昔話

Mar 28, 2018

証人喚問 1976

 1976年夏のこと,社員旅行で泊まったホテルの一室で,同僚のS氏に対する「証人喚問」が行われた。「Sさん,あなたが○○営業所の△△さん(女性)と××駅付近を歩いているところを複数の社員が目撃していますが,どこへ行ったのですか」「△△さんと初めて親しく話をしたのはどういう状況でしたか」「○○へは仕事以外で何回行きましたか」といった具合である。
 これに対してS氏は「記憶にございません」を連発したが,その1か月後に,S氏が遠距離恋愛(という言い方は当時はなかったが)を実らせて△△さんと婚約というニュースが社内に流れた。
 国会での証人喚問というものが初めて一般に知られるようになったのは,1976年,ロッキード事件に関して,小佐野賢治氏(国際興業社主)らに対する喚問が行われたときだった。テレビ中継も行われ,なにかというと「記憶にございません」というのが決まり文句になった。

 30年がかりで続いていた小田急の代々木上原―向ヶ丘遊園の複々線化が完成して3月3日に開通し,17日から新しいダイヤになった。駅の地下化は2013年に完成していたが(→参照),ようやく線路が開通したわけである。
 下北沢駅の様子を見に行ったのは20日。ここは小田急と井の頭線線路が斜めに交差し,その間の駅前の道が複雑で,すぐに方向がわからなくなる。駅舎とその周辺の工事はまだ続いていて,近く南口が廃止されるという掲示が出ていた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Mar 24, 2018

深川めしと森下の蕎麦/30年前

 3月某日,深川で昼過ぎに用事が終わったので,深川めしでも食べようかと思い立った。しかし,昼食の看板を出している店を何軒かのぞいてみたが,いずれも2000円近い値段である。もちろん,それにふさわしい内容はあるのだろうが,元来庶民的なぶっかけご飯とはだいぶ違う。
 それで,天気が良かったのでぶらぶらと森下まで一駅歩いて,久しぶりに蕎麦の名店「京金」を目指した。で,行ってみると,店の名が「十七」に変わっていた。なにしろ12年ぶりの訪問。内部は少し改装されていたが,店の構えと雰囲気は昔とほぼ同じだった。あとで見たネット上の情報では,店主が引退し,弟子が店を継いだらしい。
 酒少しとつまみをとったので深川めしよりは高くなったが,質も量も立派で,ちゃんとした蕎麦屋としては高くない。

 今日3月24日は,「上海列車事故」から30年の日である。
 私は中国(大陸)へ1回だけ行ったことがあるが,その出発がこの事故の直後で,事故の9日後に上海郊外の現場を通ったのである。
 日が傾いてきたころ,上海まであと少しのところで,私たちのツアー一行の乗った列車は少し徐行した。見ると,線路のそばの畑の中に,客車がごろんと転がっていた。電化区間ではなく,線路には大きな損傷はなかったようで,線路上の車両をどければ列車は運行できたということのようだ。
 到着した上海のホテルには,事故に遭った高知学芸高校の関係者の家族が大勢宿泊していた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Mar 07, 2018

パーヴォ・ヤルヴィ&N響『ウエスト・サイド・ストーリー』

 3月6日,パーヴォ・ヤルヴィ&N響『ウエスト・サイド・ストーリー』(演奏会形式)に出かけた(Bunkamura オーチャードホール)。平日なのに3時開演なのが謎。当日夜,ホールがふさがっているというわけでもない。パーヴォがその夜の飛行機に乗らないと,というようなこと?
 主要歌手7人は米語話者(たぶん)を招き,日本人は6人,あと東京オペラシンガーズの男声が10人,新国立劇場合唱団の女声が8人が参加した。アニタ役は Bottoms という不思議な姓。さんざんからかわれてきたに違いない。
 全員暗譜で,出入りあり。それらしい衣装で,最小限の演技あり。「シンフォニー・コンサート版」と表示されているのは,どうやら台詞をかなりカットしたということらしい。正味は95分。
 で,結果は快演。特に金管はけっこう弾けていた。金管奏者はみなかつて吹奏楽でジャズをやっていただろうから,故郷に帰ったような気がしたのでは。一方で,ピアニッシモの精妙な部分もたくさんあるのが並のミュージカルと違うところで,特に最後は,美しい祈りの音楽だった。

