日記・コラム・つぶやき

Jul 02, 2008

本日退院

 禁固6日で,本日退院しました。ゆっくり社会(リアル,ネット)復帰します。
 入院ということ自体,生まれて初めてで,いろいろ興味深い体験でした。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

Jun 28, 2008

突然入院

軽い気持で目の診察に行ったら、今夜手術ということになり、入院しました。手術は無事終わり、経過は一応順調で、当初予定(1週間)より早く退院できるかも。片目眼帯でヴォータンのように院内さすらい人状態です。(初めて携帯から書いています。)

| | Comments (3)

Jun 22, 2008

ウィーン・フォルクスオーパー3連発(下)

承前
 フロトーはもちろん,「軽騎兵」序曲で中学生のころからおなじみのスッペも,オペラは初めてだった。共に他愛のない話としかいいようがないが,ミュージカルに連なる無類の楽しさだった。
 この2曲のうち,『ボッカチオ』の方が登場人物も多く,なによりボッカチオという大詩人を主人公にしていることで話に「厚み」がある。タイトルロールはアルトが歌い,非常に自然だった。これは戦後ずっと男が歌っていたのを,この演出で原曲通りのズボン役に戻したのだという。
 第1幕の舞台はフィレンツェの広場だが,ステージの奥行きの関係か,広場には見えず,街角の狭いスペースにぎっしり人が集まっていた。そこで「ベアトリねえちゃん~三馬鹿の歌」(浅草オペラでの題名)を歌う間抜け男トリオの1人は,シャンドール・ネーメットだった。ネーメットは,1985年に『チャールダーシュの女王』のフェリ・バーチ役で「ヤイ・ママン」の熱唱を聞いて以来,深く記憶にきざまれている歌手で,今回はこの日のみの出演。もう70歳近いはずで顔はさすがに老けたが,身のこなしは若い。

 フロトーはスッペより7歳,ワグナーより1歳年上で,しかも『ボッカチオ』がスッペ60歳のとき(1879)の作品なのに対し,『マルタ』はフロトー37歳のとき,つまり1847年初演という「古い」曲である。
 このオペラの「主題歌」は「夏のなごりのばら」,つまり「庭の千草」である。(字幕では終始「庭の千草」というタイトルを表示していたが,「夏のなごりのばら」としないとその前後の歌詞との関連がわかりにくい。) ほかに冒頭その他で歌われる合唱の曲は,日本では昔「じいさん酒飲んで酔っぱらって死んじゃった」という歌詞で知られていた。
 物語の焦点となる上流階級と庶民の交錯がおもしろく描かれていた。歌手もそれぞれ良かったが,マルタ役が非常に「庶民的」で,あまり「実は高貴」という感じがしなかった。

 この『マルタ』のすぐあと,新国立劇場の07ー08シーズンが終わった。あとは演奏会形式の『ペレアスとメリザンド』で今年前半のオペラは終わりの予定である。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

Jun 21, 2008

ウィーン・フォルクスオーパー3連発(上)

 まとめて書こうと思っているうちに旧聞になってしまったが,5月24日から毎週土曜日に3回連続で上野に通い,ウィーン・フォルクスオーパーの来日公演を見た。演目は,超定番の『こうもり』と,初めて見る『ボッカチオ』(スッペ),『マルタ』(フロトー)。
 フォルクスオーパーは,79年の初来日以来,以前は3,4年おきに来日していたが,今回は9年ぶり8回目だという。私の記録7回目なのだが,99年(確かに9年前)の前が93年なので,たぶん96年ごろに私の見ていない「6回目」があったのだろう。(この間,2005年にウィーンの本拠地で1度見た。[→参照])

 『こうもり』は,ハインツ・ツェドニクの伝統を重んじながらスピード感のある演出。去年の新国立劇場も同じツェドニクの演出でこれも良かったが,舞台装置が違うのと,今回はツェドニク自身がフロシュ役で出演していたことで,新鮮だった。(なお,91年末にウィーンで『こうもり』を見たときには,ツェドニクがアイゼンシュタイン役だった。)
 開幕して最初に声が聞こえるアルフレート役には,オペラ歌手としては引退したルネ・コロが特別出演した。70歳になったはずだが,10年ぶりに聞く声は,ときどきかすれ気味にはなるが,往年の輝きが十分に残っている。演技と併せて若い役を若く好演。考えてみるとワグナー以外の曲で聞くのは初めてだった。コロは確か,父も祖父もオペレッタ作曲家だから,先祖返りでもある。
 オルロフスキーはカウンターテナーによるこの役を確立したヨッヘン・コワルスキー。こちらは94年のウィーン国立のときに比べるとあの不思議な迫力は衰えていた。なお,この94年のときにアデーレだったリーンバッハーが今回はロザリンデを歌っていた。
  (続く

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Jun 17, 2008

緊急地震速報を初体験

 6月14日(土)の朝,テレビをつけたままパソコンに向かっていたところ,テレビでなんだかチャイムの音がして「緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください」という録音済みメッセージが流れた。ときどきテスト放送をやっているのは見たことがあったが,一瞬ピンとこないままテレビを見たところ,すぐナマ放送画面となり,アナウンサーが登場して対象地域を言い始め,それが文字でも出た。「あれ,これ,もしかしてホンモノだ」と言っているうちに,東京にもゆうらりゆうらりという揺れがきた。
 チャイムの音がしてからナマ放送に切り替わるまではほんの数秒だった。アナウンサーはネクタイをしていた。緊急事態担当のアナウンサーが24時間待機しているということなのだろう。(このときのNHK総合テレビの様子は YouTube で見ることができる。)
 その後はずっと地震のニュースをやっていたが,その間,余震についても緊急地震速報が何回か流れた。

