« October 2017 | Main | December 2017 »

November 2017

Nov 24, 2017

神保町ニュース 2017晩秋――半チャンラーメン新旧,乾隆帝,個人差

 神保町の有名ラーメン店「さぶちゃん」が11月(何日かは不明)閉店した。店主の三郎さんはここ何年か体調不良だったようで,ときどき店を休みにしているのは目撃していた。やっているときも,体を動かすのがつらそうだったという。(右の写真は今年9月8日の撮影 スマホの中を探したら見つかったので,11/27追加)20170908_123733_3

 この店,半チャンラーメンの元祖(ほかにもいろいろな説があるけれど)ということで有名だが,もっとも特徴的だったのは,木下家の3兄弟で並んで異なるジャンルの飲食店を50年以上にわたって営んできたことだ。長男が路地の入り口の洋食屋「キッチングラン」,次男が奥の和食店「近江や」,そして三男がまんなかの「さぶちゃん」。「キッチングラン」は今は2代目がやっているが,「さぶちゃん」は後継者がなく,高齢(いくつかの情報によると79歳ぐらい)と体調不良のため閉店することにしたらしい。
 私は長年神保町近辺にいたが,「さぶちゃん」に入ったのは,80年代と00年代,各1回だけだった。ああいう食事はもっと若いうちでないと,おいしくは食べられない。

 9月半ばに開店した「海老丸」(看板の表記は「海老○」)に行ってみた。白山通りを水道橋に向かって半分ほど行った左側,もとサッポロラーメン「エイト」の場所である。
 スープはオマール海老(と味噌)の濃厚なヴィスクで,豚・牛・鶏などの動物系をまったく使っていないという。注文したクリーム海老ラーメン(850円)が出てきたとき,丼の大きさに少々たじろいだが,中身はそうやたらに多いわけではなく,多くの人はハーフサイズのご飯もの(レタスチャーハン,リゾットなど)といっしょに食べていた。いわば,フレンチ・半チャンラーメンか。

 老舗の「揚子江菜館」(すずらん通り)で,「乾隆肉麺」(特別価格 1030円)という看板が出ていた。清の乾隆帝が愛でたものだという。頼んでみたら,豚の三枚肉を唐揚げにしたようなものが乗った麺で,おいしかったけれど,ほかに何も入ってないのでいささか単調だった。東坡肉のように青菜でもついているといいのだが――あそうか,満州出身の清朝は青菜には興味がないのか。

 カレー店「ヤミツキ」(白山通り水道橋方向へ6割ぐらい行った右側)の「辛さインフォーメーション」は,個人差についての表現がちょっとおもしろい:
 ・スタンダード  微辛(個人差はありますが,辛いもの苦手な人でもOK)
 ・辛口  一般的な辛さです(個人差はありますが一般的です。)
 ・倍辛  辛党さんいらっしゃーい(あくまでも個人差はあります。)
 ・大辛  爆撃[爆弾マーク](個人差はありません。辛いです。)
 ・激辛  悶絶・・・[髑髏マーク](個人差はありません。)
          (「食べログ」に写真あり)


| | Comments (0) | TrackBack (0)

Nov 19, 2017

銀行の合併

 文学部系の者には縁がなかったことだが,1970年代の就職先の花形は総合商社と金融関係だった。金融関係の代表は銀行で,第一勧銀,三菱,三井,住友,富士が都市銀行のトップグループを形成していた。第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行になったのは1971年と早かったが,それ以外はみな明治以来の財閥系で,「護送船団」という枠の中ではあったが互いがライバルであり,合併・再編など想像もつかなかった。
 それが,80年代に相互銀行が続々と普通銀行に転換されたのに続き,再編の波は90年代には大銀行に及んだ。バブルが崩壊し,北海道拓銀,山一証券,長銀,日債銀の破綻が相次ぐ中で,かつては三井と住友の合併など冗談にもならないくらい非現実的なことだったが,素人目にはあれよあれよといううちに話が進んだ。今の3大メガバンク+りそなという体制になったのは2006年だった。(同じ2006年,阪急電鉄と阪神電鉄の合併(経営統合)にも驚いた。)

