映画・テレビ

Jun 17, 2008

緊急地震速報を初体験

 6月14日(土)の朝,テレビをつけたままパソコンに向かっていたところ,テレビでなんだかチャイムの音がして「緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください」という録音済みメッセージが流れた。ときどきテスト放送をやっているのは見たことがあったが,一瞬ピンとこないままテレビを見たところ,すぐナマ放送画面となり,アナウンサーが登場して対象地域を言い始め,それが文字でも出た。「あれ,これ,もしかしてホンモノだ」と言っているうちに,東京にもゆうらりゆうらりという揺れがきた。
 チャイムの音がしてからナマ放送に切り替わるまではほんの数秒だった。アナウンサーはネクタイをしていた。緊急事態担当のアナウンサーが24時間待機しているということなのだろう。(このときのNHK総合テレビの様子は YouTube で見ることができる。)
 その後はずっと地震のニュースをやっていたが,その間,余震についても緊急地震速報が何回か流れた。

 その後の報道によれば,震源が浅かったので震源地に近いところでは速報とほとんど同時に地震が起きたが,仙台では15秒ほど間があったという。15秒ならとっさの対応をすることが可能な時間ではある。
 今回,一応「現物」を見たので,「次」はとりあえずテーブルの下に入るぐらいはできそうな気がする。しかし,私の場合,そもそもテレビを見る時間が短いので,その間に速報が出る確率はかなり低い。

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Jun 05, 2008

『オーケストラの向こう側――フィラデルフィア管弦楽団の秘密』

 このごろ,以前よりは映画を見る回数が増えている。まだ単独でシニア割引になる年ではないが,50歳以上の夫婦の割引があればありがたく利用させてもらっている。
 先日行った映画館で表題の映画の予告編を見た。「予告編」は英語で trailer というらしいが,文字通りこれに引っ張られて,夜9時から始まる「レイトショー」で見てきた。原題は Music From The Inside Out で,フィラデルフィア管弦楽団のメンバーへのインタビューをモザイクのように構成したドキュメンタリーである。
 オーケストラ(サヴァリッシュ,エッシェンバッハなど指揮)と室内楽の演奏の断片を挟みながらインタビューが続く。ただそれだけなのだが,オーケストラではチームプレーに徹している彼らが,淡々と仕事をこなすスレた職人ではなく,音楽を楽しんでいる様子が伝わってきて,どんどん引き込まれてしまう。
 今回の上映は13日まで(7日以降は朝だけ)なので,とり急ぎ報告した次第(→参照先

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Feb 26, 2008

レーザーディスク vs VHD

 次世代DVDの規格として HD-DVD を推進してきた東芝が撤退するというニュースに関連して,しばしば家庭用ビデオにおける VHS とベータの規格争いが引き合いに出されている。これほどのスケールでなかったから忘れられているが,80年代にはビデオディスクを巡ってもレーザーディスク(LD)対 VHD という規格争いがあった。
 LD は,意外なことに,音声だけの CD より早く実用化された。業界団体の会合にパイオニアの人がやってきて LDのデモを見せられ,鮮明な映像に驚いたのは 1980年ごろだった。1981年にプレーヤーが発売になった(CD プレーヤーは 1982年)。
 VHD はビクターと松下が推進したもので,プレーヤーの発売で LD に後れを取り,1983年になった。LD が LP と同じ 30cmの盤だったのに対し,VHD は一回り小さく,長方形のケースごとプレーヤーに入れるようになっていた。

 オペラのソフトがどうなるかが,私には気がかりだった。全体にソフトの数が今の DVD とは比較にならないくらい少ない中での話だが,最初のうち,オペラソフトのカタログ内容で VHD がややリードしている感があった。特に,ウニテルの映像が VHD で出るようになって一時は VHD に傾いた。
 しかし,LD の方が基本的に映像がきれいだし,細かい前後関係は忘れたが,ハードの方はソニーが LD に加わって活気を見せてきて,CD とのコンパチブル機もいずれは出ると聞き,迷う要素が増えた。やがてフィリップス・ドイツグラモフォングループが LD(当初は CD-Video LD という名称だった)を出し始め,ウニテルのソフトが LD でも出る予定,という雑誌記事を見て,LD にすることにした。
 VHD で出ていたソフトはその後 LD で大部分出たが,ベームの『こうもり』はたぶん LD では出なかった(その後 DVD で出た)。

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Jan 10, 2008

妖星ゴラスの接近

 小中学生のころ見た映画で『モスラ』の次によく覚えているのは『妖星ゴラス』である。突然太陽系にやってきた「妖星ゴラス」の軌道計算をした結果,このままでは地球と衝突することがわかり,南極にロケットエンジン(?)を建設し,地球を動かして公転軌道を変えてしまう,という壮大な物語である。
 南極に,空に向けて噴射する巨大なエンジンが建設されていく。衝突を避けるタイムリミットが迫る中,人類が協力して事に当たるあたりには,冷戦まっただ中の当時の夢がこめられていた。