 その後の報道によれば,震源が浅かったので震源地に近いところでは速報とほとんど同時に地震が起きたが,仙台では15秒ほど間があったという。15秒ならとっさの対応をすることが可能な時間ではある。
 今回,一応「現物」を見たので,「次」はとりあえずテーブルの下に入るぐらいはできそうな気がする。しかし,私の場合,そもそもテレビを見る時間が短いので,その間に速報が出る確率はかなり低い。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 15, 2008

客家料理の系譜――西巣鴨「来佑」

 1990年前後の数年間,西池袋の立教大学脇の小道に「東江楼」という中華料理の店があった。看板に大書してあるわけではないが,この店は珍しい客家料理の店で,会社の有志で「東江楼ツアー」が実施されたこともあった。
 閉店後久しく名前を聞かなかったが,今春,知人のSさん(ブログではeijyoさん)が,東江楼の厨房にいた人がやっている店を,それも2軒見つけた。ひとつは,千歳烏山の「福満楼」。Sさんが墓参の帰りに数人でそこで食事をし,豚の角煮を蒸しパンで包む料理を食べながら「池袋の東江楼と同じくらい美味しい」と話したら,女将さんが調理場のマスターを呼び「この人,東江楼にいました」というのでびっくりしたとのこと。

 その女将さんが,東江楼にいた人がやっている店がもう1軒ある,といって教えてくれたのが西巣鴨の「来佑」である。Sさんのブログでこれを知り,「西巣鴨は神保町からわずか12分だし,ぜひ行きましょう」ということで,5月の連休の合間と下旬の2回,Sさんと私の周囲の人々による「来佑ツアー」が行われた。
 Sさんはその前に下見に出かけたのだが,そのときは夜の営業の前で閉まっていて,しかも外観はちょっとうらぶれていたので,その後電話で予約したものの,きっとがらがらなのでは,と思っていたという。しかし,行ってみると,家族連れやグループ客,そして1人客でいっぱいで,大盛況だった。もちろん,普通の中華料理店としても,失礼ながらその店構えからは想像できないほど高水準なので,客家料理という意識はなく来ている客も多いのだろう。
Img_1096_2
 2回とも数人のグループだったのでずいぶんいろいろ食べたが,2回とも食べたのは東江楼伝来の「客家風豚肉角煮込みパン付」「客家 白玉子スープ」。前者の中身の豚角煮は,東坡肉と同じく八角も入っているのだと思うが,高菜が色と味を決めていて,白い蒸しパンとの色の対照が鮮やかである。
Img_1100
 1回目の帰り際,店主のYさんがあいさつに出てきた。Sさんが「家宝」として保存していた東江楼のパンフレットのカラーコピーを見て,その温顔をますますほころばせた。
  (→参照)    [6月21日に写真を追加]

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 11, 2008

ベルリン国立歌劇場1977 (2)――70/80年代の外来オペラ

承前
 『フィガロの結婚』は,NHKホールを避けて上野の1月29日夜にした。この日は昼夜2回『フィガロ』という大変な日で,スイトナーはすでに帰国していて,指揮はハインツ・フリッケという人だった。
 1974年バイエルンの『ワルキューレ』でヴォータンを歌ったテオ・アダムがこの公演の演出をつとめ,かつ自ら伯爵を歌った。伯爵夫人がアンナ・トモワ=シントウ,フィガロがジークフリート・フォーゲルという布陣だった。『フィガロ』を見るのは初めてだったので,一生懸命予習をしたつもりだったが,2幕・3幕のドタバタはけっこう複雑だし,4幕は夜の場面でしかも変装があり,ストーリーの展開を追うのがなかなか難しかった。それでも,チェンバロの伴奏によるレシタティーヴォをはさみながら,歌と芝居がテンポ良く運んでいく喜劇を楽しんだ。

 このベルリン国立歌劇場の招聘元は総合文化社という会社だった。当時の最大手の「呼び屋」は新芸術家協会で,ウィーン・フィルやベルリン・フィルの招聘を次々に手がけていたが,総合文化社は,その新芸術家協会に追いつけ追い越せとばかりに急速に事業を拡大していた。プログラムの冒頭に同社社長のあいさつがあり,そこでは7年間このオペラの日本公演の実現にすべてをかけてきたことについての感慨を述べ,最後を「苦難の状況の中で協力し続けてくれた総合文化社の仲間にも厚くお礼を述べたい」と,異例の身内への言葉で結んでいる。
 また,プログラムの後ろの方には

  とうとう日本にやってくる
   ウィーン国立国民歌劇場(フォルクスオーパー)
     1978年8月~9月
     指揮(予定):カルロス・クライバー
             オトマール・スイトナー

という予告が出ている。
 しかし,ベルリン国立歌劇場でよほど無理をしたと見えて,総合文化社は1977年秋にあえなく倒産してしまう。11月から12月にかけて予定されていた同社主催のズビン・メータ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニーの公演は中止になった(メータは結局,単身来日して読響を指揮した)。ウィーン・フォルクスオーパーの初来日は延びて1979年になった。
 さらにその4年後の1981年,業界トップとして強気の商売をし,高額の入場料で非難を浴びていた新芸術家協会も,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニーの来日中止をきっかけに倒産した。
  (この項終わり)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 09, 2008

ベルリン国立歌劇場1977 (1)――70/80年代の外来オペラ

 バイエルン来日の翌年(75年),初めてヨーロッパへ出かけ,ミュンヘンで『ボリス・ゴドゥノフ』,ウィーンで『コシ・ファン・トゥッテ』『タンホイザー』を,いずれも立ち見で見た。翌年二期会がこの3演目をすべて上演したのはおもしろい偶然だった。(ウィーンでの2本については,「本拠地」の「昔のエッセイ」の中の「立見席から――あるヴィーン便り」参照)