 演奏会形式のいいところはオケがよく見えること。編成は,どの程度バーンスタインの意図によるのかはわからないが,なかなかおもしろかったので下に記しておく。
[木管前列]フルート3(ピッコロ1―以下かっこ内は持ち替えの楽器と人数),オーボエ1(イングリッシュ・ホルン1),ファゴット1
[木管後列]クラリネット3(バスクラ3(!)),サックス3(ソプラノ,アルト,テナー,バリトン,バス(!)の5種を分担,1人はクラにも持ち替え)
[金管]ホルン2,トランペット3,トロンボーン2
[打楽器・キーボード]ティンパニと他の打楽器が6人,別にドラム(セット)1人,キーボード1人
[弦]第1・第2ヴァイオリン,ヴィオラが3プルトずつぐらい(人数よく見えず),チェロが多くて4プルト,コンバス2プルト
 バス・クラリネットが3本も置いてあってなぜだろうと思ったら,第2部の真ん中あたりで確かに3重奏があった。オーボエは茂木さんで,Tonight では珍しい首席奏者のイングリッシュ・ホルンが聞けた。

[追記] 私のちょっとした自慢は,ミュージカル初演のわずか7年後に,中学の吹奏楽で「『ウエスト・サイド・ストーリー』ハイライト」を演奏したこと(→参照)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jan 09, 2018

共に70歳で――星野仙一とフランス・ギャル

 1月6日の朝は,なんとなく朝のニュースを見ないで過ごし,昼過ぎに会った人から「星野さんが亡くなったわね」と聞いた。「えっ,星野って,あの?」「そう,野球の星野仙一」と確認して,遅ればせながら驚愕。死去は4日,膵臓がんだった。まだ70歳,長嶋よりも王よりも野村よりもずっと若いのに。
 常に「闘将」という称号が冠される星野だが,最初中日の監督のときにはほんとうに泥臭い闘将だったのに対し,楽天の監督のときには,もちろん闘志にあふれていたが,かなりスマートな闘将になったような印象がある。
 2013年に楽天がリーグ優勝したとき星野監督は66歳で,リーグ優勝の最年長監督となった。昔の大監督はかなりの年齢のような感じがしていたが,最後に優勝したとき川上は53歳,三原,水谷はもっと下,野村も62歳(ヤクルト,97年)だった。

 7日,フランス・ギャル(France Gall)が乳がんで死去。若いころしか知らないからまったくぴんとこなかったが(新聞の訃報の写真も1965年撮影だった),奇しくも星野と同じ70歳だった。
 このブログでは10年前にシルヴィ・バルタン来日の話題のついでに書いたように(→参照),フランス・ギャルといえば「夢見るシャンソン人形」。フランス語の歌詞で,-son,および -waa という音の語尾が韻を踏んでいるのが,高校生の耳にも甘美に響いた。日本語版(岩谷時子によるらしい)でも,-waa の部分は「…わ」と訳していた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Dec 15, 2017

運転免許証と目的外使用

 11月某日,誕生日を前に運転免許証の更新をした。有効期限は「平成35年1月」となっているが,2019年5月に改元が行われるので,「△△5年1月」と読み替えることになる。
 今回は期間が5年間延長されたが,次回は70歳を超えるので3年間になり,更新には認知症のテストも必要になる。次回も無事に延長できるかどうか。車を運転すること自体はそう面倒だと思わないし,楽しいことも多いが,でも運転しないで酒を飲んでもよければその方がいいというのが正直なところだ。

 運転免許証は,本来,公道上で車を運転する能力があることを証するものに過ぎないものなのに,運転とは関係なく,顔写真付きの公的な身分証明書として「本人確認」のために使われることが多い。本来の用途以外の場面に出しゃばっているわけだ。
 それで少し大勢に逆らって(しかし体制に取り込まれて),場合によってはマイナンバーカードを使うようにしている。

 しかし,いまもっとも「目的外使用」が甚だしいのは携帯電話だ。もちろん,通話という本来の目的が忘れられているということはないが,電話以外に使う時間の方が圧倒的に長いのは,むしろ普通のことだろう。最初に Docomo が iMode を始めたときには予想もできなかった。(→参照「雑誌と通勤電車」)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Dec 01, 2017

学生時代

 昔は有名だった英語の例文:
(1) My mother is my mother.
(2) Today is Sunday.
   (答えは末尾参照)

 昔,大学のクラスに,ある程度は意図的だと思うのだが,いつもすり切れたような服を着ている女子学生がいた。わざと古そうに見せるジーンズなどなかった時代の話である。で,ついたあだ名は「Bolacyさん」(<ミスボラシイ)。

