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July 2009

Jul 26, 2009

追悼 若杉弘氏

 21日に若杉弘氏が亡くなった。若杉氏は,私が見たオペラの指揮者別の回数ランキングの不動のトップで,昨年5月の新国立劇場『軍人たち』(ツィマーマン)で21回を数えていた(2位はゲルギエフの19回)。実際にはさらに,都響による演奏会形式のオペラ『スペインの時/子供と魔法』『町人貴族』『エレクトラ』があったし,同じくワグナー・シリーズ(抜粋;92-94年)を9回全部聞いている。「初演魔」若杉氏の指揮で日本初演を見たオペラとしては『ダフネ』『軍人たち』がある(『エジプトのヘレナ』『カプリッチョ』も日本初演のような気がしていたが確認できない)。
 若杉氏はまた,日本人として初めてワグナー,リヒャルト・シュトラウスのオペラ全曲上演の指揮台に立ち,初めてオペラ・ハウスのシェフ(ライン・ドイツオペラ)になった人として記憶に残るだろう。

 かつての「パソコン通信」時代の Nifty のフォーラム「オペラの部屋」では,若杉氏は多少の皮肉をこめて「企画のW氏」と呼ばれていたが,その企画力がもっともよく発揮されたのが,上記の都響のワグナー・シリーズだったと思う。通常上演される7曲(リングも1曲とする)に,『妖精』+『恋愛禁制』,『リエンツィ』を加えて全9回,各回正味120分ぐらいに抜粋したシリーズだった。
 このシリーズに限らず,若杉氏の演奏の場合は,特に女性歌手が優れていて,しかも若手はなぜかほっそりした美人が多いのが特徴だった。

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Jul 24, 2009

大相撲のクレッシェンド

 縁あって,大相撲(東京の場所)を枡席で見るというすばらしい経験をしたことが何度かある。
 生で見る相撲は,力士の肌の色つや,まわしや行司の衣装の鮮やかな色彩,呼び出しの声と拍子木,力士同士がぶつかる音など,音楽はないけれど,光と音があふれている。まことに「劇」的な空間だった。
 土俵上のことはテレビに写されるが,テレビではわかりにくいのは,土俵の周りの人々の動きである。力士は,自分の2つ前の取り組みの仕切りの途中で花道から入ってくるが,その直前に付け人がマイ座布団を持ってきて土俵下の呼び出しに渡し,呼び出しは土俵に上がった力士の座布団と交換する。力士が土俵に上がると,呼び出しは懸賞の垂れ幕(というのだろうか)を用意する(懸賞が多いときは,1人で2回回ることになる)。その前の取り組みで勝った力士は土俵下に残って,力水をつける。取り組みとその前4分の仕切り時間のサイクルの中にクレッシェンドとデクレッシェンドのうねりがあるが,そのサイクルが淡々と繰り返されるうちに,全体として長いクレッシェンドが形作られ,結びの一番へ向かって会場の雰囲気が盛り上がっていく。

 かつて呼び出しが,いかにも呼びにくそうにしていたしこ名は「安馬」――「あ(ミラシドレドシラシ)ま(シ~~~)」というような調子だった。安馬が日馬富士になった今,いちばん呼びにくそうなのは「阿覧」である。

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Jul 22, 2009

ストラスブール 1975

 1975年6月に初めてヨーロッパへ出かけたときは,ユーレイルパスを持って行ってヨーロッパ内はすべて鉄道で移動した。イギリスでは使えないから,ドーヴァー海峡を渡ったカレーからの列車で日付を入れてもらって使い始めた。
 パリで2泊したあと,留学中の友人のいるストラスブール目指して,パリ東駅から TEE に乗った。TGV が走るずっと前なので,3列座席の1等車のみの TEEが花形列車だった。
 がらがらなのに,中年の品のよいおばさんとすぐ前後の席だった。車掌が食事の予約をとりにきて,そのおばさんは予約し,間もなく案内に従って食堂車に出かけていった。「あーよく食べた」というようなこと(たぶん)を言いながら戻ってきたのは2時間後で,行程の3分の2は食堂車に行っていたことになる。

 ストラスブールは,川沿いにハーフティンバーの家が並ぶ美しい町だった。名だたる美食の町でもあるとのことで,友人に連れられて行ったレストランは料理も雰囲気も良かったし,ビールもワインも安くておいしかった。(これが忘れられず,帰国の際,パリの空港でアルザスのワインを買って税金を払って持ち帰った。)メニューが大きな紙のナプキンに印刷してあるのがしゃれていたので,ボーイさんに頼んで帰りに1枚もらった。
 プロシャ・ドイツ領になったりフランス領になったりした歴史を持つこの地では,料理も酒もドイツとフランスの「いいとこ取り」なのかもしれない。地元の言葉はドイツ語の方言である。現在EUの議会が置かれているのは,この町にふさわしい。
 夕食の後,オペラハウスの前まで行ってみたところ,ちょうど終演になったところだった。ストラスブールのオペラは,当時アラン・ロンバールががんばって水準が高くなっていて,ライン川の向こうのドイツからも観客が多く来ていた。広場に各方面に向かうバスが並んでいる。そのうちのひとつの行き先表示は「Allemagne」,つまり「ドイツ」となっていた。ライン川を渡ったところで「国内線」に乗り換えるのかもしれないが,なんとも大ざっぱな表示なのがおもしろかった。