 次の外来オペラは,1977年1月のベルリン国立歌劇場。その後2007年までに計8回来日して25回の上演に接することになるこの劇場の初来日である。この劇場は当時はベルリンの壁の向こうにあり,レコードも少なく,長い伝統を誇るオペラハウスということ以外何も知らなかった。
 演目は『フィガロ』『ドン・ジョヴァンニ』『コシ』のモーツァルト3本で,東京,横浜,新潟,名古屋,大阪,札幌を転戦しながら,25日間に21公演(1日2公演の日が2回あり)が行われた。東京の会場は『フィガロ』『ドン・ジョヴァンニ』の各初日がNHKホール,地方公演後の1月下旬の公演は東京文化会館,『コシ』は郵便貯金ホール(今のメルパルクホール)だった。
 私は10日の『コシ』初日と29日夜の『フィガロ』最終回を見た。

 1月10日の『コシ・ファン・トゥッテ』はオトマール・スイトナーの指揮だった。スイトナーは当時この劇場の音楽総監督で,すでにN響への客演でおなじみになっていたスイトナーというのはこんなに偉い人だったのか,と思った。
 当日配られたメンバー表が,プログラムの間に挟まれて残っている。ワープロのないころで,ガリ版(死語か)のような筆跡の手書きのコピーである。セレスティーナ・カサピエトラ(フィオルディリージ),ペーター・シュライヤー(フェルランド),レナーテ・ホフ(デスピーナ),ジークフリート・フォーゲル(ドン・アルフォンソ)など,後に何度も聞くことになる東独の名歌手たちの名が並んでいる。特にフォーゲルは,いちばん最近の来日時(2007)の『モーゼとアロン』にも出演しているから,30年の長きにわたって接してきたことになる。
 上演の様子についてはこれまたほとんど覚えていないが,簡素ながら美しい舞台だった。
  (この項続く

 ◇注:見たオペラの記録は「本拠地」に作曲家曲目別・年代順リストがあります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 07, 2008

都会の神社2景

 Img_1029神田には,別格の神田明神以外にも,神社がけっこう多い。神保町周辺にもいくつかあるが,これはそのひとつで,小川町のビルの2階に鎮座している。外階段から上がれるようになっている。

 こちらは新宿区某所。神社自体は普通だが,境内を銀行の駐車場として貸していて,車は鳥居をくぐって出入りする。Img_1204

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 05, 2008

『オーケストラの向こう側――フィラデルフィア管弦楽団の秘密』

 このごろ,以前よりは映画を見る回数が増えている。まだ単独でシニア割引になる年ではないが,50歳以上の夫婦の割引があればありがたく利用させてもらっている。
 先日行った映画館で表題の映画の予告編を見た。「予告編」は英語で trailer というらしいが,文字通りこれに引っ張られて,夜9時から始まる「レイトショー」で見てきた。原題は Music From The Inside Out で,フィラデルフィア管弦楽団のメンバーへのインタビューをモザイクのように構成したドキュメンタリーである。
 オーケストラ(サヴァリッシュ,エッシェンバッハなど指揮)と室内楽の演奏の断片を挟みながらインタビューが続く。ただそれだけなのだが,オーケストラではチームプレーに徹している彼らが,淡々と仕事をこなすスレた職人ではなく,音楽を楽しんでいる様子が伝わってきて,どんどん引き込まれてしまう。
 今回の上映は13日まで(7日以降は朝だけ)なので,とり急ぎ報告した次第(→参照先

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 04, 2008

バイエルン国立歌劇場1974 (3)――70/80年代の外来オペラ

承前
 徹夜して切符を買った『ワルキューレ』は『ばらの騎士』の2日後だった。指揮は当時51歳のサヴァリッシュ(音楽総監督),演出はギュンター・レンネルト(総監督)。こんどは5時開演なので,やむを得ず午後は休暇とした。
 イングリッド・ビョーナー死去のときにも書いたが(→参照),歌手は,ジェームズ・キング(ジークムント),カール・リッダーブッシュ(フンディング),テオ・アダム(ヴォータン),ギネス・ジョーンズ(ジークリンデ),ビョーナー(ブリュンヒルデ),ブリギッテ・ファッスベンダー(フリッカ)という音楽祭並みの豪華メンバーだった。予定ではブリュンヒルデは,当時の私でも名前を知っているビルギット・ニルソンだった(ビョーナーとのダブルキャスト)が,このときニルソンは結局来日しなかった。
 ピットの中は,たぶんワグナーの指定通りの人数(ヴァイオリン8プルトずつ)のオーケストラであふれ,後ろの仕切りを外して,ハープをちゃんと6台並べていたと思う。後に知り合いになる日本人ヴィオラ奏者I氏はすでに在籍していた。

 当時,オペラで字幕は出ない。家庭用ビデオもまだなかったので,「名曲解説全集」などを読んで「予習」する必要があった。会場にはレコード(CDでなくLP)に付属の対訳書を持ってきている人がたくさんいた。
 演奏・歌唱についてはこれももはやほとんど覚えていないが,音楽の力にもっとも動かされたのは,第3幕,ブリュンヒルデがジークリンデに,あなたは高貴なるヴェルズング族の後裔を胎内に宿していると告げる場面で,「英雄ジークフリートの動機」が登場するところである。「ジークフリートの葬送行進曲」の中のメロディとして以前からなじみ深かったので,旧知の友人に会ったような感じがした。ここは,4夜にわたる『ニーベルンクの指輪』の中でこの動機が初めて鳴り響くところなので,まったくの本末転倒ではあるが。
 この贅沢すぎる『ばらの騎士』『ワルキューレ』に圧倒されたことが,私のオペラ史の始まりになった。
  (この項終わり)

| | Comments (1) | TrackBack (1)