 昔,学生のオーケストラのメンバーにハザマ君という人がいた。で,当然通称は「オケハザマ」。

 先日聞いた名言:
車で道路を暴走するのが18歳,逆走するのが80歳
自分探しをしているのが18歳,皆が自分を探しているのが80歳

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   上の英語の例文の訳:
    (1) 私の母はわがママです。
    (2) 東大は駿台である。(当時,東大合格者をもっとも
      多く送り出していたのは駿台予備校だった。)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Nov 19, 2017

銀行の合併

 文学部系の者には縁がなかったことだが,1970年代の就職先の花形は総合商社と金融関係だった。金融関係の代表は銀行で,第一勧銀,三菱,三井,住友,富士が都市銀行のトップグループを形成していた。第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行になったのは1971年と早かったが,それ以外はみな明治以来の財閥系で,「護送船団」という枠の中ではあったが互いがライバルであり,合併・再編など想像もつかなかった。
 それが,80年代に相互銀行が続々と普通銀行に転換されたのに続き,再編の波は90年代には大銀行に及んだ。バブルが崩壊し,北海道拓銀,山一証券,長銀,日債銀の破綻が相次ぐ中で,かつては三井と住友の合併など冗談にもならないくらい非現実的なことだったが,素人目にはあれよあれよといううちに話が進んだ。今の3大メガバンク+りそなという体制になったのは2006年だった。(同じ2006年,阪急電鉄と阪神電鉄の合併(経営統合)にも驚いた。)

 銀行への接し方も大きく変わった。ATMもその他銀行との提携もない時代は,銀行預金の出し入れは口座のある銀行の支店でのみ可能で,それも平日の9時から3時までに通帳と印鑑を持って窓口に行く必要があった。(→参照:休日の朝――昔のATM
 私が就職した1970年代前半にはATM(正確には払い出しのみの機械(CD)だったと思う)がだんだん設置されるようになった。しかし,最初のうちはATMの稼働時間は窓口の営業時間よりわずかに長いだけで,同じ銀行でしかおろせないのはそれまでと同じだった。都市銀行のオンラインシステムが相互接続されたのは1980年代半ばのこと。
 ちなみに,今となっては想像するのが難しいが,私の職場では70年代末まで月給は現金支給で,給料日の朝には経理の担当者が会社の車で現金(金種ごとの数を計算してある)を会社に運び,会社の会議室で給料袋に詰めていた。一般には,月給やボーナスの銀行振込は70年代前半に広まったと思う。そのひとつのきっかけになったのは,1968年の「3億円強奪事件」(東芝府中のボーナスを運ぶ現金輸送車が襲われた)だった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Nov 09, 2017

「真白き富士の根」と「高校三年生」――悲しくない短調 再び

 前に,昔の日本の歌には「悲しくない短調」の曲がけっこうある,という話を書いたことがある(→参照)。
 そのとき挙げなかった例として,「船頭さん」(村の渡しの船頭さんは…)と「森の小人」(森の木陰でどんじゃらほい…)のことをちょっと調べてみたら,この2曲は,ともに開戦の年1941年の曲で,歌詞の軍国的な部分を戦後改変したという共通点があるとのこと。私の子供のころにはみな知っている歌になっていたのは,NHKラジオの「うたのおばさん」などを通じて広まったからだと思う。(今だったら「おばさん」などというタイトルはつけないでしょうね。)
 「船頭さん」の作曲者は河村光陽という人で,この人は「うれしいひなまつり」「仲良し小道」「りんごのひとりごと」といった悲しくない短調の曲を残している。

 短調と長調ということでおもしろいのは,「真白き富士の根」(七里ヶ浜の哀歌)である。1910年1月に逗子開成中学の生徒ら12人が乗ったボートが鎌倉・七里ヶ浜沖で転覆して全員死亡した事件があり,その追悼会で,鎌倉女学校(現鎌倉女学院 逗子開成と創立者が同じ「姉妹校」だった)の生徒たちによって“初演”された。原曲はアメリカの賛美歌で,鎌倉女学校の教諭だった三角錫子が詞をつけたものである。この曲,たしかに楽しげな曲ではないが,長調だし,哀歌という感じではない。しかし,『日本唱歌集』(岩波文庫)の解説ほかによると,後に演歌師などが短調で歌って全国に広まったという。
 逗子開成も鎌倉女学院もほぼ地元なので,この事件のことは私は中学のころぐらいから知っていたが,後に聞いたところでは,この事件は,生徒たちが勝手にボートを持ち出して強風の吹く冬の海に漕ぎだして起きたという。とすれば,この歌がなかったら世の人の涙を誘うようなことにはならなかった可能性が高い。

