昔話

Jun 11, 2008

ベルリン国立歌劇場1977 (2)――70/80年代の外来オペラ

承前
 『フィガロの結婚』は,NHKホールを避けて上野の1月29日夜にした。この日は昼夜2回『フィガロ』という大変な日で,スイトナーはすでに帰国していて,指揮はハインツ・フリッケという人だった。
 1974年バイエルンの『ワルキューレ』でヴォータンを歌ったテオ・アダムがこの公演の演出をつとめ,かつ自ら伯爵を歌った。伯爵夫人がアンナ・トモワ=シントウ,フィガロがジークフリート・フォーゲルという布陣だった。『フィガロ』を見るのは初めてだったので,一生懸命予習をしたつもりだったが,2幕・3幕のドタバタはけっこう複雑だし,4幕は夜の場面でしかも変装があり,ストーリーの展開を追うのがなかなか難しかった。それでも,チェンバロの伴奏によるレシタティーヴォをはさみながら,歌と芝居がテンポ良く運んでいく喜劇を楽しんだ。

 このベルリン国立歌劇場の招聘元は総合文化社という会社だった。当時の最大手の「呼び屋」は新芸術家協会で,ウィーン・フィルやベルリン・フィルの招聘を次々に手がけていたが,総合文化社は,その新芸術家協会に追いつけ追い越せとばかりに急速に事業を拡大していた。プログラムの冒頭に同社社長のあいさつがあり,そこでは7年間このオペラの日本公演の実現にすべてをかけてきたことについての感慨を述べ,最後を「苦難の状況の中で協力し続けてくれた総合文化社の仲間にも厚くお礼を述べたい」と,異例の身内への言葉で結んでいる。
 また,プログラムの後ろの方には

  とうとう日本にやってくる
   ウィーン国立国民歌劇場(フォルクスオーパー)
     1978年8月~9月
     指揮(予定):カルロス・クライバー
             オトマール・スイトナー

という予告が出ている。
 しかし,ベルリン国立歌劇場でよほど無理をしたと見えて,総合文化社は1977年秋にあえなく倒産してしまう。11月から12月にかけて予定されていた同社主催のズビン・メータ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニーの公演は中止になった(メータは結局,単身来日して読響を指揮した)。ウィーン・フォルクスオーパーの初来日は延びて1979年になった。
 さらにその4年後の1981年,業界トップとして強気の商売をし,高額の入場料で非難を浴びていた新芸術家協会も,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニーの来日中止をきっかけに倒産した。
  (この項終わり)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 09, 2008

ベルリン国立歌劇場1977 (1)――70/80年代の外来オペラ

 バイエルン来日の翌年(75年),初めてヨーロッパへ出かけ,ミュンヘンで『ボリス・ゴドゥノフ』,ウィーンで『コシ・ファン・トゥッテ』『タンホイザー』を,いずれも立ち見で見た。翌年二期会がこの3演目をすべて上演したのはおもしろい偶然だった。(ウィーンでの2本については,「本拠地」の「昔のエッセイ」の中の「立見席から――あるヴィーン便り」参照)

 次の外来オペラは,1977年1月のベルリン国立歌劇場。その後2007年までに計8回来日して25回の上演に接することになるこの劇場の初来日である。この劇場は当時はベルリンの壁の向こうにあり,レコードも少なく,長い伝統を誇るオペラハウスということ以外何も知らなかった。
 演目は『フィガロ』『ドン・ジョヴァンニ』『コシ』のモーツァルト3本で,東京,横浜,新潟,名古屋,大阪,札幌を転戦しながら,25日間に21公演(1日2公演の日が2回あり)が行われた。東京の会場は『フィガロ』『ドン・ジョヴァンニ』の各初日がNHKホール,地方公演後の1月下旬の公演は東京文化会館,『コシ』は郵便貯金ホール(今のメルパルクホール)だった。
 私は10日の『コシ』初日と29日夜の『フィガロ』最終回を見た。