 恐竜の絶滅は小惑星が地球に衝突したのが原因という説は,当時まだなかったのかもしれないが,地球の大きさに比してはるかに小さい小惑星でも大きな影響をもたらすわけだから,大きな「妖星」がやってきたら,衝突しなかったとしても地球はひとたまりもないだろう。
 仮に地球を動かして衝突を避けることができたとしても,その「後始末」はもっと大変そうだ。元の軌道に戻すのだろうか。戻さないと,1年の長さも変わるし,太陽との距離が変わるので気候の大変動が起こるだろう。南極は大陸があるからエンジンの建設ができたが,戻そうとするとこんどは北極の氷の上に建設する必要がある。
 野暮な「考察」をすると,やはり荒唐無稽な話だということになってしまう。

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Jan 05, 2008

テレビニュースのテーマ曲

 今は,テレビのニュースなどのテーマ音楽はたいていオリジナルのものだが,1960~70年代には「既成」の曲がよく使われていた。
 今でもたまに聞くと,朝日新聞社の旗が出てくるタイトル画面を思い出してしまうのは,バレエ『コッペリア』の「マズルカ」。テレビ朝日は昔は日本教育テレビ(NET)といっていたが,その「朝日新聞ニュース」のテーマ音楽だった。旗は,いかにも扇風機という感じの風にばたばたとはためいていた。
 ビゼーの交響曲ハ長調の第3楽章をテーマ音楽にしていたのはなんだっただろう。TBSのニュースか? 番組の始めにはこの楽章の始めを,終わりには楽章の終わりの部分(ごく短かったが)を使っていた。
 フジテレビの「今日の出来事」のテーマは行進曲「ウィーンはいつもウィーン」だった。タイトルには列車が登場していたような記憶がある。
 いずれも,曲名を知ったのはだいぶ後のことである。

 行進曲といえば,ラジオのスポーツ番組ではよく行進曲が使われていた。たとえば,文化放送のナイター中継はスーザの「エル・キャピタン」,ニッポン放送はガンヌの「ロレーヌ州行進曲」だったと思う。
 これに対し,NHKは古関裕而の「スポーツショウ行進曲」,ラジオ東京(今のTBS)はレイモンド服部の「コバルトの空」というオリジナルもので,両者ともその後テレビにも引き継がれた。また両者とも,放送では最初の部分(NHKのはイントロなしの短縮版もあった)しか演奏されなかったが,実際にはトリオをもつ通常の行進曲として作られていた。楽譜も出版されていて,中学のときに体育祭で演奏したことがある。

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Dec 09, 2007

ジョン・カルショーと『ゴールデン・リング』

承前
 ジョン・カルショーの手記『ニーベルングの指輪――リング・リザウンディング』には,このレコーディングを題材にしたBBCテレビのドキュメンタリー番組のこともかなりのスペースを割いて記されている。記録する立場であるプロデューサーが,ここでは記録される立場になって,とまどいつつ楽しんでいるようだ。

 読了後,その番組『ゴールデン・リング』のLD(learning disabilitiesではない)を取り出して久しぶりに見た。たぶん,買った直後に見て以来である。ちょっと見るだけのつもりだったが,おもしろくて結局全部見てしまった。本の中で,BBCのチームが,デッカのレコーディングチームの熱気を目の当たりにして,次第にそこにのめりこんでいく姿が印象的だったが,その「結果」がモノクロ90分の中に凝縮している。
 ニルソン,ホッターらの名歌手,ショルティ,およびウィーン・フィルのウィリー・ボスコフスキー(コンサートマスター)やベルガー兄弟らの姿が見られるし,録音中のもっとも愉快なエピソードである「グラーネ事件」(このことは,『指輪』LPの解説書にも写真入りで載っていた)の模様も出てくる。(『ゴールデン・リング』は今はもちろんDVDで出ている。)

 その後,カルショーのもうひとつの著書『レコードはまっすぐに』(学研)も見つけた。『リング・リザウンディング』以上の大冊である。来週あたり集中的に読むようにしよう。

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Jun 12, 2007

『モスラ』の歩み

 映画は昔からあまり多くは見ていないが,それだけに,見た少数の映画のことは比較的よく覚えている。小学生のころに見た映画でいちばん印象に残っているのは『モスラ』である。

 『ゴジラ』は見ていないので,特撮映画・怪獣映画というのも『モスラ』が初めてだった。東京の街を破壊していく所はミニチュアのセットで撮影されたわけだが,ゴジラは着ぐるみで撮影できたのに対して,モスラは空を飛ぶからそうもいかず,技術的な難度は高かったはずだ。
 モスラは昆虫であり,卵・幼虫・さなぎ・成虫と姿を変えていくのがいちばんおもしろいところだ。東京タワーに登ってさなぎとなり,そこから成虫として空に飛び出すところは,物語のクライマックスとは別の特撮のクライマックスだった。

