昔話

Oct 11, 2019

旭化成本社は神保町――祝 ノーベル化学賞

 9日夜からずっとニュースに登場している旭化成本社は,神保町三井ビルにある。私の職場はかつてそこから60メートルほどの所にあり,しかも友人が同社の重要ポストにいたので,旭化成はご近所として親しみを感じる存在だった。
 神保町三井ビルは,神保町1丁目奇数番地のすずらん通り南側地域を「再開発」して建てられた3つのビルのうちのメインのビルである。このあたりはかつて小規模の書籍取次の店が建ち並んでいて,「神田村」と呼ばれていた。取り壊しが始まったのはちょうど20年前のことになる。
 三井ビルが建って再開発が完了したのは2003年3月で,同年12月,その1~9階に,会計検査院が「入居」した。霞ヶ関の中央合同庁舎7号館建設のあいだということで,結局4年間の仮住まいだった。その場所プラス14階のフロアに,2008年5月に日比谷から引っ越してきたのが,旭化成本社だった。
  神保町1丁目再開発の経緯については,以下を参照:
   本拠地 →神保町の昼食の章 →神保町昼食ニュース 目次

 台風15号による被害で不通になっていたJR久留里線の久留里~上総亀山間は,10月11日午後から運転を再開した。
 しかし,もっと強力な台風19号が近づいている。

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Sep 26, 2019

昼食の終わりと始まり――神保町だより9月

 神保町の昼食の店のいろいろな動きのうち,2件ご報告:
 マクドナルドの左の路地を突き抜けた右側の「魚百」で,ランチ営業を9月27日限りで終了するという貼り紙が出た。やはり人手不足なのだろうか。翌週からは,「ディナー営業」を15時50分からするという。
 ここの昼食では「海鮮丼」を何度も食べた。だいたい食べ終えてからご飯を足して出しをかけてお茶漬けにするところまで含めて 980円と,かなりのお徳用。毎月29日には「肉の日に対抗して」この海鮮丼が 500円で提供されていた。

 同じくマクドナルド左側の路地を入ってすぐの左側地下,メキシコ料理店の「ソルアミーゴ」(昔はエル・アルボリートという名だった)で,昼のみ営業のカレー店「まんぷくカリー24」が8月13日に開店した。通るたびに絶賛客引き中。
 ランチは1000円で,カレーは豚肉角煮,キーマ,およびそのハーフ&ハーフから,ご飯の量は大・中・小から選び,付け合わせ(コロッケ,焼きビーフン,もやしの和え物),サラダ,ドリンクは取り放題。ほかにデザートが付く。
 いくつかのウェブサイトによると,この店の店主は「間借り界のレジェンド」だそうだ。しかし神保町には,20年前にすでに昼だけの間借りカレー店があった。それはランチョンの左の道を北へ進んだ右側,居酒屋「櫓」で10年近く昼に営業していた「YAGURA」(1999/3/1開店,2008/8/4閉店)である。インド人(たぶん)がやっているけっこう本格的なインドカレーだった。
  参照:本拠地 →神保町の昼食の章
      →神保町 昼食さまざま
      →目次のずっと下の方「昼だけのカレー屋」
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Aug 26, 2019

アメリカの州と州都――今日の雑知識

 あるとき,米国の州の州都はけっこう小さな都市,あるいは知らない町が多いことに気づいた。そのとき気になったのは
  イリノイ州の州都は Springfield  シカゴではない
  カリフォルニア州は Sacramento  ロサンゼルスではない
  ミシガン州は Lansing  デトロイトではない
  ネヴァダ州は Carson City  ラスヴェガスではない
  ニューヨーク州は Albany  ニューヨークではない
といったあたり。
 その後ネットを調べたら,Wiki にずばりこの件を扱った項目があるのを初め,一部では話題になっていた。それらを総合すると,州都が州内最大の都市でないのは,50州のうち33州にのぼるという。
 米国はその名の通り州の連合体(United States)であり,州の独立性が高いから,州都にはそれなりの役割があるのだと思うが,それは大都市でなくてもよいということなのだろう。

 アラスカとハワイが米国の正式な州になったのは 1959年で,州の数は50となった。このとき小学校の先生が,星条旗の星の数は州の数を表すと教えてくれたことがかすかな記憶にある。私の小学校はすぐ隣りが米軍基地で,星条旗はいつも目にしてした。
 ネット上の資料によれば,米国国旗のデザインが正式に50星に変わったのは,1960年の独立記念日のことだった。48星のときは8個×6行で整然と並んでいたが,50星では6個の行と5個の行が交互に9行(1行目と9行目が6個)並ぶ互い違い配列になった。