Jun 03, 2008

旭化成,東京堂書店――神保町の5月

 神保町三井ビルでは,仮住まいしていた会計検査院が12月に退去したあとけっこう長い改装工事を経て,5月19日に旭化成グループの本社がオープンした。まだ入居していない部門もあるようだが,全体では1階から9階と14階の広大な面積を占め,近く勤務人口は2000人になるという。神保町随一の大企業の到来である。

 東京堂書店が数日休業してリニューアルし,5月16日に開店した。基本的な構造は変わらないが,通路を広げて余裕を持たせている。

 東京堂を話題にしようとして,久しぶりに思い出したことがある。
 80年代後半か90年代前半ごろのこと,たぶん毎日,たぶん昼前からかなりの時間,東京堂書店の3階のすずらん通りに面した窓のそばにじっとたたずみ,カーテンに隠れるようにして下を見ている小柄な男がいた。ただ立ってじっとしているだけで,他人に特に迷惑になるようなこともない。
 当時,社内の少なくとも数人と目撃談を交換した覚えがあり,おそらく半年とか1年というような期間続いたと思う。心理派ミステリーのネタになるかもしれない,などと思った。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Jun 02, 2008

ビアフェス2008

 六本木ヒルズで「ビアフェス2008」というのがあると聞き,前日の肌寒さから一転して晴れてビール日和となった1日(日)昼過ぎに行ってみた。六本木ヒルズ玄関口の円筒形のビルが,ビールジョッキの飾り付けをほどこされていた。Img_1246

 入口で20歳以上であることの証明書の提示を求められた。「顔パスじゃだめ?」と聞いたが許してもらえず,運転免許証を見せて「証明済み」の意味の黄色いリストバンドを受け取った。国内5社(大手4社とオリオンビール)が集まっていて,ビールのチケットは1杯500円均一。各社のレギュラーのビールが中ジョッキ,プレミアムが少し小さい「オリジナルグラス」で供される。プレミアムというのは,プレミアムモルツ,熟撰,ブラウマイスター,ヱビスで,カウンターがレギュラーとは別になっていた。
 つまみは,屋台式の店で現金で買うようになっている。それで,まずつまみを1つ買い,そのままビールのカウンターに行ってビールを受け取り,席を探す,というサイクルになる。Img_1249

 客席はそれこそ老若男女で,おじさん1人も多いが,女性だけの2,3人連れも負けずと多い。ステージでは,6人編成の今風のジャズバンドの演奏があり,後からブラスバンド(ただし純粋にブラスではなくサックスも加わっていた)がパレードしてやってきた。
 久しぶりの完全休日を楽しんだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Jun 01, 2008

バイエルン国立歌劇場1974 (2)――70/80年代の外来オペラ

承前
 さて,『ばらの騎士』当日の9月24日,5時半開演なので5時に会社を飛び出し,神田駅まで小走りに歩いて山手線に乗り,上野へかけつけた。
 席は4階センターの2列目あたりで,まず前奏曲が4階席までわき上がるような音の奔流で始まった。切符を斡旋してくれた友人から聞いた説によると,前奏曲の途中のホルンのプルルルン・プルルルン・プルルルンという三連音符は,幕が上がる直前に進行している(はずの)シーンのある種のクライマックスの描写だというが,それを過ぎて穏やかな音楽になり,鳥の声が聞こえるといよいよ幕が開く。そこは,後にレーザーディスクで見ることができるユルゲン・ローゼの装置による豪華な室内だった。窓から朝の光がふりそそぐのがことのほか美しく,その後上野ではたくさんの舞台を見てきたが,このときほど舞台が広く見えたことはない。
 4年前のクライバー死去の時に書いたように(→参照),指揮者の音楽を意識する余裕はなかった。豪華な舞台と寄せては返すように流れていく豪華な音に圧倒されるばかりだった。

 ところが第1幕の後半で,オペラ用の緞帳でない幕が突然するすると降りてきて,音楽が止まった。事故にしてはヘンだなと思ったらアナウンスが入り,爆破予告の電話があったので念のため爆弾の捜索を行うので,ロビーへ出ろという。開幕前からの「予定の行動」だったようだが,それならなぜ開演を遅らせて捜索しなかったのだろうと思った。あるいは予告の爆発時刻が7時,というようなことだったのかもしれない。結局40分ぐらいの中断の後,再開された。

 この『ばらの騎士』の歌手は,ギネス・ジョーンズ(元帥夫人),ブリギッテ・ファスベンダー(オクタヴィアン),カール・リッダーブッシュ(オックス男爵)といったメンバーだった。
 後にワグナーを何度も聞くことになるギネス・ジョーンズはこのとき36歳,ホフマンスタールの設定した元帥夫人の年齢32歳とあまり違わない年で,もちろん二十代前半の者から見ると堂々たるプリマドンナだったが,十分に若い姿・声だった。『音楽の友』の表紙を飾ったジョーンズの写真を自室の壁に貼っていた友人もいた。
 ファスベンダーも同年配で,なるほどズボン役というのはこういうものなのかと思った。
 このうち,ファスベンダーとリッダーブッシュには,翌年ウィーンで再び出会う。
 そして,その後のクライバーのカリスマ化は急だった。