 1月10日の『コシ・ファン・トゥッテ』はオトマール・スイトナーの指揮だった。スイトナーは当時この劇場の音楽総監督で,すでにN響への客演でおなじみになっていたスイトナーというのはこんなに偉い人だったのか,と思った。
 当日配られたメンバー表が,プログラムの間に挟まれて残っている。ワープロのないころで,ガリ版(死語か)のような筆跡の手書きのコピーである。セレスティーナ・カサピエトラ(フィオルディリージ),ペーター・シュライヤー(フェルランド),レナーテ・ホフ(デスピーナ),ジークフリート・フォーゲル(ドン・アルフォンソ)など,後に何度も聞くことになる東独の名歌手たちの名が並んでいる。特にフォーゲルは,いちばん最近の来日時(2007)の『モーゼとアロン』にも出演しているから,30年の長きにわたって接してきたことになる。
 上演の様子についてはこれまたほとんど覚えていないが,簡素ながら美しい舞台だった。
  (この項続く

 ◇注:見たオペラの記録は「本拠地」に作曲家曲目別・年代順リストがあります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 04, 2008

バイエルン国立歌劇場1974 (3)――70/80年代の外来オペラ

承前
 徹夜して切符を買った『ワルキューレ』は『ばらの騎士』の2日後だった。指揮は当時51歳のサヴァリッシュ(音楽総監督),演出はギュンター・レンネルト(総監督)。こんどは5時開演なので,やむを得ず午後は休暇とした。
 イングリッド・ビョーナー死去のときにも書いたが(→参照),歌手は,ジェームズ・キング(ジークムント),カール・リッダーブッシュ(フンディング),テオ・アダム(ヴォータン),ギネス・ジョーンズ(ジークリンデ),ビョーナー(ブリュンヒルデ),ブリギッテ・ファッスベンダー(フリッカ)という音楽祭並みの豪華メンバーだった。予定ではブリュンヒルデは,当時の私でも名前を知っているビルギット・ニルソンだった(ビョーナーとのダブルキャスト)が,このときニルソンは結局来日しなかった。
 ピットの中は,たぶんワグナーの指定通りの人数(ヴァイオリン8プルトずつ)のオーケストラであふれ,後ろの仕切りを外して,ハープをちゃんと6台並べていたと思う。後に知り合いになる日本人ヴィオラ奏者I氏はすでに在籍していた。

 当時,オペラで字幕は出ない。家庭用ビデオもまだなかったので,「名曲解説全集」などを読んで「予習」する必要があった。会場にはレコード(CDでなくLP)に付属の対訳書を持ってきている人がたくさんいた。
 演奏・歌唱についてはこれももはやほとんど覚えていないが,音楽の力にもっとも動かされたのは,第3幕,ブリュンヒルデがジークリンデに,あなたは高貴なるヴェルズング族の後裔を胎内に宿していると告げる場面で,「英雄ジークフリートの動機」が登場するところである。「ジークフリートの葬送行進曲」の中のメロディとして以前からなじみ深かったので,旧知の友人に会ったような感じがした。ここは,4夜にわたる『ニーベルンクの指輪』の中でこの動機が初めて鳴り響くところなので,まったくの本末転倒ではあるが。
 この贅沢すぎる『ばらの騎士』『ワルキューレ』に圧倒されたことが,私のオペラ史の始まりになった。
  (この項終わり)

| | Comments (1) | TrackBack (1)

Jun 01, 2008

バイエルン国立歌劇場1974 (2)――70/80年代の外来オペラ

承前
 さて,『ばらの騎士』当日の9月24日,5時半開演なので5時に会社を飛び出し,神田駅まで小走りに歩いて山手線に乗り,上野へかけつけた。
 席は4階センターの2列目あたりで,まず前奏曲が4階席までわき上がるような音の奔流で始まった。切符を斡旋してくれた友人から聞いた説によると,前奏曲の途中のホルンのプルルルン・プルルルン・プルルルンという三連音符は,幕が上がる直前に進行している(はずの)シーンのある種のクライマックスの描写だというが,それを過ぎて穏やかな音楽になり,鳥の声が聞こえるといよいよ幕が開く。そこは,後にレーザーディスクで見ることができるユルゲン・ローゼの装置による豪華な室内だった。窓から朝の光がふりそそぐのがことのほか美しく,その後上野ではたくさんの舞台を見てきたが,このときほど舞台が広く見えたことはない。
 4年前のクライバー死去の時に書いたように(→参照),指揮者の音楽を意識する余裕はなかった。豪華な舞台と寄せては返すように流れていく豪華な音に圧倒されるばかりだった。

