日のくるのを予測していて,連絡先のリストを作り,葬儀に飾る写真を選んであった。通夜に集まるのは150人という予測までしていたという。戒名も決まっていて,通夜で配られた挨拶状にすでに印刷してあった。
 祭壇には,歌手,俳優,中央官庁の長官,出版社,テレビ局の社長など,多彩な顔ぶれによる生花が並び,お清めの席の同期生の間では,このおもしろい組み合わせはいかにもSらしいという結論になった。

 今年,同世代の友人・知人が3人,病気で逝った。

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Dec 13, 2005

廬山菜館と大雅楼 ――神保町'70s (5)

 すずらん通りの西側の入り口近く,いま郵便局がある場所には,むかし「廬山菜館」という四川料理の店があった。黒っぽい建物で,1階と2階にテーブルがあり,2階の奥には座敷もあった。2階へ上がる階段がぎしぎし音を立てた。
 昼の定食はいつも5種類あって,うち4種は日替わりだが,5番目は麻婆豆腐で固定されていた。今でこそ非常にポピュラーな麻婆豆腐だが,職場の先輩たちはみな,この店で麻婆豆腐というものを知ったという。他の4種のおかずは炒め物やうま煮が主で,4~5人のグループで行って違うものを注文して分け合って食べたりした。
 この昼の定食の印象が強く,他に麺類などもあったと思うがほとんど記憶がない。
 今ある店で,雰囲気が少し似ているのは,専修大交差点の南の「源興號」である(建物はもちろん新しいが)。
 廬山は四川料理を神田に広めた店といえるのかもしれない。閉店したのは,80年代始めだったように思う。

 現在,郵便局の向かいには「冷やし中華の元祖」ともいわれる「揚子江」がある。揚子江は,前は向かい側の廬山の左隣にあった。きちんとした位置関係は定かではないが,郵便局のあるビルの場所に廬山と揚子江が並んでいたのだと思う。さらにその前には,反対側の今の場所(またはその右隣だったかも)にあったような記憶がある。
 揚子江は,昔からずっとやや高級な店という感じだったが,このところ少し路線変更して1000円以下の昼食を設定している。

 すずらん通りの東寄りの方から南に少しはずれたところには,「大雅楼」があった。こちらは中国の南方系なのだろうか,夜はかなりちゃんとした料理を出す店だったが,ここも昼食の印象が強い。五目そば,五目やきそば,中華丼,天津丼など,いずれもボリュームがあり,味にもさりげない主張があった。天津丼・天津麺のあんに酢を使っていないのが少し珍しかった。夜は出前もやっていた。
 大雅楼は,神保町1丁目南地区再開発の計画がまとまる少し前,90年代前半に姿を消した。

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