 『ばらの騎士』は,次に実演を見るのは1981年のドレスデン歌劇場初来日でのことになる。それまでの間には,カラヤンのザルツブルク音楽祭の映画(1960)を2回ぐらい見た。
 1982年春,クライバー=バイエルンの『ばらの騎士』がNHK教育テレビで放送されるという予告が出たのを見て,あわてて秋葉原へ走り,それまで買うのを躊躇していたビデオデッキ(モノラル)を買った(当時は教育テレビはモノラル)。タイトルが出てすぐ演奏が始まり,最後も幕が降りたあと数秒で番組が終わるという3時間の枠ぎりぎりの放映だった。この映像も,上記カラヤンの映画も,後にレーザーディスク(今はDVD)で発売された。
  (この項続く

| | Comments (3) | TrackBack (1)

May 31, 2008

バイエルン国立歌劇場1974 (1)――70/80年代の外来オペラ

 海外のオペラハウスの本格的な引っ越し公演は,1963年のベルリン・ドイツオペラが最初である。このオペラはその後66年,70年にも来日したが,そのころはまだオペラにはあまり興味はなかった。金もなかった。
 初めて本格的なオペラを見たのは就職してからで,1974年のバイエルン国立歌劇場(当時の日本語表記は「ミュンヘン・オペラ」)の初来日公演だった。このときは,友人から「関係者を通じて『ばらの騎士』の切符が買えるんだけど」と言われ,それじゃあということで行ってみることにした。
 パンフレットを入手して見ているうちにほかの曲も見たくなり,一般発売の前夜から竹橋の毎日新聞社に並んだ。電話予約もなく,プレイガイドに徹夜で並ぶのが普通のことだった時代である。毎日新聞は後援社のひとつなので,普通のプレイガイドよりは買いやすいと推測された。未明の点呼にはやむを得ずタクシーでかけつけたりして,結局『ワルキューレ』の切符を買った。

 このときの演目は上記のほか『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』で,東京では4演目が各3回(いずれも東京文化会館),大阪では『フィガロ』が3回,『ワルキューレ』『ばらの騎士』が各1回,ほかに特別演奏会が4回あった。指揮は『ばらの騎士』がカルロス・クライバー,他がサヴァリッシュとフェルディナント・ライトナーで,クライバーは「第3の指揮者」だった。サヴァリッシュはこのときすでに音楽総監督で,日本では1964年以来N響の指揮でおなじみになっていた。
  (この項続く

| | Comments (0) | TrackBack (2)

May 25, 2008

短信 来日オペラの予定

 ウィーン・フォルクスオーパーの来日公演のプログラム上で,2009年~2011年のNBS主催公演の予定が発表されている。
 2009年秋スカラ座,2010年秋ロイヤルオペラ,2011年春フィレンツェと続き,最後は2011年秋のバイエルン国立歌劇場である。バイエルンの曲目は『ローエングリン』『ドン・ジョヴァンニ』『ナクソス島のアリアドネ』で,いずれも2008年~2009年にプレミエを迎える演出だという。
 2011年にはほかにメトとキーロフが予定されている。それぞれ,前回の公演最終日のカーテンコールで降臨した垂れ幕に書かれていた。
 この年になると,たった3年後,という感覚になる。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

May 22, 2008

副都心線 開通秒読み

 6月14日の地下鉄副都心線開通まで,20日あまりになった。山手通り(環6)地下の高速道路・中央環状線が昨年末に開通したのに続き,明治通り(環5)地下の副都心線が開通すれば,山手線の東西の道路で長年続いていた工事がようやく終わることになる(ただし,中央環状線の新宿以南はまだ工事中)。
 この線は,「東京13号線」として計画されていたもので,今後地下鉄の新線建設の具体的な予定はなく,当面「最後の地下鉄」となる。昨年開業日が決まって以来,東京メトロでは何種類もポスターを作って宣伝に努めている。

 小竹向原―池袋間は有楽町線と2階建て構造になっている。有楽町線といっしょに建設されたので,駅や線路は1983年にできていたが,地下2階は「(有楽町)新線」として後から開通した。途中の要町・千川駅にもホームは造られていたが電車は通過で,車内から見ると,暗い中に丸い柱が立ち並び,宮殿の廃墟のようで不気味だった。
 それが,先日通ってみたら,照明はまだ明るくないものの,内装がほぼ完成しているのが見えた。有楽町線の要町・千川駅では,副都心線ホームへ降りる階段・エスカレーターの工事のための覆いが,昨年から通行のじゃまをしていたが,連休明けにこの覆いが外された。小竹向原駅では,ホームに副都心線の路線図もすでに掲げられている。
 地下鉄の他の駅でも,副都心線が書き込まれた新しい路線図があちこちですでに掲出され,「6月開通予定」という注意書きのステッカーをはがせばよいようになっている。準備は着々と進んでいる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 20, 2008

ある日記

 2006年から「アルコール日記」をつけている。Excelの表で,酒の種類ごとに量を記入し,アルコール量を算出するようにしてある。あと,ついでに,飲み代と歩いた歩数も記録している。
 そこで困るのは,生ビールのジョッキの容量が正確にはわからないことである。よく行く店のジョッキを,たとえば「大」は大びん1本より少し少ないと見て600mlとしておき,初めての店では,見た感じおよび値段をこれと比較して推定する。日本酒のお銚子は,多くの場合どう見ても1合は入っていないと見て,150ml としている。(もちろんきちんと1合入っていそうな店もあるし,逆に正直に150ml のびん詰めで出てくる店もある。)
 しかし,もっとわからないのは,グラスに入ってくる焼酎の量である。グラスの底の半径は見当がつくが,上にむかって広がっているし,何より氷が入っているために高さをどう見るかは判断が難しい。(その点,前回書いたFという店では,焼酎も1合のとっくり型のびんで出てくるから,分量がはっきりしているし,濃度の調整も自由にできる。)