 この映画の音楽が古関裕而(→参照)によるものであることを知ったのはずっと後のことであるが,双子の小人役のザ・ピーナツが「モスラーーや」と歌う歌は非常に印象的だった。
 そして,『モスラ』の原作が,中村真一郎・福永武彦・堀田善衛の共作であることを知ったのはさらに後のことだった。物語の進行役を務める新聞記者・福田善一郎の名は,この3人の名前から作られたのだった。

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Mar 30, 2007

しゃぼん玉消えた――追悼・植木等

 ときどき行く飲み屋で,「昭和レトロ」を売りにした立ち飲みの店がある。その看板は昔の映画の看板を模したもので,その中心には植木等がいるし,店内では植木等の歌がしょっちゅう流れている。
 植木等死去の報道があった日,その店に行った。「今日は追悼で半額じゃないの?」と言ったら,「いやあ,それはちょっと。でもあちらにちゃんと…」と店長が指さした台の上には白いユリの花が飾ってあった。

 クレージーキャッツをいちばん多く見たのは「しゃぼん玉ホリデー」でだった。いつも,病気のお父さんとその看病をする娘たちの定型ギャグがあり,最後に植木等が出てきて「お呼びでない? お呼びでない? こりゃまた失礼しました」と言って終わるのを毎週見ていた。植木等が座頭市のパロディ「植木市」というのをやったのも,たぶんたった1回のことなのに印象に残っている。

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Aug 01, 2004

未来都市ニューヨークから

 中学の吹奏楽部で『ウエストサイド物語』のハイライトを演奏したのは1964年だった。I feel pretty,Maia,Tonight の3曲というシンプルな構成だった。
 このミュージカルの完成・初演は1957年だから,できて7年後の演奏だったことになる。当時すでに,Tonight は中学生でも知っていたから,Tonightを中心に「ポピュラー音楽」として早い時期に日本に上陸したのかもしれない。(I feel pretty は知らず,後にレコードを聴いて,こういう速いテンポでやるものだったのかと思った。)

 ブロードウェイのオリジナルキャストによるレコードも出て,しだいに主要なナンバーの数々を知るようになったが,映画を見るまではまさに隔靴掻痒で,ピンとこない部分も多かった。私だけでなく,大部分の日本人にとって,この作品の全体像を知ったのは,ロバート・ワイズ,ジェローム・ロビンス監督の映画によってだろう。
 映画では,群衆の合唱の中で2人だけの世界が浮かび上がるダンスパーティの場面,5人がそれぞれの思いを歌いながら Tonight を再び歌う五重唱など,きわめてオペラ的な場面が非常に印象的である。音楽語法はジャズによっているが,実体はまさにオペラであることを知った。
 日本以外での『ウエストサイド物語』の「古典名曲化」の過程はどうだったのだろう。ちなみに,オーケストラのための「『ウエストサイド物語』による シンフォニック・ダンス」は1960年の作品。

 ものの本ならぬもののサイトを見ると,1964年にブロードウェイの人たちが来日して初の舞台上演を行ったという。その後,日本人による舞台初演は1968年の宝塚で,「男性入り」日本人初演は1974年の劇団四季の公演だそうだ。
 74年の四季版は,その年だったか少し後の再演だったか忘れたが,日生劇場で見た。比較的簡素な舞台装置を背景にした,白いドレスの久野綾希子の姿が鮮やかな印象を残した。

 映画『ウエストサイド物語』の製作は1961年,私が見たのは60年代後半になってからだった。イントロダクションで,空から見たニューヨークの街がしだいに浮かび上がってきて,抽象的な模様のようなものは実は高速道路だったことがわかるという場面がある。ここで見たニューヨークは,当時の感覚では,まったくの別世界であり,未来都市の姿を見ているような気がした。
 東京ではそのころすでに首都高速の一部は開通し,高度成長に伴う「破壊の時代」が始まっていたのだが,街には木造2階建ての店舗や住宅がいくらでもあり,バキュームカー(死語ですね)が走り回っていた。
 ただし,その後の変化は急速で,ニューヨーク(実はまだ行ったことがないが)が私の中で未来都市だった期間は短かった。

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Jun 17, 2004

The Wonderland of Ozu

 友人と話をしていて,小津安二郎の映画とその舞台,特に日本家屋が話題になったことがあった。年末年始の生誕100年記念の小津作品放映を見ていて,伝統的な日本家屋に住んだことのない子どもたちは「はたきをかける」という言葉がわからなかったという。
 畳の部屋があれば「ふとんを敷く・上げる」というのはわかるかもしれないが,「雨戸(を閉める)」「蚊帳(かや)(を吊る)」「縁側(に腰掛ける)」「なげし」「欄間」「卓袱台」といった事物・表現はもはや死語となった。
 それに比べると,食べ物・飲み物はパッケージが変わっても今もあるものが多いが,「一本つけてもらおうか」なんていうせりふはピンとこないだろう。

 小津映画の常連・笠智衆は,神奈川県某所の私の通った高校へ行く道の近くに住んでいた。一人で歩いているのを,学校の帰り道に何度も見かけた。テレビに出ていたから知っていたわけだが,小柄の,ほんとうに普通のおじさんだった。戦後の名作の数々の撮影から十数年後だったことになる。

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