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Jul 19, 2009

Over the Double Rainbows

 7月19日(日)の夕方,にわか雨があって少し涼しくなった都内で車を運転中,ゆるやかなカーブを曲がったところでビルの上に鮮やかな虹が現れて驚いた。あわてて車を路肩に停め,しばし撮影タイム。ほかにも何人か立ち止まって写真を撮っていた。Img_2544

 経験した中で一,二を争う鮮やかさだった。しかもよく見ると,外側にもうひとつおぼろげな虹があった。

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Jul 15, 2009

甘草屋敷とビヤホール列車――中央線・富士急行の夏景色

 久しぶりに中央線の車窓からの景色を眺めたくなり,日曜日の昼に特急で新宿を出た。昼時なので当然駅弁である。買ったのは期間限定の「中央線120周年記念弁當」。富士山麓の鶏のつくね,立川のうど,長野県の野沢菜など,沿線の産品が入っている。絹織物の八王子にちなんできぬかつぎ,というのはちと苦しいが(普通は衣被と書く)。Img_2496
 高尾を出ると山あいとなり,緑が深い。ちょっとだけ神奈川県に入って相模湖を見下ろし,次は山梨県。山の趣が少し変わる。笹子トンネルを抜けるとモモとブドウの里が広がり,ゆるやかなカーブを描きながら下っていく。ここは春のモモの花の季節がすばらしいが,モモの実がなる緑の季節もなかなかよい。Img_2467

 あてもなく塩山で下車してみた。北側に出ると武田信玄の像があり,その向こうに大きな古そうな家があった。旧高野家住宅(重要文化財)で,18世紀初めごろの建築だという。入場料300円を払って入った母屋では,団体が説明を受けていたので,便乗して聞かせてもらう。Img_2474
 合掌造りと同様の三角屋根で,広い屋根裏も見学できるようになっていた。そこで行われていた養蚕の道具や,何十人もの客のための食器などが展示してあった。
 高野家は代々カンゾウ(甘草)を作る家で,この家は「甘草屋敷」と呼ばれていた。甘草はハーブとしてしか知らなかったが,今も生産量の3分の2は元来の用途である甘味料として使われているという。コクのある甘みを出すので,チョコレートなどに入れることもあるとのこと。

 中央線で少し戻って,大月で降り,富士急行に乗った。30年ぶりぐらいだろうか。昔,三ツ峠駅から元旦に三ツ峠登山をしたこともあった。Img_2513
 富士急行には,フジサン特急という特急も走っているが,時間が合わない。待っていた普通電車は,トーマスランド号,つまり機関車トーマスの絵が中にも外にも描かれた電車だった。河口湖まで 26.6km を50分以上かかって走る。途中やや大きい駅は都留市,富士吉田。富士吉田でスイッチバックをするのがこの線の「鉄道名所」である。Img_2510
 河口湖駅に着いて,すぐ折り返そうかと思って時刻表を見ると,2本後に土日運転の「ビヤホール列車」(→参照)というのがある。迷わずこれに決め,それまでの時間に,河口湖までぶらぶら歩いて往復した。 ビヤホール列車はレトロ車両2両で,通常の電車2両の後ろに連結されている(富士吉田で方向が変わって前になる)。メニューは,ふじさんビールのナマ3種(ピルスナー,ヴァイツェン,ドゥンケル)が1杯400円,乾き物のつまみが100円で,発車のだいぶ前から営業していたらしい。ロングシートの真ん中にテーブルが置かれ,揺れても大丈夫なように,テーブルにジョッキを置く穴があいているのがおもしろい。Img_2511
 帰りは交換(行き違い)の都合で行きよりのんびりで,ほぼ1時間かかって大月着。接続良く,新宿行きの快速に乗れた。