 ところが第1幕の後半で,オペラ用の緞帳でない幕が突然するすると降りてきて,音楽が止まった。事故にしてはヘンだなと思ったらアナウンスが入り,爆破予告の電話があったので念のため爆弾の捜索を行うので,ロビーへ出ろという。開幕前からの「予定の行動」だったようだが,それならなぜ開演を遅らせて捜索しなかったのだろうと思った。あるいは予告の爆発時刻が7時,というようなことだったのかもしれない。結局40分ぐらいの中断の後,再開された。

 この『ばらの騎士』の歌手は,ギネス・ジョーンズ(元帥夫人),ブリギッテ・ファスベンダー(オクタヴィアン),カール・リッダーブッシュ(オックス男爵)といったメンバーだった。
 後にワグナーを何度も聞くことになるギネス・ジョーンズはこのとき36歳,ホフマンスタールの設定した元帥夫人の年齢32歳とあまり違わない年で,もちろん二十代前半の者から見ると堂々たるプリマドンナだったが,十分に若い姿・声だった。『音楽の友』の表紙を飾ったジョーンズの写真を自室の壁に貼っていた友人もいた。
 ファスベンダーも同年配で,なるほどズボン役というのはこういうものなのかと思った。
 このうち,ファスベンダーとリッダーブッシュには,翌年ウィーンで再び出会う。
 そして,その後のクライバーのカリスマ化は急だった。

 『ばらの騎士』は,次に実演を見るのは1981年のドレスデン歌劇場初来日でのことになる。それまでの間には,カラヤンのザルツブルク音楽祭の映画(1960)を2回ぐらい見た。
 1982年春,クライバー=バイエルンの『ばらの騎士』がNHK教育テレビで放送されるという予告が出たのを見て,あわてて秋葉原へ走り,それまで買うのを躊躇していたビデオデッキ(モノラル)を買った(当時は教育テレビはモノラル)。タイトルが出てすぐ演奏が始まり,最後も幕が降りたあと数秒で番組が終わるという3時間の枠ぎりぎりの放映だった。この映像も,上記カラヤンの映画も,後にレーザーディスク(今はDVD)で発売された。
  (この項続く

| | Comments (3) | TrackBack (1)

May 31, 2008

バイエルン国立歌劇場1974 (1)――70/80年代の外来オペラ

 海外のオペラハウスの本格的な引っ越し公演は,1963年のベルリン・ドイツオペラが最初である。このオペラはその後66年,70年にも来日したが,そのころはまだオペラにはあまり興味はなかった。金もなかった。
 初めて本格的なオペラを見たのは就職してからで,1974年のバイエルン国立歌劇場(当時の日本語表記は「ミュンヘン・オペラ」)の初来日公演だった。このときは,友人から「関係者を通じて『ばらの騎士』の切符が買えるんだけど」と言われ,それじゃあということで行ってみることにした。
 パンフレットを入手して見ているうちにほかの曲も見たくなり,一般発売の前夜から竹橋の毎日新聞社に並んだ。電話予約もなく,プレイガイドに徹夜で並ぶのが普通のことだった時代である。毎日新聞は後援社のひとつなので,普通のプレイガイドよりは買いやすいと推測された。未明の点呼にはやむを得ずタクシーでかけつけたりして,結局『ワルキューレ』の切符を買った。

 このときの演目は上記のほか『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』で,東京では4演目が各3回(いずれも東京文化会館),大阪では『フィガロ』が3回,『ワルキューレ』『ばらの騎士』が各1回,ほかに特別演奏会が4回あった。指揮は『ばらの騎士』がカルロス・クライバー,他がサヴァリッシュとフェルディナント・ライトナーで,クライバーは「第3の指揮者」だった。サヴァリッシュはこのときすでに音楽総監督で,日本では1964年以来N響の指揮でおなじみになっていた。
  (この項続く

| | Comments (0) | TrackBack (2)

May 10, 2008

ケルンとローマ

 70年代に当時は西ドイツのケルンに行ったことがある。ドイツはその後も南の方しか行ったことがなくて,ケルンが今まで行ったドイツの「北限」である。
 有名な大聖堂の向かい側にローマ博物館があった。細かいことは覚えていないが,わかりやすく展示する工夫がこらされ,非常によく作られた古代史博物館だと思った。その地下展示室では,ローマ時代の遺跡の発掘現場をそのまま保存してガラス越しに見られるようになっていた。
 今のドイツ地域は,『ゲルマニア』などの書物に記録された北方の辺境であり,そもそもケルンという地名はラテン語の colonia(植民地)に由来する。

