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June 2010

Jun 29, 2010

久しぶりのラモス――ワールドカップ短信

 Good morning. というあいさつは I wish you a good morning.,すなわち「あなたに良い朝がありますように」ということなのだが,25日は,サッカーに勝ち,湿度も低くさわやかで,文字通りまことに良い朝を迎えた。―― Yes, we have a good morning!
 ワールドカップは,息つく暇もなく決勝トーナメントが進行中。夜11時からの試合は,最初は横目で見ていても,いつしか目が離せなくなってしまう。

 テレビのサッカーのニュースには,現地に出かけていない関係者が総動員されているが,その中でラモス瑠偉の姿を久しぶりに見た。すっきりさっぱりして,なんだか,昔より若くなったような感じがした。
 ラモスで思い出すのは,現役時代,テレビの「ニュースステーション」で久米宏と対談したときのことである。1989年に日本に帰化したというから,そのすぐ後ぐらいだったと思う。久米宏は「もし日本代表の一員としてワールドカップに出て,母国ブラジルと闘うことになったらどうですか」と尋ねた。
 当時はJリーグ発足以前だし,日本がワールドカップに出るなどということは夢のまた夢で,そもそもワールドカップというものの理解度も一般にはまだ低かった。ラモスは「そしたら,うれしくて死んじゃうかもしれない」というような答をした。(ワールドカップにおける日本とブラジルの対戦は,2006年に実現した。)

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Jun 25, 2010

美しい朝焼け――ワールドカップ短信

 未明のデンマーク戦,いちばん日が長い時期で,前半が終わったときにはもう明るくなってきて,朝焼けが美しかった。今の住まいで見る初めての朝焼け。
 日本は3-1で快勝して,E組2位で決勝トーナメント進出。インタビューに答える岡田監督の顔は紅潮していた。前にも書いたが,17年前の「ドーハの悲劇」のときのテレビ中継の解説者は岡田さんだった。
 最初の相手のF組1位はパラグアイとなった。29日(火) 23:00 キックオフ。フランスに続き,イタリアも予選で敗退とは。
 さて,1時間寝るか。

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新学習語大賞――ワールドカップ短信

 いま,未明のデンマーク戦,2-0でハーフタイム。
 せっかく「早起き」した記念に――今月,全国民が新しく覚えた「新学習語大賞」は「ブブゼラ」で決まり。

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Jun 21, 2010

神の降臨――ワールドカップ短信

 アルゼンチンの監督はあのマラドーナ。ヒゲをはやし,昔より下ぶくれになった顔を見て,松本(麻原)某を思い出してしまった。共に神に近かった人だし。

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Jun 20, 2010

京急蒲田高架化の歩み

承前
 京急蒲田駅付近のこれまでの歩みを,自分のための覚え書きを兼ねて,以下にまとめておく。

 京急蒲田駅は,京急の本線と空港線の分岐駅で,昔からずっと空港線の線路は本線の下り線から分岐していた。空港線ホームは1本で,発車してしばらくは単線である。その単線の部分に第1京浜国道の踏切があり,箱根駅伝のときは選手の通過に合わせて電車の出発を調整していた。

(等幅フォントで見てください)       空港
                      /
           __________/
     _____/__[ホーム]_________
  品川 _____________________ 横浜
             [ホーム]

 昔々は,空港線とは名ばかりで空港のはるか手前が終点であり,通常は3両ぐらいの古い車両が空港線内のみを往復していた。ただし,朝の通勤時間帯に本線下りからの直通電車が走っていた時期もあったように思う。あとは,正月に,穴守稲荷への初詣のために直通があった。
 がらりと様子が変わったのは,1998年に空港の地下に羽田空港駅ができて空港アクセス機能を担うようになってからである。品川から空港への直通電車が多数走るようになり,本線のすべての快特(いちばん速い種別)が停車するようになった。空港線上りも品川方面へ直通するため,空港線からの電車は下り本線を横切って上り本線に入るようになった。
 その後さらに,空港線ホームから下り本線へ行く渡り線と,上り本線から(下り本線を横切って)空港線ホームへ行く渡り線が設置され,横浜方面と羽田空港との間の直通運転(空港線ホームで運転方向が変わる)が本格的に始まった。運転系統は,

 (1a) 本線下り(品川 → 横浜)
 (2a) 本線下りから空港線下り(品川 → 羽田空港)
 (3a) 本線上りから空港線下り(横浜 → 羽田空港)

と,その逆

 (1b) 本線上り(横浜 → 品川)
 (2b) 空港線上りから本線上り(羽田空港 → 品川)
 (3b) 空港線上りから本線下り(羽田空港 → 横浜)