 アラスカは面積が最大の州である。アラスカの州昇格前は最大だったテキサス州の2倍以上ある。当時のテキサスでは「北部の連中から,アラスカを2つに分けてテキサスより大きい州を2つにしてやる,と脅された」というジョークが語られたという。
 面積の3位はカリフォルニア,4位がモンタナで,以上の4州は日本より大きい。
 人口はアラスカが最少かと思ったら,ワイオミング,バーモントに続いて下から3番目だった。当然,人口密度は最小である。
    (星条旗については →参照

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Aug 19, 2019

相鉄西谷駅

 真夏の某平日,相鉄・JR直通線(11月30日開通予定;→参照)の現況を見ようと,相模鉄道本線とJR直通新線の分岐駅・西谷(にしや)へ出かけた。
 小田急に乗り,居眠りしていて目を覚ましたら乗換駅の海老名だった。相鉄の駅に行くと,ちょうど特急が発車するところだった。特急は2014年から走っているようだが,乗ったのは初めて。大和に停車したのみで,14分で二俣川着,各駅停車に乗り換えて8分で西谷着。
 西谷は横浜市保土ケ谷区。昔,友人が西谷に住んでいて,「西谷ってどこ?」と聞かれると「新幹線で新横浜を出てすぐ飛び降りたとこ」と答えていたのを思い出す。東海道新幹線が「唯一の新幹線」だったころの話である。
 西谷は2面4線の分岐駅に改造された。中の2線が本線,外側2線が分岐して地下へ入るJR直通線だが,上りホームの分岐線側は柵がしてあってまだ使用されていない。ホームの端からは地下へのトンネル口が見える。まあしかしそれだけのことで,ほかに見るものもないなと思っていたら,「まもなく4番線に回送電車がまいります」というアナウンスがあって,柵がしてある側にのっそりと無人の電車が入ってきた。すぐ発車して,地下の新線へ入っていく。新線ですでに試運転が行われているというニュースは見ていたが,タイミングよく試運転電車に出会えたのだった。
 JR直通線が開通すると,西谷は特急停車駅になり,特急と各停がJRに直通する。西谷の次は羽沢横浜国大(新駅)に停まり,その先でJR貨物線に入り,次いで横須賀線・湘南新宿ラインに合流する。次の駅は武蔵小杉で,そのまま新宿まで行く(一部は埼京線経由で大宮および川越方面に向かう)。
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 猛暑だが,電車の中や建物の中は冷房が強すぎることが多く,軽い上着は手放せない。かつては,冷房は別に好きではないにしても特に弱いということはなかったのだが。
 小学校のころ,というのは1960年代初めごろだが,街の中心の商店街で冷房のある店は7,8軒にに1軒ぐらいだった。夏の帰り道には,冷房のある店の前ではゆっくりゆっくり歩いたり,数歩戻ってまた前を通ったりした。

 

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Jul 31, 2019

ドラム缶のベースギター――夏の思い出

 夏が来れば思い出す――中学のとき,というのは五十何年も前のことだが,毎年3泊4日の海のキャンプに出かけた。場所は三浦半島の先端近い小さな湾の奥にある合宿施設。学校にプールはなくて,このキャンプが水泳を習う唯一の機会であり,それまで泳げなかった私は,そこで中学1年のときに特訓を受けてやっと泳げるようになった。
 水泳以外の時間には,歌を歌ったり,ゲームやレクリエーションに興じた。このときに登場した年配のA先生は,生徒に歌を歌わせるために,なんと自作の楽器を持ってやってきた。それは,ドラム缶を立てて,上面に木の棒を水平に取り付け,そこに弦を張ったベースギターだった。
 弦は3本で,フレットはない。で,どうするかというと,弦を適当な調のド,ファ,ソに調弦し,主要三和音(ドミソ,ファラド,ソシレ)の根音を弾くのである。もちろん,簡単な歌でも主要三和音以外の和音を使うことはよくあるが,そのときは根音でなくともその和音に含まれている音で代用してしのぎ,最後をソ→ドと進行して終止すれば,けっこうそれらしくなる。で,私も弾かせてもらった。それまでメロディ楽器しか知らなかったので,ベースを弾くのはまったく初めてで,短い時間だったが低音楽器の快感を味わった。
 そのときの曲で覚えているのは「こおれる月影,空に冴えて」という歌詞で始まる「灯台守」である。原曲はイギリス民謡で,勝承夫の作詞だという。

 A先生は,中学生からするとかなりのおじいさんに見えたが,当時たぶん六十少し手前ぐらい。すでに学校を定年になっていて,嘱託かなにかで理科や技術家庭の授業をし,そのときは海のキャンプの手伝いにやってきたらしかった。ずっと後で知ったところでは,A先生の父は海軍の軍人でかつ東京帝大の教授,A先生自身も海軍の軍人で,A先生の弟は一人は戦前から戦後にかけて活躍した音楽評論家,もう一人の弟は古代日本語の音韻の研究で名を残して早世した言語学者なのだった。