 その数日後,ローマへ飛んだ。
 ローマでは,町中に古代の遺跡・遺物があるのを見て目がくらむような思いがした。古代ローマの中心をなすフォロ・ロマーノはちょっと別格にしても,ケルンで大切に保存・展示されていたようなものが,そこらじゅうにごろごろしているのだった。「永遠の都」というのは,永遠に遺跡で食っていける街,でもあった。

 ローマからは南回りの飛行機で23時間半かかって帰ってきた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 03, 2008

暗譜――器楽の場合とオペラの歌詞

 指揮者は必ずしも暗譜で振らなくてもよいし,器楽のピアノ伴奏の演奏会などでも楽譜が置かれていることは多いが,オペラの歌手・合唱は必ず暗譜しなければならない。ミュンヘンの篠の風さんのブログを読んでいると,そんなあたりまえのことにあらためて気づかされる。ことに去年の『モーゼとアロン』の暗譜のことは何度も記されていた。
 器楽の独奏曲などは,それだけで完結した構成を持っているから,暗譜するのは難しくない。若いころなら,練習しているうちに自然に覚えてしまう。ちょっとした落とし穴はロンド形式のフィナーレやバロックの曲で,同じフレーズが戻ってくるたびに次にどこへ行くかで迷うことがある。
 昔,国内オーケストラの演奏会で,指揮者R氏(現在は同楽団名誉指揮者)の夫人がピアノ独奏者として登場,モーツァルトの d-moll の協奏曲を演奏したことがある。そのフィナーレの後半,ロンドのテーマが長調に変わっていくところで,ソリストが長調になるタイミングを間違えて混乱に陥り,R氏は夫人にいろいろ合図を送っていたようだが,混乱は次のトゥッティまで続いた。

 オペラでの暗譜というのはもちろん歌詞,それに演出上の動きも含めて「暗譜」する必要がある。しかも自分の歌うところは部分であり,その間や前後も頭に入れないといけないから,シーズンに登場するすべての曲を暗譜するのは大変なのだろうなと思う。
 たぶん有名な話だと思うが,1950年代ぐらいのこと,オペラの本番の途中で藤原義江が予定の動きをしないで前に出てきた。指揮者の森正はそのまま振りながら「違う,違う」と合図をするのだが,なおも出てくる。よく見ると,いや正しくはよく聞くと,藤原は森の方を見て,旋律は正しいまま「なんだっけなあ~」と歌っていたという。歌詞を忘れたのだった。プロンプターもいなかったのだろう。

 暗譜とは関係ないが,こちらは友人が実際に見た話。二期会の『ドン・ジョヴァンニ』(70年ごろ?)の大詰めで,騎士長の石像がドン・ジョヴァンニに向かって悔い改めるよう最後の警告をするところで,騎士長の故・大橋国一が「ドーン・ヴァジョーンニー」と歌ってしまい,そばにいた伊藤京子は吹き出しそうになるのを懸命にこらえていたという。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

Apr 06, 2008

キャンディーズ短信

 カラヤン生誕100年の前日は,キャンディーズの解散コンサート30周年だった。このコンサートの日については,前に書いたように,ちょっとした思い出がある。
 しかし,キャンディーズ自体には特に深い思い入れはない。70年代後半はテレビを持っていない生活をしていて,日常的には流行歌に接する機会がなかった。それでも耳に入ってくる「トシシータの男の子」とか「もうすぐはーるですねえ」とかいう曲はきっと大ヒット曲なんだろうな,と想像するばかりだった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Apr 05, 2008

カラヤン生誕100年

 今日(4月5日)はカラヤン生誕100年の日だそうだ。
 1966年の来日のときの初日は,今では考えられないが,NHKの総合テレビで夜7時から2時間にわたって生中継された。曲は,ベートーヴェンのコリオラン序曲,6番,5番だった。このときは5日間にベートーヴェンの交響曲が全曲演奏され,FMでは毎日生放送があったので,当時高校生だった私は,部活(吹奏楽)のあと,間に合うように走るようにして帰った。
 生で聞いたのは1回だけ,1970年の日比谷公会堂で,曲はベートーヴェンの2番と5番。抽選で2000円ぐらいで聞ける青少年のための特別演奏会だった。どちらかというと,カラヤンより,ベルリン・フィル,特にそのダイナミック・レンジの広さに感嘆した。

