歴史・地理

Jul 31, 2016

薔薇戦争の名前,紘子さんの名前

 15世紀イングランドの「薔薇戦争」は,赤薔薇を紋章とするランカスター家と白薔薇のヨーク家に代表される勢力の争いだが,当然のことながら,当時から「薔薇戦争」と呼ばれていたわけではない。松岡和子『深読みシェイクスピア』(新潮文庫)によると,一連の内乱の終結後もずっと名前はなく,最初に「赤薔薇と白薔薇の戦争」と呼んだのは19世紀のウォルター・スコットだったという。
 さてそれでは,第一次世界大戦は,戦前はなんと言っていたのだろう。ヨーロッパが中心ではあったが「世界」という認識があったとすれば,The World War か。
 「薔薇戦争」は英語では Wars of the Roses と複数形だが,1980年代に The War of the Roses という映画があった。邦題は『ローズ家の戦争』。

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 7月26日,ピアニストの中村紘子氏が死去した。
 このブログでは,一度,庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』との関連で中村さんの名前を出したことがある(→参照)。子供のころから有名だったからずいぶん年上のような気がしていたが,まだ72歳だった。
 「紘子」とか「紘一郎」(寄生虫学の藤田紘一郎氏など)という名は,一目で「当用漢字制定前」とわかる名である。1948年以降,人名に使える漢字は当用漢字のみになり(後に人名用漢字が加わる),戦後の産物である当用漢字に入らなかった「紘」は使えなくなった。終戦までは国家のスローガン「八紘一宇」に使われた重要な漢字だったのだが。

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Aug 16, 2015

歴史に日付,70年/2つの展覧会

 8月15日は,終戦から70年の日だった。
 高校までに学んだ日本史で,年代でなく日付で歴史が記述されていたのは1945年の8月6日・8日(ソ連の参戦)・9日・15日だった。戦後,8月は祈りの季節となった。

 70年といえば,短い時間ではない。たとえば,平城京がみやこだったのは実質70年だし,信長の表舞台への登場から,秀吉を経て徳川の世となり,家光によって江戸時代の体制が確立するまでがほぼ70年である。
 そして,終戦までの70年といえば,近代国家としての体裁が整い始めてから,戦争を繰り返しつつ「列強」の一員になり,ついには敗戦に至る長く重い時間である。それを思えば,戦争がなかった70年がいかに貴重なものかがわかる。

 猛暑のある日,東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館(長い名前だ)で,「旅の風景 安野光雅 ヨーロッパ周遊旅行」を見てきた(8/23(日)まで)。津和野の安野光雅美術館所蔵の水彩画110点あまりの充実した展示である。昔友人に連れられて行ったことのあるシュベービッシュ・ハル(ドイツ南部)の風景の絵があって,旧友に再会したような気がした。
 次いで,神奈川県立近代美術館鎌倉館で「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 2:1966-1984 発信する近代美術館」を見た(10/4(日)まで)。高校のころ以来50年近く通ったこの美しい美術館は,八幡宮との借地の期限を迎えて建物の老朽化が激しく,来年で役割を終える。

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Nov 16, 2014

ヒトラーの演説

 少し前に,高田博行著『ヒトラー演説――熱狂の真実』(中公新書)を読んだ。ヒトラーの演説の用語やレトリックを分析しながら,弁論術をどのようにして身につけ,活用したかを明らかにした本である。ヒトラーは第一次大戦後のヴェルサイユ体制で疲弊したドイツ人の心をつかんだが,そのために演説と,それを多くの人に伝える拡声器とラジオがきわめて重要な役割を果たした。またヒトラーは,発声と演技についてオペラ歌手に指導を受けたという。
 ナチスドイツでは,外国のラジオ放送を聞くことは禁止されていた。しかし電波は国境を越えてやってくる。外国からドイツ向けの放送も行われていて,一部の人たちはナチスの統制によらない世界情勢についての情報を得ていた。これは,後の東ドイツと同様である。
 ヨーロッパでは1939年9月に戦争が始まったが,1941年になると東方戦線(対ソ連)は膠着し,その年の秋以降,ヒトラーがラジオのマイクの前に立つ回数は急速に減っていく。太平洋戦争の開始は1941年12月である。日本が参戦するより前の段階で,ヒトラーが国民に語りかける意欲を失っていたというのは,この本で初めて知った。これでは,「同盟国」日本の立つ瀬がまったくない。