になったわけである。
 空港線のただ1本のホームに,このうちの羽田空港行き((2a)(3a)),品川方面行き((2b)),横浜方面行き((3b))の3方向の電車が発着していた。また,上記のように,(2b)は下り本線を,(3a)は下り本線を横切るため,神業的な過密ダイヤになっていた。

                      空港
                      /
           __________/
     _____/__[ホーム]__\\_____
  品川 __/____________\_____ 横浜
             [ホーム]

 高架化工事は2001年から始まり,工事の進展に合わせて線路やホームの位置がめまぐるしく変わった。2008年には,横浜寄りの環八との交差部分の下り線が先に高架化され,渋滞が大きく減った。
 そして今回,いよいよ上りの線路とホームが2階へ移動したわけである。

 1階と2階の線路配置は,基本的な部分は同じ形で,2階は本線上り(1b)が6番線(山側;下図で下側)に,空港線から本線上り(2b),および本線上り横浜方面から空港線下り(3a)が4番線(海側;下図で上側)に発着する。(5番線は本線普通電車の待避のための切り欠きホームで,すでにできているが,今はふさいである。)
 1階は同様に,本線下り(1a)が2番線(山側;下図で下側),本線下りから空港線下り(2a)および空港線上りから本線下り横浜方面(3b)が1番線(海側;下図で上側)に発着する。したがって,1階も2階も,1つのホームに空港線の上りと下りがやってくるし,空港線下りは1階と2階両方から発車することになる。
 駅は実は3階までできていて,3階ホームへの階段が見えている。今の1階が,3階に引っ越すと上下線とも高架化が完成ということになる。

                    空港
                    /
                   /
        __________/___
  品川 __/_____[ホーム]_____\____ 横浜

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京急蒲田上り高架初乗り

 京浜急行の本線・空港線の分岐駅・京急蒲田駅付近の高架化は,十数年がかりの大工事だが,それがひとつの節目を迎え,5月16日に上りの高架線の使用が開始された。その様子を,6月になってから遅ればせながら見に出かけた。
 まずは品川から,新設の「エアポート快特」に乗った。駅の時刻表の行き先表示は,本線三崎口行きをさしおいて「無印は羽田空港行き」となっていた。エアポート快特は京急蒲田通過で羽田空港までノンストップの電車である。下りの線路はこれまでと同じで,高架下のトンネルのようなところを走る。違うのは,京急蒲田駅を通過することである。ゆっくりゆっくり通過して空港線(分岐してすぐは単線)に入り,長い編成の電車が急カーブで巨体をくねらせて,箱根駅伝でおなじみの第一京浜国道の踏切を越え,複線になるとようやくスピードを増す。天空橋駅の先の地下では,10月に開業する羽田空港国際ターミナルが見えていて,ホームドアも取り付けられていた。
 今回のダイヤ改正で登場したエアポート快特が京急蒲田を通過するというのが地元で問題になったが,蒲田はもともと快特停車駅ではなかったのだし,空港行きの電車は1時間に6本ある(昼間)ので,ダイヤ編成上はまあ妥当なところだろう。

 終点・羽田空港で折り返し,上りに乗る。蒲田の2つ手前の大鳥居駅を出てまもなく,左側の線路が高架に登っていく。その手前にはX字型の渡り線があり,横浜方面へ行く電車は右の地上の線路を行くことになる。
 京急蒲田駅では新しい2階のホームに到着した。2階は,6番線(西側)から本線上り(横浜方面から品川方面行き)が,4番線(東側)からは空港線から本線上りと,本線横浜方面から来て折り返して空港線下りとなる電車が発着する。すなわち,4番線には空港からと空港行きの両方向の電車がやってくるし,空港行きが4番線と地表の1番線の両方から出るのが,ちょいとややこしい。当然のことながら,これまでのごみごみした地表ホームとは打って変わって明るい。5番線は「切り欠きホーム」で本線の待避線だが,覆われてここも今はホームになっているので,ホームは広大である。
 3階部分もすでにできているようで,エスカレーターの場所がシートで覆われていた。現在1階にあるホームと線路が,数年後に3階に引っ越すことになる。
 このあと,横浜方向の様子を見に京急川崎へ行って折り返した。
    (高架化の歩みについては,次項参照)

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Jun 19, 2010

神保町の6月

◇博報堂旧本社跡
 旧ビルの北側(写真手前;元は低い建物があった)が,6月上旬,コイン式駐車場になり,日銭を稼いでいる。P6071761
 
 
 
◇駿河台下に団子屋
 5月だったと思うが,駿河台下交差点北西側,小諸そばの隣に団子屋「利一」がオープン。店の大きさの割に看板がでかい。P6041723

 
 
 
 
 
 
◇さくら通りにて
 東洋キネマ跡(→参照)の隣のビルの取り壊しがたけなわ。前は地下に「孤兎」という京料理の店があったビルである。(孤兎は,千代田通りの元トヨタのビルの裏側に移転した。)P6161784