 銀行への接し方も大きく変わった。ATMもその他銀行との提携もない時代は,銀行預金の出し入れは口座のある銀行の支店でのみ可能で,それも平日の9時から3時までに通帳と印鑑を持って窓口に行く必要があった。(→参照:休日の朝――昔のATM
 私が就職した1970年代前半にはATM(正確には払い出しのみの機械(CD)だったと思う)がだんだん設置されるようになった。しかし,最初のうちはATMの稼働時間は窓口の営業時間よりわずかに長いだけで,同じ銀行でしかおろせないのはそれまでと同じだった。都市銀行のオンラインシステムが相互接続されたのは1980年代半ばのこと。
 ちなみに,今となっては想像するのが難しいが,私の職場では70年代末まで月給は現金支給で,給料日の朝には経理の担当者が会社の車で現金(金種ごとの数を計算してある)を会社に運び,会社の会議室で給料袋に詰めていた。一般には,月給やボーナスの銀行振込は70年代前半に広まったと思う。そのひとつのきっかけになったのは,1968年の「3億円強奪事件」(東芝府中のボーナスを運ぶ現金輸送車が襲われた)だった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Nov 09, 2017

「真白き富士の根」と「高校三年生」――悲しくない短調 再び

 前に,昔の日本の歌には「悲しくない短調」の曲がけっこうある,という話を書いたことがある(→参照)。
 そのとき挙げなかった例として,「船頭さん」(村の渡しの船頭さんは…)と「森の小人」(森の木陰でどんじゃらほい…)のことをちょっと調べてみたら,この2曲は,ともに開戦の年1941年の曲で,歌詞の軍国的な部分を戦後改変したという共通点があるとのこと。私の子供のころにはみな知っている歌になっていたのは,NHKラジオの「うたのおばさん」などを通じて広まったからだと思う。(今だったら「おばさん」などというタイトルはつけないでしょうね。)
 「船頭さん」の作曲者は河村光陽という人で,この人は「うれしいひなまつり」「仲良し小道」「りんごのひとりごと」といった悲しくない短調の曲を残している。

 短調と長調ということでおもしろいのは,「真白き富士の根」(七里ヶ浜の哀歌)である。1910年1月に逗子開成中学の生徒ら12人が乗ったボートが鎌倉・七里ヶ浜沖で転覆して全員死亡した事件があり,その追悼会で,鎌倉女学校(現鎌倉女学院 逗子開成と創立者が同じ「姉妹校」だった)の生徒たちによって“初演”された。原曲はアメリカの賛美歌で,鎌倉女学校の教諭だった三角錫子が詞をつけたものである。この曲,たしかに楽しげな曲ではないが,長調だし,哀歌という感じではない。しかし,『日本唱歌集』(岩波文庫)の解説ほかによると,後に演歌師などが短調で歌って全国に広まったという。
 逗子開成も鎌倉女学院もほぼ地元なので,この事件のことは私は中学のころぐらいから知っていたが,後に聞いたところでは,この事件は,生徒たちが勝手にボートを持ち出して強風の吹く冬の海に漕ぎだして起きたという。とすれば,この歌がなかったら世の人の涙を誘うようなことにはならなかった可能性が高い。

 「青い山脈」の系譜に属する「悲しくない短調」としては,「高校三年生」(1963)が思い出深い。サビの「ああ」は女声コーラスをバックに2小節延ばされ,8分音符のキザミと共に盛り上がる。レコードのジャケットの舟木一夫は学生服姿だった。
 その後も,たとえば1975年の「我が良き友よ」(吉田拓郎)も,短調で青春を歌っている。しかし,歌詞の内容は「青い山脈」などより上の年代であり,かつてのような青春賛歌とは趣を異にしている。
 いま,明るい短調の曲は書かれているのだろうか。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

« October 2017 | Main | December 2017 »