 土曜日の新聞に,オペラ演出家の西沢敬一氏の訃報が載った。西沢氏演出の舞台は,1970年代から見ているからもっとずっと年上の人かと思ったら,たったの70歳だった。二期会を中心に,見たオペラは14回で,鈴木敬介氏,粟国安彦氏に次いで多い。

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Jul 28, 2014

歴史の記憶――サラエボ事件から100年

 今年6月,第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件から100年を迎えた。第一次大戦は4年後に終結したが,そのわずか21年後に,第二次世界大戦が始まった。今日までの100年のうち,最初の31年が大戦の期間だった。
 私の祖母は1885年生まれで,100年前には29歳。さっき気づいたのだが,私が生まれたときには,祖母は今の私の年齢だった。この年代の人は,日清戦争が9歳,日露戦争が19歳,太平洋戦争が56歳で,日露戦争以降は大人としての記憶があるはずだ。
 祖母が昔,笑い話として話をしていたのだが,祖母より少し年上のおばあさんが「戦争のときに」と言うので直近の太平洋戦争のときのことだと思ったら,実は日露戦争のことだったとのこと。若いときの記憶が鮮烈だったのだろう。

 私が小学生のころ,戦後のサンフランシスコ平和条約あたりまでが,すでに「歴史」の中のできごとになっていた。祖母が大人になったころ,明治維新は37年前のことで,もちろん歴史の中のことになっていただろうが,体験者はまだたくさんいたはずで,町並みも江戸時代の面影が濃かったことだろう。
 今から37年前といえば1977年,有珠山の噴火や王貞治の756号ホームランの年であり,当時東ベルリンのベルリン国立歌劇場が初来日した年である(→参照)。
 100年といえば長い年月で,たくさんの歴史が詰まっているが,3世代の記憶でカバーできる年月でもある。
   (→参照:「作曲家の没年」――これももう10年前)

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Mar 29, 2014

山の名,岩の名,病気の名

 「エベレスト」という山名は,イギリスの地理学者でインド測量長官だった George Everest にちなんだものである。昔これを知ったとき,測量してそこに自分の名前をつけちゃうなんてひどい話だと思った。しかし実際には,エベレスト氏が自分でつけたわけではなく,後任の長官が「現地名が発見できなかったので」ということでつけたらしい。
 今は,チベット語名「チョモランマ」もけっこう用いられるようになったし,ネパール名「サガルマタ」も知られてきた。

 オーストラリアの世界一の一枚岩は,今は「ウルル」の方が普通になったが,かつては「エアーズ・ロック」だった。こちらはサウス・オーストラリア植民地の総督だった Henry Ayers の名にちなむ。総督といえばまあいちばんえらいのだろうが,王様の名前をつけたヴィクトリア湖(ヴィクトリア女王の名より)とかルイジアナ(最初フランスの植民地だったのでルイ14世の名をつけた)などに比べると貫禄が足りない。

 「川崎病」という病気の名は,報告した医師の名によったものである。一方で「水俣病」のように地名によるものもある。地元にとってはありがたくないことだと思うが。
 コレラ菌の分類に「エルトール型」というのがあるが,これはエジプトの検疫所があった地名によったものだという。しかし,同じくコレラ菌の分類の「小川型」の小川というのは人名だが,医師の名ではなく,これはなんと患者の名だという。どういう事情なのかは知らないが,ひどい話だ。ほかに稲葉型というのも同様らしい。