 今は日本でもアイリッシュバーなどでおなじみだが,イギリスのビールのジョッキは容量が半パイントまたは1パイント(1 pint=568ml)に決まっている。昔初めてイギリスに行ったときこれを知って,これは明快でよいことだと思った。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 11, 2008

鳩山会館・野間記念館・あしかが・ベニバナトチノキ

 連休中のある日,文京区音羽の鳩山会館に出かけた。鳩山一郎はじめ,五代にわたって政治家を排出してきた鳩山家の邸宅を修復したものである。地下鉄有楽町線の江戸川橋から護国寺方向へ進んだ右側に門があり,坂を上がっていく。Img_1080
 1924年,関東大震災の翌年完成した建物で,旧岩崎邸(池之端)よりスケールは小さいが,内外装とも落ち着いていて趣味の良い邸宅である。2階には鳩山薫子,鳩山威一郎の記念室もある。庭は西洋風の一部を和風にしたような感じで,ツツジが品良く咲いていた。庭に面した1階の部屋では無料の緑茶(給茶器によるものだが一応香りがあった)が飲める。Img_1084

 鳩山会館のあとは,野間記念館に行った。江戸川橋方向に戻ってから目白坂を上がり,椿山荘を過ぎたところにある。講談社の創業者・野間清治のコレクションを展示する美術館で,横山大観とその周辺の画家の展示をやっていた(これは5月18日まで)。大観もいいが,小杉放菴など6人の十二ヶ月図がおもしろかった。
 記念館の玄関の前の植え込みにベニバナトチノキがあって,少しピンクがかった淡い朱色の花を咲かせていた。ベニバナトチノキは神田神保町のすずらん通りにあって,会社の先輩に木の名を教わった。(「本拠地」の「神保町の昼食の章」の「神保町昼食ニュース」2000年6月号参照)

 その数日後,こんどは栃木県足利市のあしかがフラワーパークで,ベニバナトチノキにまた巡り会った。最初は別のところに行こうとしていたのだが,駅のポスターを見て方向変更した。こういうとき Suica はありがたい。Img_1132
 藤色・白・黄色のフジが盛りを迎え,1年分を2週間で稼ぐというほどではないかもしれないが,大賑わいだった。ここは入場料が「変動相場制」で,季節・天気・花の咲き具合によって変動する。後で見たホームページによると,料金は当日朝7時に決めるとのこと。Benibanatochinoki0805a
 フジのほかにツツジやクレマチスなどが所狭しと咲いていたが,そこに混じってベニバナトチノキがあった。これが,都内の何か所かで見たものよりずっと色が濃くて,新緑の中で鮮やかだった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 10, 2008

ケルンとローマ

 70年代に当時は西ドイツのケルンに行ったことがある。ドイツはその後も南の方しか行ったことがなくて,ケルンが今まで行ったドイツの「北限」である。
 有名な大聖堂の向かい側にローマ博物館があった。細かいことは覚えていないが,わかりやすく展示する工夫がこらされ,非常によく作られた古代史博物館だと思った。その地下展示室では,ローマ時代の遺跡の発掘現場をそのまま保存してガラス越しに見られるようになっていた。
 今のドイツ地域は,『ゲルマニア』などの書物に記録された北方の辺境であり,そもそもケルンという地名はラテン語の colonia(植民地)に由来する。

 その数日後,ローマへ飛んだ。
 ローマでは,町中に古代の遺跡・遺物があるのを見て目がくらむような思いがした。古代ローマの中心をなすフォロ・ロマーノはちょっと別格にしても,ケルンで大切に保存・展示されていたようなものが,そこらじゅうにごろごろしているのだった。「永遠の都」というのは,永遠に遺跡で食っていける街,でもあった。

 ローマからは南回りの飛行機で23時間半かかって帰ってきた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 05, 2008

おおさか東線初乗り

(承前)
 JR王寺駅は関西本線(大和路線)と和歌山線が合流する要衝で,構内は広大である。近鉄とJRは競合関係にあるが,おもしろいことにホームに近鉄の広告があった。Img_1063

 大和路線の快速は6両編成,かなり混雑していた。ノンストップ12分で久宝寺着。3月15日に開通したばかりのおおさか東線のホームへ行く。しかし,時間になっても前の電車が居座って動かない。やがてアナウンスがあって「飛来してきた布団が電車に接触,現在運転を見合わせております」という。「布団が飛来する」という発想はなかったから最初「飛来」ということばが聞き取れず,何度か繰り返されてやっとわかった。

 結局5分の遅れで発車した。旧山手線の緑色の電車で,おおさか東線区間のみを学研都市線の放出(はなてん)まで走る。おおさか東線は貨物線の線路をかなりの部分流用したもので,全部で9.2キロ,途中駅は5つ。このあと新大阪まで建設される予定になっている。Img_1066
 出発してまもなく高架となり,以後ずっと高架を行く。5つの途中駅のうち,3つに駅名に「JR」がつく。近鉄の駅が先にあったためだろう。連続する3駅の真ん中のJR俊徳道では,ひらがなの表示「じぇいあーる」が3つ並んでいた。Img_1067

 高架で見晴らしはいいが,要するに都会の景色でなんということはない。ただ,電車の窓が横長のワイドスクリーン形なのはちょっと新鮮だった。終点の放出はJR東西線の行き先のひとつとなって駅名を読めるようになった。14分でその放出着,4月3つめの新線初乗りとなった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 04, 2008