 「青い山脈」の系譜に属する「悲しくない短調」としては,「高校三年生」(1963)が思い出深い。サビの「ああ」は女声コーラスをバックに2小節延ばされ,8分音符のキザミと共に盛り上がる。レコードのジャケットの舟木一夫は学生服姿だった。
 その後も,たとえば1975年の「我が良き友よ」(吉田拓郎)も,短調で青春を歌っている。しかし,歌詞の内容は「青い山脈」などより上の年代であり,かつてのような青春賛歌とは趣を異にしている。
 いま,明るい短調の曲は書かれているのだろうか。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

Oct 12, 2017

衆議院解散 1980と2017

 首相の思いつきによる「思いつき解散」によって衆議院議員選挙が公示され,選挙戦が始まった。今回の衆議院解散はかなり突然だったにもかかわらず,28日の解散から5日後には近所に選挙ポスターの掲示板が立派にできていた。――うーん,日本人は真面目だ。
 衆議院議員の任期は4年だが,たいていはそれ前に解散がある。前回の選挙からもう2年半以上たっていたから,関係者は少しずつ準備をしていたのだろうが,全国規模で誤りなく整えるのは容易ではないだろう。しかも今回は選挙区の区割りの変更があったし。

 私が選挙権を得て以来,今回は18回目の総選挙になるらしい。その中で,あまりの突然の解散にもっとも驚いたのは,1980年5月の通称「ハプニング解散」である。
 当時私は一人暮らしでテレビを持っていなくて,解散のニュースを知らないまま寝た。翌朝は土曜日だった。寝ぼけまなこで新聞を広げたところ(今の多くの若者と違って新聞は取っていた),「大平内閣不信任案可決」「衆院解散へ」という大見出しが踊っていて目が覚めた。
 不動の自民党政権の時代で,不信任案が提出され否決されるのは儀式のようなものだった。しかしこのときは,自民党内の反主流派の多くが採決を欠席したために,通るはずのない内閣不信任案が可決されたのである。大平首相は,当然総辞職はしないで衆議院を解散,予定されていた参議院選挙と初めての同日選挙になった。

  ~~~~~~~~~~~~~~~
 うかつにも先週初めて気づいたのだが,東急東横線の日吉駅の駅メロは「若き血」だった。なるほど。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Sep 21, 2017

エスカレーターを歩く/東京外し

 駅や商業施設などのエスカレーター上を歩くことの是非をめぐって,ときどき論争が起こる。鉄道会社や店舗側は,強弱はいろいろだが,歩かないことを求める掲示を出している。しかし,少なくとも鉄道の駅では,歩かない人はエスカレーターの(東京の場合)左側に立ち,歩く人のために右側を空けておく習慣が確立している。
 確かに走るのは危険だから,私は年も考えて,エスカレーターでは原則として走らないことにしているが,正直にいうと,急いでいるときは歩きたい。せっかく速く移動する手段があるのだから使いたいと思う。
 それで私は,自分なりの原則を立てた。その1は「なるべく(特に下りは)階段を歩く」。そしてエスカレーター上を歩く条件だが,その2「先行者(前を歩く人)が複数人いるときのみ歩く」。もちろん立っている人の状況(荷物を出っ張らせていないなど)を見た上でのことであるが,前を歩く人がある程度の数いて問題なく歩いていれば,危険性はぐっと減る。これに加えてその3は「付則」で「前に誰もいないときは歩いてもよい」。
 ただし,エスカレーターの安全基準の前提は,「歩かない」ことよりも「(急停止に備えて)手すりにつかまって乗る」ということに重点があるらしい。これをどうしてくれると言われるとちょっと困るが,とっさのときにすぐ手すりをつかむという心構えをしておく,というところだろうか。

 三菱東京UFJ銀行が,来年4月に名称から「東京」を外し,「三菱UFJ銀行」となるという。UFJと合併する前は「東京三菱銀行」で,当時はこれでも長いと感じていた(業界での略称は「トーミツ」だった)(→参照)。
 東京三菱は,三菱銀行と東京銀行が合併したものである。東京銀行は,昔の横浜正金銀行が解体された後その業務を引き継いだ外為銀行で,かつては外貨,特に米ドル以外の入手には,たいてい東京銀行へ行っていた。その東京銀行に由来する「東京」が今回消えることになる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