 レコードでは,70年代のすべすべなでなでという感じの音が何とも不自然に思えて,気に入らないことが多かった。しかし,オペラをよく見るようになると,あらためてすごい指揮者だと思うようになった。特に印象的なのは,『サロメ』のLPと,『ドン・カルロ』のLDである。「別格」は古い方の『ばらの騎士』で,最初はヤマハ・ホールでの上映を見たが,後にLDで発売になったときは飛びついて買った。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Mar 22, 2008

シルヴィ

 久しぶりにシルヴィ・バルタンの名を目にした。近く来日公演があるという。
 シルヴィ・バルタンは,1965年ごろ「アイドルを探せ」でブレークした。レコードなんて買えず,ラジオで聞くだけだったが,フランス語の響きというのを初めて知った。「ラプバリプアレドスィー」という歌詞の断片は今も耳に残っている。
 続いてもう少し子供っぽいフランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」がヒットした。こちらはたしか,日本語バージョンも出たと思う。

 フランス語の歌がひとつのきっかけになって,高校2年の春,ラジオのフランス語講座を聴き始めたが,これは二十日坊主ぐらいで終わった。
 それから十数年後,伯父の法事で行った鎌倉のお寺で,そのラジオ講座の担当だったA先生の名を寄進者名の掲示の中に見つけた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Mar 02, 2008

植え込み通過作戦

 小学校のとき,校門と校舎の間に植え込みがあって,そこは入ってはいけないことになっていた。しかし,そこを通れば近道になる。
 そこでわれわれは一計を案じた。下校するとき,じゃんけんで負けた者が悪者になって,まず1人で植え込みに入っていき,残りが「こら,待て~」といいながら追いかけて,結局全員通ってしまうのである。
 何回かやっているうちに担任の先生に見つかった。ガキの浅知恵に先生は苦笑しつつ,「あしたからダメだぞ」と宣告した。

 ずっと後で知ったことだが,その小学校の校舎は,海軍機関学校の校舎が払い下げられたものだった。植え込みもたぶん海軍時代以来のものだろう。
 海軍機関学校といえば,かつて芥川龍之介や内田百閒が教官をしていたことがある学校だが,その建物はさすがに芥川のころより後のものだったのではないかと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Feb 26, 2008

レーザーディスク vs VHD

 次世代DVDの規格として HD-DVD を推進してきた東芝が撤退するというニュースに関連して,しばしば家庭用ビデオにおける VHS とベータの規格争いが引き合いに出されている。これほどのスケールでなかったから忘れられているが,80年代にはビデオディスクを巡ってもレーザーディスク(LD)対 VHD という規格争いがあった。
 LD は,意外なことに,音声だけの CD より早く実用化された。業界団体の会合にパイオニアの人がやってきて LDのデモを見せられ,鮮明な映像に驚いたのは 1980年ごろだった。1981年にプレーヤーが発売になった(CD プレーヤーは 1982年)。
 VHD はビクターと松下が推進したもので,プレーヤーの発売で LD に後れを取り,1983年になった。LD が LP と同じ 30cmの盤だったのに対し,VHD は一回り小さく,長方形のケースごとプレーヤーに入れるようになっていた。

 オペラのソフトがどうなるかが,私には気がかりだった。全体にソフトの数が今の DVD とは比較にならないくらい少ない中での話だが,最初のうち,オペラソフトのカタログ内容で VHD がややリードしている感があった。特に,ウニテルの映像が VHD で出るようになって一時は VHD に傾いた。
 しかし,LD の方が基本的に映像がきれいだし,細かい前後関係は忘れたが,ハードの方はソニーが LD に加わって活気を見せてきて,CD とのコンパチブル機もいずれは出ると聞き,迷う要素が増えた。やがてフィリップス・ドイツグラモフォングループが LD(当初は CD-Video LD という名称だった)を出し始め,ウニテルのソフトが LD でも出る予定,という雑誌記事を見て,LD にすることにした。
 VHD で出ていたソフトはその後 LD で大部分出たが,ベームの『こうもり』はたぶん LD では出なかった(その後 DVD で出た)。

| | Comments (0) | TrackBack (1)