田原本線――スルッといかない近鉄線

 4月某日,関西に出かけたときに,空いている時間を利用して近鉄・田原本線とJR・おおさか東線に乗りにでかけた。
 田原本(たわらもと)線は,近鉄の長大な路線の中でまったく孤立している短い線である。初めは別のところへ行くつもりだったが,所澤秀樹『鉄道地図は謎だらけ』(光文社新書)を読んでいるうちに,起点の西田原本は橿原線田原本駅から少し離れ,終点の新王寺は生駒線・JR関西本線の王寺駅から少し離れているというちょっとすねたようなこの線に乗ってみようと思い立った。

 京都から近鉄に乗車,そのまま大和西大寺から橿原線に入る。大和西大寺駅では路線図上は京都線・橿原線と奈良線が十字交差しているが,実際の線路はカッコを背中合わせにくっつけたような状態だった。56分かかって田原本に着。到着直前に,田原本線への連絡線が右に分かれていくのが見えた。Img_1045
 出口は田原本線とは反対側だった。Uターンするように踏切を渡って150メートルほど先に西田原本駅があった(位置関係は右の写真参照)。両駅の間は駅前広場整備の工事中だった。
 西田原本駅の自動改札で,迷わずスルッと関西(ICカード)を入れたら,通れない。駅員さんに言ったら,なんと田原本線では使えないのだという。「どこまでですか」と聞かれ,新王寺までと答えると,京都からの通算の切符を手動で発行してくれた。Img_1049
 田原本線は,全線で 10.1キロの単線,途中駅は6つ,ワンマン運転の3両編成の通常の近鉄の車両が走る。路地裏のようなところも通るし,田園地帯という感じのところもある。大まかにいえば平らだが,川を渡るところなどで細かいアップダウンはけっこうある。箸尾と大輪田で交換があった。Img_1050
 大輪田駅を出ると築堤に上り,左へ大きくカーブしながらJR関西本線と和歌山線を乗り越える。「この電車は次まででございます」という関西的なアナウンスが入り,終点の新王寺に到着した。重ねて「この駅まででございます」。Img_1058

 頭端式のホームからまっすぐ改札を出ると,左は大規模なJRの王寺駅である。その駅前広場を横切っていった先に,近鉄・生駒線の王寺駅がある。JRが近鉄の両駅を左右に従えているかっこうだ。
 今回は生駒線には乗らず,その隣の改札からJR駅に入った。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 03, 2008

暗譜――器楽の場合とオペラの歌詞

 指揮者は必ずしも暗譜で振らなくてもよいし,器楽のピアノ伴奏の演奏会などでも楽譜が置かれていることは多いが,オペラの歌手・合唱は必ず暗譜しなければならない。ミュンヘンの篠の風さんのブログを読んでいると,そんなあたりまえのことにあらためて気づかされる。ことに去年の『モーゼとアロン』の暗譜のことは何度も記されていた。
 器楽の独奏曲などは,それだけで完結した構成を持っているから,暗譜するのは難しくない。若いころなら,練習しているうちに自然に覚えてしまう。ちょっとした落とし穴はロンド形式のフィナーレやバロックの曲で,同じフレーズが戻ってくるたびに次にどこへ行くかで迷うことがある。
 昔,国内オーケストラの演奏会で,指揮者R氏(現在は同楽団名誉指揮者)の夫人がピアノ独奏者として登場,モーツァルトの d-moll の協奏曲を演奏したことがある。そのフィナーレの後半,ロンドのテーマが長調に変わっていくところで,ソリストが長調になるタイミングを間違えて混乱に陥り,R氏は夫人にいろいろ合図を送っていたようだが,混乱は次のトゥッティまで続いた。

 オペラでの暗譜というのはもちろん歌詞,それに演出上の動きも含めて「暗譜」する必要がある。しかも自分の歌うところは部分であり,その間や前後も頭に入れないといけないから,シーズンに登場するすべての曲を暗譜するのは大変なのだろうなと思う。
 たぶん有名な話だと思うが,1950年代ぐらいのこと,オペラの本番の途中で藤原義江が予定の動きをしないで前に出てきた。指揮者の森正はそのまま振りながら「違う,違う」と合図をするのだが,なおも出てくる。よく見ると,いや正しくはよく聞くと,藤原は森の方を見て,旋律は正しいまま「なんだっけなあ~」と歌っていたという。歌詞を忘れたのだった。プロンプターもいなかったのだろう。

 暗譜とは関係ないが,こちらは友人が実際に見た話。二期会の『ドン・ジョヴァンニ』(70年ごろ?)の大詰めで,騎士長の石像がドン・ジョヴァンニに向かって悔い改めるよう最後の警告をするところで,騎士長の故・大橋国一が「ドーン・ヴァジョーンニー」と歌ってしまい,そばにいた伊藤京子は吹き出しそうになるのを懸命にこらえていたという。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

May 02, 2008

non-reversible Reverse――リヴァースが閉店

 本拠地に「神保町昼食ニュース」の5月号を掲出した。
 そこにも書いたが,「<ダイニングバー>リヴァース」(マクドナルドの脇から錦華通りに入って2本目を左へ上がった左側)が4月末で閉店してしまった。ホームページにも closed の札がかけられている。
 昨年はリヴァースの昼食を5回食べた。5回というのは回数ランクで堂々の2位であり,気持ちとしては「愛用」の店だったのだが。サンドイッチと共に,紅茶がおいしいという点で希有の店だった。(→参照