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Jun 22, 2019

フランコ・ゼッフィレッリ死去

 6月15日,映画監督・演出家フランコ・ゼッフィレッリ氏が死去した。1923年生まれの96歳だった。
 初めてその監督作品に接したのは映画『ロミオとジュリエット』だった。1968年製作なので,ゼッフィレッリは当時45歳だったことになる。昔も今も私は映画にあまり熱心ではないが,このときは何かで紹介を読んで,珍しくちゃんと封切館で見た。十代の終わりごろのことである。
 シェイクスピアの原作どおりの年齢のジュリエットとして起用されたのは,撮影時15~16歳のオリヴィア・ハッセー。華麗なセットの中で,きらめくようにかわいく,初々しかった。ジュリエットだけでなくロミオ役のレナード・ホワイティングも私より若く,年下の俳優が主演する映画を見るのはもちろん初めてだった。ずっと前に書いた(→参照)が,そのオリヴィアが1980年に布施明と結婚するとは思いもよらないことだった。
 『ロミオとジュリエット』から10年あまりたって,ゼッフィレッリをオペラ演出の巨匠として知るようになった。今回調べてみたら,ゼッフィレッリ演出のオペラはこれまでに14回も見ていた(曲目の異なりは9曲)。
 [ロイヤル・オペラ](1979):『トスカ』
 [スカラ座](1981,1986,2009):『オテロ』『ラ・ボエーム』(2回)『トゥーランドット』『アイーダ』
 [メト](1997):『カルメン』『カヴァレリア・ルスティカーナ』&『道化師』『トスカ』
 [ウィーン国立](2004):『ドン・ジョヴァンニ』(以上すべて来日公演)
 [新国立劇場](2009,2013,2018):『アイーダ』(3回)(→参照;→参照
 たいていは舞台装置や衣装も演出家によるもので,『アイーダ』『トゥーランドット』が絢爛豪華なことは話題になるが,もちろんそればかりではなく,いつも具象的で精巧。舞台を見る歓びを味わわせてくれた。ちなみに,『トゥーランドット』のきんきらきんの宮殿は発泡スチロール製だとのこと。

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 先日,赤羽の「まるます家」の全面禁煙のことを書いた(→参照)が,神保町の薩摩焼酎の名店「兵六」は4月からすでに禁煙にしていたことに気づいた。

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May 01, 2019

平成の終わり

 4月29日,孫のお供で大連休でにぎわう八景島シーパラダイスへ行った。
 この時期限定の行事は,オタリア(アシカ科の動物)が「平成」と「揮毫」するというものだった。書き初めならぬ「書き終わり」である。もっとも5月からは新元号を書くのだろう。

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 5月1日,代替わりがあり,新元号がスタートした。先代は最初から「象徴」として即位した初めての天皇だったが,今回は戦後現憲法下で生まれた初めての天皇となった。崩御に伴う代替わりではないので,初めて,即位をすぐに祝うということになる。
 4月30日に退位,1日に即位の儀式が国事行為として行われた。まことに簡単なものだったが,三種の神器(のうちの2つ)が登場したのはどう見ても宗教儀式だった。

 自らヴィオラ弾きでもある新天皇には,演奏会場で何度か遭遇したことがある。これからはそうたびたびというわけにはいかなくなるのだろう。
 本ブログの関係記事は以下のとおり:
  ・2005/7  二期会から謹告(→参照
  ・2013/6  城に住む(→参照
  ・2013/10  ペルシャザールの饗宴(→参照

 某やんごとなき学校の関係者に聞いたことだが,新天皇の当時の呼び名は「殿下」で,あだ名は「てんまご」だったという。

 

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Apr 09, 2019

改元と文書作成

 4月1日,官房長官による新元号発表の記者会見が終わった後も,ネット中継は少しの間つながっていて,「いま資料をお渡しします」という声が聞こえてきた。当然,すべての元号候補について,出典等を記した資料を,あらかじめパソコン(上のワープロ)で作成してあり,閣議が終わるとすぐ「令和」の部分を事務方がコピーしたのだろう。
 選定作業の過程でも,資料はすべてワープロで作成されたに違いない。