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Nov 26, 2013

ゲティスバーグの演説150周年

 ケネディ暗殺から50年の日の3日前の11月19日は,リンカン大統領のゲティスバーグの演説150周年の日だった。ゲティスバーグで行われた記念式典では,リンカンに扮した俳優が演説を再現したという。
 100年違いで選出され,共に暗殺されたケネディとリンカン両大統領には,昇格した副大統領が同じくジョンソン(08年生まれ)だったことを初めとして,偶然の符合がいろいろある。しかし,前にも触れたことがあるが, Wikipedia 日本版の「リンカーン大統領とケネディ大統領の共通点」によれば,多くの偶然の中の「白眉」だと思っていた「ケネディの秘書がリンカン,リンカンの秘書がケネディだった」という点については,リンカンの秘書にケネディという人がいたという記録はない,とされているのはちょっと残念だ。

 それにしても,なぜ「暗」殺なのだろう。「ひそかに(狙って)」ということらしいが,特にケネディの場合は白昼,大勢の目の前であり,「暗」いところはない。英語の assassin の語源はアラビア語でなんと「大麻常用者」だという。つまり hasheesh(ハシシュ,大麻)と関係のある言葉だった。

 高校の世界史の教科書などでは,だいぶ前から「リンカン」「ローズヴェルト」という表記が多数派になっている。「カンザス」もかなりかなり一般的になった(昔は「カンサス」と言っていた)。しかし,「ランドン」「イリザベス」にはなりそうもない。

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May 06, 2013

2つのアトリエ記念館――連休短信(4)

 連休後半のある日の午後,2つのアトリエを訪ねた。西武新宿線の下落合駅を出発し,まずは聖母坂を上って左に入った路地の奥の「佐伯祐三アトリエ記念館」である。アトリエとその隣の小部屋を復元し,母屋の一部を管理棟・ミニギャラリーにして整備したもので,周囲は今はぎっしり住宅が建ち並んでいるが,かつては武蔵野の面影を残す林だったという。
 この地での作品である下落合風景の連作(複製)が展示され,ミニギャラリーには現在の同じ地点の写真もある。昔の雰囲気がいちばん残っているのは山手線の煉瓦の高架の風景だった。Aap5058463


 目白通りを目白駅方向へ歩き,少し南側に入ったところに,この3月に開館した「中村彝(つね)アトリエ記念館」がある。こちらはアトリエのみの復元で,周囲に少しゆとりがある。赤い屋根と窓の白枠が今見てもしゃれている。Aap5058470

 中村がここにアトリエを作ったのは29歳のときである。佐伯はその7年後で,佐伯は当時23歳で新婚だった。いろいろな苦労をしながらも,画家がほぼ絵だけで生活し,この若さで自分のアトリエを持つことができたのは,今とは質の違う豊かさがあったからという気がする。これは,当時の作家についても言えることである。
 そのまま池袋まで歩き,なじみの居酒屋に「休日出勤」した。

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Feb 11, 2013

史上最大の if

 ヒトラーが1933年1月に首相になり,政権を掌握してから80年を迎えた。ヒトラーが政権の座にあったのはそれから12年余りで,たいした長さではない。しかし,一人の人間が世界に与えた影響としてはもっとも大きなものだったのではないか。
 歴史に関して「もし…だったら」を言っても意味がないのだが,それでもやはり想像したくなることのひとつは,「ヒトラーがウィーンの美術学校に合格していたら…」という if である。そのまま画家,または美術関係の職業についたかどうかがひとつの分かれ道だが,そうだったとしても,何かのきっかけで政治への野望を抱くことはありそうだ。ちなみに,ヒトラーの2年前にはエゴン・シーレがウィーン美術学校に合格している。
 さらに,ヒトラー自身はおとなしく暮らしたとしても,第一次大戦後の敗戦国の疲弊の中で,別の形で別のヒトラーが出てくることも,歴史的状況としては必然だったのかもしれない。

 ヒトラーの政権奪取は,クーデターなどではなく,選挙という合法的な手段を通じて行われた。日本の場合も,ドイツのような一人によるリーダーシップはなかったが,議会の「翼賛」のもと,一応合法的に,戦争への道を突き進んだ。
 ちなみに(といっても,あまりちなんではいないが),日本国憲法は,大日本帝国憲法の改正という形で,最後の帝国議会で議決された。旧憲法とはまったく異なる原理に基づく憲法が,旧憲法に定められた憲法改正の手続きに従って成立したのだった。

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