 
 
 
 
 
 
◇錦町更科のだじゃれメニュー
 5月後半は「更科万博パビリオン パクってそばくう」だったが,比較的短く終わり,その後は「冷やしの女房 ゲゲゲのイチロー」となった。
 6月後半にはワールドカップ・メニューになると予想していたのだが,18日現在,「ゲゲゲ」のままである。P6181786

 
 
 
 

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Jun 18, 2010

ブローニー判・全手動でカメラ入門

 小学校4年の時,父親から譲り受けて,初めてカメラを手にした。最初に撮った写真は,横須賀の実家の裏の東京湾を見下ろす丘(その後整備されて中央公園となった)で,10歳ぐらい年上のいとこを写したものである。うろ覚えのゲルトというブランド名で検索してみたら,戦前から戦後にわたって作られていた国産カメラらしい。これを父は,戦死した兄から受け継いだと思われる。
 ブローニー判のフィルムを使い,セミ判(6×4.5cm)で撮影するカメラだった。フィルムはスプールに巻いてあり,端を引き出して反対側の空のスプールに差し込んで,空回りしないことを確認してから裏蓋を閉め,丸い赤い小窓に1という字が出るまで,(巻き上げレバーではなく)つまみを回す。1枚写した後は次の数字が出るまでまたつまみを回すのだが,巻くのを忘れて二重写しをしたこともあった。

 もちろん「全手動」で,距離と絞りとシャッター速度を自分で決める必要があった。決めるといっても,ASA100だと,晴れた屋外では絞り8,シャッター速度1/100が基準で,曇ってくると5.6の1/50にしてみるか,という程度のことだった。
 現像とプリントは,近所のお茶屋さんが「DPEの店」でもあったので,そこに頼んだ。たしか,中2日ぐらいかかり,できあがるのが待ち遠しかった。プリントは1枚10円した。当時の10円というのは,電車やバスに大人が乗れる料金で,かなり価値ある金だったから,フィルム代も考えるとそうたくさん撮れるものではなく,子供ながらも考え考え撮らざるをえなかった。

 そのころ買って熟読した本に,偕成社図説文庫の『カメラの世界』というのがあった。カメラの種類,写真の撮り方から現像・焼き付けの方法まで書いてあったので,現像はともかく,焼き付け(引き伸ばし)をやってみたいものだと思ったが,引き伸ばし機を買ってもらえる状況ではなく,実現しなかった。この本で,いつも使っているフィルムはブローニー判というサイズで,普通の小型カメラは35mmフィルムを使うということを知った。(その後二眼レフのカメラを使ったことがあり,そのときもフィルムはブローニー判だった。35mmのカメラはその後のオリンパス・ペンが最初だった。)
 偕成社図説文庫のこの本と『天体と宇宙』(野尻抱影著)は,字句を覚えてしまうほど読んだ思い出の書である。

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Jun 14, 2010

根性あるエレベーター

 はあ,クサ! エレベーター!
00p5291715
 
 
 
 隣のエレベーターは――
00p5291718
 


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Jun 12, 2010

右から左

 商用車の右横腹に横書きで社名・店名を書くとき,車の進行方向に合わせて前から,つまり右横書きで書くことが,かつてはあった。今でもたとえば「ンパノヤラムキ」などと書いた車を見かけるが,だいぶ少数派になったように思う。
 車に書かれた右横書きの例で,長らく忘れていたのに最近思い出したのは,30年以上前に某地方都市で見た「トンタルサンコ」。これを思い出したのは,樽床(たるとこ)さんという珍しい苗字を見たのがきっかけだった。

 戦前は,看板や駅名などがしばしば右横書きで書かれた。新潟県の信越本線の荻川という駅では,駅名の下に前後の駅の名が「ついに|だめか」と書かれていた。荻川は新津と亀田の間にあり,前後の駅名を知っている人も「遂に駄目か」と読んでどっきりしたという。(今は新津と荻川の間に新しい駅ができたので,右横書きにしたとしてもこういう表示にはならない。)

 戦後,山手線の駅長が集まって,駅名を右から書くか左から書くかを協議した。しかし,意見はまっぷたつで紛糾した。「ちょっと,ずーっと黙っているそこの方,意見を言ってくださいよ」「どっちでもいいです」「どっちでもじゃ困るんですけど」「いやどっちでも同じですから」その人は,右から書いても左から書いてもかな表記は同じになるT駅の駅長さんだった… という「新作落語」を,子供のころ,たぶんラジオで聞いたことがある。戦後十数年のころだから,大人にとってはまだ十分にリアリティがあったのだろう。