 平成への改元(1989年)の際は,記者会見は今回と同様の形でテレビ中継されたが,資料作成はどのように行われたのだろう。そのころ,パソコンは PC9800シリーズ,ワープロは一太郎 Ver.3 の時代である。縦書きが可能で第2水準漢字が使えるようになっていたころだと思うので,文書の作成・配布については今回とほぼ同様のことができたはずだ。
 しかし,印字品質はどうだったのだろう。Windows前だから,アウトラインでない24ドットのフォントのみだったのではなかったか。あるいは,ワープロ専用機の方がプリントはきれいだったころだったかもしれない。
 当時ケータイはまだ黎明期だった。インターネットは個人が使える状況にはなく,「パソコン通信」サービスが普及し始めていて,電子メールはその会員同士でのみ使える仕組みだった。

 昭和への改元は1926年で,記者会見などが行われた形跡はない。官報などは活字組版だったが,それ以外の文書は手書きか和文タイプで作られたと思われる。もちろんコピーなどないから,数部ならカーボン紙をはさんで書くかタイプし,それ以上ならガリ版(謄写版)で印刷していたのだろう。
 こうした文書作成の事情は,基本的には1960年代まで同じである。私の年代だと,小学校から高校まで,学校からの配布物はほとんどすべてガリ版だった。60年代後半には街でコピーができるようになったが,最初は1枚80円ぐらい,つまり食堂で昼食が食べられるくらいの値段だった。

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Mar 22, 2019

大阪でもフェルメール

 京都で土曜日の午後に用事ができた。かつては仕事で年に3,4回は関西に行っていたが,引退後の4年間では今回が2回目になる。今回は,前日の金曜に東京を出て,午後は大阪市立美術館の「フェルメール展」に行くことにした。
 今回のフェルメール展は東京ですでに見たが(→参照;→参照),大阪にのみやってくる「恋文」と,東京では会期の後半でのみ展示された「取り持ち女」を主な目的に,大阪展に行ってみた次第。前売り券はネットで買った。東京と違って,日時指定ではなかった。
 前にも大阪でフェルメールを見たことがある。と思って調べたら,19年前の2000年4月に「フェルメールとその時代」展を見たのだった。会場は同じく市立美術館,フェルメールは4点(ほかに真作かどうか疑問のある模写1点)だった。

 地下鉄の天王寺で降り,暖かい日差しのもと公園の芝生でくつろく人々のそばを会場へ歩いた。多少は待つことを覚悟していたが,ほとんど待たずに入れた。
 フェルメールは上記の2点と,「手紙を書く女」「手紙を書く婦人と召使い」「マルタとマリアの家のキリスト」「リュートを調弦する女」の計6点。東京のように一堂に会してはいないで,2点ずつ3つの部屋に分かれていた。青い壁の荘厳な空間ではあるが,初めてみる「取り持ち女」はひときわ俗な題材で,不思議な明るさを見せていた。
 先に書いたように(→参照),フェルメールの真作とされる35点のうち,これまでに23点が来日し,そのうち22点,6割以上を見たことになる。

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 3月9日の阪神競馬で,プッチーニという馬がデビュー戦で勝利したという。なんと白毛の馬だそうだ。あまり速そうな名ではないが,レース運びはうまいのかもしれない。

 

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Mar 14, 2019

カレー屋のマーチ/デストロイヤー,森山加代子

 1年以上前に,神保町1丁目の北端,錦華通りをずっと行った左側のカレー屋「仙臺」に入ったら,吹奏楽の音が聞こえてきた。いずれもマーチで,食べている間に4,5曲聞いたが,曲名がわかったのは,ベネットの「ミリタリー・エスコート」と須磨洋朔「大空」のみだった。たまたま中学・高校のときにやったことがあったので知っていたのだが,それにしても,なんとも渋い選曲だ。
 先日久しぶりで行ったら,やっぱりマーチが鳴っていて,こんどはまったく知らない曲ばかりだった。ただし,うち1曲は,タイトルは分からないが,「キラキラ星」のテーマによる変奏曲マーチだった。

 先週,プロレスのザ・デストロイヤーの訃報が出た。本名が Richard John Beyer というのは初めて聞いた。
 日本で活躍していたのは私が中学からの10年間ほどだったようだ。当時,プロレスは人気があったが,一方では俗悪番組としてやり玉にあがったりしていた。だからというわけではないが,プロレスはあまり見なかったけれど,見なくてもよく知っている有名な存在だった。
 NHKのニュースでも「デストロイヤーさん」の死去を報じ,昔の映像を流していた。

 その少し前,歌手の森山加代子が死去した。新聞の訃報は意外と小さな扱いだった。「じんじろげ」「パイのパイのパイ」などは私が小学校のころのヒット作。小学生から見ると大人に見えていたが,9歳半ほどの違いだった。
 なつかしいのは,「じんじろげ」より9年後の「白い蝶のサンバ」。訃報でも代表作となっていた。

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