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Jul 11, 2009

スカラ座1981 (3)――70/80年代の外来オペラ

承前
 続いては,『シモン・ボッカネグラ』(東京文化会館)を9月10日に見た。この公演は,今までに見たオペラの中で3本の指に入る名演である。昔話の常で,どうすごかったのかを具体的に語ることができないのがもどかしいが,歌と演技,オーケストラ,合唱,演出,舞台装置,衣装など,オペラを構成するすべての要素がかみ合って,単に各要素を足し合わせたものの何倍もの大きさの総合力を発揮していた。
 このオペラのプロローグは,ジェノヴァの統領に平民のシモーネ(シモン)が選ばれる前夜の話で,『トスカ』同様,その日付が特定されている(日本でいえば鎌倉幕府滅亡のころである)。続く第1幕は,突然その25年後となり,対照的に昼の明るい舞台になる。その背景には,レコードやLD(後にはCDやDVD)のジャケットでおなじみの大きな舟の帆があるのだが,文化会館の舞台の高さが足りなかったようで,先端が少し折りたたまれていた。
 最大の見せ場は第1幕後半で,緊迫したやりとりが続く中,群衆が押し寄せてくる。最後にパオロが自分に呪いをかけることになる場面まで,ドラマは大きなうねりを繰り返しながら盛り上がる。
 主要な歌手カプチルリ,ギャウロフ(共に当時五十代初め),フレーニの3人は,この名演出の最初から歌ってきた名コンビだった。今世紀になってから,カプチルリとギャウロフは他界してしまった(→参照)。
 『シモン・ボッカネグラ』の上演の機会は多くない。このスカラ座公演のあと今日までに3回(うち,演奏会形式が1回;→参照)見ているが,そのたびに,スカラ座公演の忘れていた場面の断片が蘇ってきて,あらためて最初の印象の強烈さを思った。

 続いて11日には,アッバード指揮のヴェルディ「レクイエム」の演奏会(東京文化会館)に出かけた。この曲も生で聴くのは初めてだった。
 ステージに出てきた合唱団を見て,意外と少ないと感じた。たぶん80人ぐらいだったのだと思う。しかし,そのフォルテッシモは強力で,しかも人海戦術ではないだけに澄んだ力強さがあり,しなやかだった。一方で,ピアニッシモは表情豊かで充実した響きを聞かせてくれた。
 スカラ座のオーケストラも生気にあふれていて,合唱と同じくピアニッシモの充実ぶりが印象的だった。ヴェルディのオーケストレーションは,管楽器の弱音の出しにくい音域をピアニッシモで使うなど,ちょっと独特な点があるが,そこはもう自家薬籠中のもので,「こうやるもんだ」ということを示してくれた。
 ソリストは,それぞれ複数の名が予告されていたうちのだれだったかという記録がない。記憶では,トモワ=シントウ,ヴァレンティーニ=テッラーニ,ルケッティ,ギャウロフだったのだが,ギャウロフだと2日連続ということになり,本当だったのか自信がない。ここでひときわ素晴らしかったヴァレンティーニ=テッラーニには,ロジーナとして再会することになる。
                (この項つづく

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Jul 05, 2009

神保町ニュース――須賀楽器と柏水堂

 閉店にも気づかなかったが,たぶん6月最後の週末ごろ,すずらん通りの「須賀楽器」の建物が取り壊された。その右隣の一群が取り壊された時の写真(2007年1月)を,本拠地の「神保町昼食ニュース」07年2月号に載せたが,そこで中央右寄りに写っているのが須賀楽器の背面である。Img_2456
 須賀楽器は,隣にあったツルオカピアノと共に,神田の初期の楽器店街を形成したという(「神保町昼食ニュース」06年3月号参照)。

 7月3日は近くを通らなかったので,帰宅して夕刊を見るまで知らなかったのだが,3日未明,靖国通りの洋菓子店「柏水堂」ビルで火事があり,老店主が亡くなったという。Img_2492
 [追記(7日)]写真下は6日昼,焼けた4階の窓が開いている。近くではまだ焦げた臭いがしていた。1階には「3日(金)~10日(金)休業」の貼り紙があった。

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Jul 04, 2009

年下の男の子

 子供のころ,テレビで高校野球をよく見ていた。小学生の目から見ると,そこに出ているのは「ずっと大きいお兄さんたち」だった。しかし,自分の高校時代は意外と早くやってきて,いつの間にか過ぎていき,登場する選手たちはたちまちみな年下になっていった。
 そして,プロ野球にも相撲にも年下が登場するようになる。スポーツ選手に次いでは,歌手や俳優も「年下率」が高くなっていく。その後はもう加速度的で,三十を過ぎれば相撲取り,四十を過ぎれば野球選手の大部分が年下になる。同世代で最後まで現役だった野球選手は村田兆治だった。

 年下の歌手の登場が印象に残っているのは郷ひろみとアグネス・チャン――この2人は同い年である。後から思えばそれ前にも自分より年下の歌手はたくさん出てきていたはずだが,この2人のブレークは比較的よくテレビの歌番組を見ていたころだったせいで,印象が強い(その後はテレビというものを見る時間が激減した)。郷ひろみの「男の子女の子」のヒットは17歳のときで,こんな舌足らずな歌い方でいいのかなと思ったりした。
 初めて来日した年下の演奏家として記憶されているのは,ピアニストのミシェル・ベロフ――当時22歳――である。若くして世界で活躍を始めたのは,17歳でオリヴィエ・メシアン国際コンクールに優勝したことによるが,来日はそれから5年後だったこともあり,日本では後のブーニンのように騒がれることはなく,普通の大人の演奏家として迎えられた。もちろん,年下が本当に初めてだったのか,正確なことはわからないが,友人との間では話題になった。

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