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Jun 08, 2010

思い出のチャイコの5番

 先日触れた『指揮台の神々』の中のカラヤンの項に,チャイコフスキーの交響曲第5番の録音についてのエピソードが出てきた。そこでの話題は第2楽章のホルンのソロだったが,それを読んで昔の演奏会の思い出がよみがえり,私の頭の中では第4楽章が鳴り始めた。

 はるか昔,ある老舗学生オーケストラの演奏旅行にトラ(助っ人奏者)として加わって,チャイコの5番を演奏したことがあった。なにしろ新幹線が岡山まで延長される直前で,東京を朝6時の始発で出,新大阪で在来線の特急に乗り継いで西の方へ行った。その日の内にリハーサルと本番を行い,翌日は東へ戻って,京都で演奏会を開いた。
 会場の旧京都会館は残響がないことで知られていて,野原の真ん中で演奏しているようだった。それでも本番は無事に進み,チャイコの5番の第4楽章となった。序奏では,第1楽章冒頭の旋律が長調になって帰ってくる。序奏の終わりで,主部アレグロへ向かって,ティンパニのトレモロがクレッシェンドを引っ張っていく。クレッシェンドの頂点がアレグロの始まりになるが,そこで「バキッ」というか「ドスッ」というか,聞いたことのない打撃音がした。演奏者には何か起こったのかわからなかったし,お客さんも大部分の人にはわからなかっただろう。ともかく,その後は普通に演奏は続けられた。
 演奏会が終わってから,実はあのときティンパニの皮が破けて,バチが縁に当たったのだと聞いた。温度や湿度がめまぐるしく変わる演奏旅行で,古い皮が弱っていたらしい。プラスチックの「皮」だったらあり得ない事故である。この曲のティンパニは2個で足りるように書かれているが,音程変更の手間を少なくするために1個余分に使っていた。奏者はもちろん一瞬パニックになったが,その1個が予備として役立って,結果的にはほとんど支障なく演奏できたのだった。

 ヴァイオリンの弦が演奏中に切れることはときどきあり,ヴァイオリン・セクションではその備えをしているが,それ以外の楽器に本番中に物理的な故障が生じたのは,これが唯一の経験である。
 この演奏旅行ではもうひとつ,本番中ではなかったが,1人のオーボエにひびが入ってしまうという事故があった。これも気候と湿度の変化が原因で,新しい楽器は最初の冬を越すのに注意が必要なのだが,実際には予測困難な事態である。このときオーボエは3人いて,同時には2人の出演だったので,1年生の奏者が楽器を供出してその後の本番をしのいだ。
 というわけで,思い出深いチャイコの5番である。

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Jun 06, 2010

支店番号 001

 前回の記事の関連で最近知ったトリビアだが,神保町2丁目のさくら通りにある三井住友銀行千代田営業部は,数ある同銀行の支店の中で支店番号「001」を名乗っている。
 通常の支店未満のこんな小さな店がトップナンバー 001 になっているのは,かつて同銀行がわかしお銀行を吸収する際,形式上はわかしお銀行を存続会社として合併したため,わかしお銀行本店があったこの場所が001になったということらしい(もちろん,合併と同時に三井住友銀行に名称変更した。)

 90年ごろ以降の銀行の統合・消長の系譜は複雑をきわめている。以前は,財閥系の銀行が再編されるなどということは想像もつかないことだったのだが。(→参照

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Jun 04, 2010

神保町2丁目 東洋キネマ跡

 5月20日ごろ,神保町のさくら通りを通りかかったら,長らく広大な空き地だった東洋キネマ跡に囲いができ,ビル建築のお知らせが掲示されていた。2011年末完成の予定だという。纏寿司のあった路地がさくら通りからずっと見えていたが,それも見えなくなった。P5211701
 東洋キネマは,私が近辺を歩くようになった1973年にはもう閉館していたと思う。以後ずっと,前面に丸い窪みのある特徴的な建物が,1992年に取り壊されるまで,ちょっと不気味にさくら通りのヌシをつとめていた。取り壊しの前後には,地上げをめぐる詐欺事件などもあり,立ち入り禁止の公告が出ていたこともあった。
 東洋キネマの開館は1922年だが,関東大震災で焼け,あの建物は1928年完成だという。博報堂旧本館の2年前である。

 この付近に残る戦前の建築としては,その斜め向かいの角の三井住友銀行千代田営業部旧館がある。これは元は相互無尽という会社の本店として建てられ,戦後第一相互銀行となった。その後,相互銀行の普通銀行転換の際に太平洋銀行,さらにわかしお銀行となり,最終的に三井住友銀行になった。左隣の建物が取り壊されて,「孤立」状態になっている。Img_3057
 第一相互銀行の時代に,すでに向かい側の新しい建物が本店となっていて,今はそこに三井住友銀行千代田営業部の店舗がある。

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