 話は変わるが,少し前に昼食に入った某和食店で,たいした年ではない板前が新人店員を叱責していた。それが「何考えて仕事してるんや」「ぼやーとしてるんやないよ」などとねちねちしつこい叱り方で,断続的に5分以上続いた。そのときに一度注意してあとは客のいないときにしてほしい。食事は良かったが,不愉快になった。
 店主が客の前で奥さんを叱りつけることでは,神保町地区の某和食系の古い店が,ごく一部では有名である。奥さんの方は柳に風と受け流しているのだが,愉快なことではない。店主は愛想よくすることはほとんどなく,安いランチサービスの品を頼んだりするとますます不機嫌になる。それならサービス品などやめればいいと思うのだが。
 ずっと前,その店で葬式をやっていた。おお,やっとあのオヤジが,と思ったら,亡くなったのは引退していた先代だった。

 変な比較になってしまって申しわけないが,そこへいくと,上記リヴァースの西山夫妻の手を携えての奮闘ぶりは快い。そして,閉店の日には感動のクライマックス――最後の日々の「ドタバタ奮戦記」を涙と笑いと共に読んだ。
 西山さん,またどこかで活躍されますよね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Apr 20, 2008

横浜グリーンライン初乗り

 続いて,南北線・東横線で日吉へ。日暮里・舎人ライナーと同じ3月30日にグリーンラインという名で開通した横浜市営地下鉄4号線に初乗車した。(既存の1・3号線は「ブルーライン」となった。なお,2号線は計画中止になったため欠番である。)
 東横線の日吉駅で降りたのは20数年ぶりだった。駅構内はまだ工事が続いていて,片隅の地下鉄の入口は目立たなかった。しかし,後で見ると,地下の改札口は大きく,東横線の地下改札からすぐ乗り換えられるようになっていた。
 両端を含めて10駅,13キロを21分で快走した。こちらは新交通システムではなく普通の地下鉄だが,途中のセンター北,センター南あたりでは地上に出て,ブルーラインと並行する。ただし,それほど景色が見えるわけではない。

 終点の中山はJR横浜線との連絡駅である。横浜線は,かつては本数も少なく,首都圏の田舎電車というイメージがあったが,今は昼間も1時間に8本(うち2本は快速)の電車が走る。せっかくなので横浜線に乗り,町田で小田急に乗り換えて,藤沢方面を歩いた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Apr 19, 2008

日暮里・舎人ライナー初乗り

 3月30日に日暮里・舎人ライナーと横浜市営地下鉄グリーンラインが開通した。しかし,開通当日は東京を離れていて行かれず,数日後に初乗りに出かけた。

 日暮里・舎人ライナーの起点は日暮里駅。JRの駅の改札付近も天井の高いホールに変身していた。舎人ライナーの駅は東口,JR改札階からさらに上がったところにある。駅前の桜を見下ろすことができた。Img_0967

 鉄のレールではなくいわゆる新交通システムで,コンクリートの壁に誘導されて走る。両端を含めて13駅,9.7キロ,所要時間は20分。中黒(・)を含む線名は珍しい。
 日暮里を出ると左へ直角に曲がり,尾久橋通りに入る。以後,ひたすらこの通りの上を走る。最初の駅は西日暮里だが,JRの駅とは150メートルぐらい離れているようで,その間に千代田線の駅が直行している。以後,熊野前で都電と連絡する以外,他の鉄道との乗換駅はなく,行き止まり路線である。熊野前の次の足立小台(おだい)を出ると荒川を渡る。高架なのでまことに眺めがいい。Img_0970

 路線の半分を過ぎた西新井大師西で,東側を走っている東武伊勢崎線がもっとも近づく。地図で見ると,その支線の大師前駅(これは非常に大規模な無人駅!)とは1キロほどである。都内はどこまで行っても住宅が密集しているが,それでもだんだん「平地」が広がるようになり,菜の花のじゅうたんのある舎人公園を経て,終点の見沼代親水公園は埼玉県に入る直前,東武の谷塚駅から西へ3キロほどのところである。

 駅周辺を少しぶらぶらして,折り返す電車に乗る。5両編成の無人運転で,クロスシートとロングシートが細かく組み合わされている。試し乗車の人も多く,すれちがう電車には立っている人もたくさん乗っていた。Img_0972

 長い間工事が続いていた日暮里駅前は,再開発ビルのひとつが完成したようだが,まだいろいろな工事が行われている。駅では開通記念の「日暮里マップ」が配られていて,「北島(康介)のメンチカツ」の場所もイラストで示されていた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Apr 17, 2008

怒濤の週末

 土曜日,車で出かけ,午前中にひとつ用事をすませた。続いて,午後,某ターミナル駅の駐車場に車を置いてから,旧友のヴィオラ奏者が主宰する室内楽の演奏会へ。大いに楽しみ,かつ休憩のときには久しぶりに会った友人何人かと言葉を交わした。
 終わって駐車場にとって返し,途中で黒いネクタイをして,伯父の通夜にかけつけた。ぎりぎりになってしまい,お坊さんの入場と同時に着席。親戚の食事にも出席した。

 翌朝,再び車で同じ葬祭場へ。こんどは葬式で,前夜はお坊さんがデュオだったが,この日はカルテットだった。
 昼に出棺になったあと,火葬場は失礼して,こんどは新国立劇場へ急ぎ,『魔弾の射手』を見た。充実した合唱に支えられた演奏だったが,第1幕はだいぶ居眠りをしてしまった。序曲の前にセリフによるプロローグがあった。
 早い夕食のあと,夜はさらにちょっとした打ち合わせがあった。長い2日間だった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Apr 09, 2008

悲しくない短調

 昔の日本の歌には,「美しき天然」「鎌倉」(七里ヶ浜の磯伝い…)「嗚呼玉杯に花受けて」「リンゴの唄」「青い山脈」など,特に悲しい内容ではない歌詞に短調のメロディーがついているものがけっこうある。特に「リンゴの唄