文化・芸術

Oct 27, 2007

Beethoven Conspiracy

 国立新美術館にフェルメールを見に行ったら,フランク・ウイン著『私はフェルメール――20世紀最大の贋作事件』(ランダムハウス講談社)がちゃんと置いてあった。フェルメールの贋作者であるハン・ファン・メーヘレンという人の伝記である。

 iioさんのブログでは,この本を紹介するとともに,音楽の贋作について思いをはせていた。それで久しぶりに思い出したのはトマス・ハウザー『死のシンフォニー』(創元推理文庫)である。この本のカバーには Beethoven Conspiracy という原題が書いてあってそこですでに半分ネタバレだが,ベートーヴェンの未発見の作品をめぐるミステリーで,非常に珍しいことにヴィオラ奏者(女性)が主人公である。
 ミステリーをあまり多くは読んでいない者としては,最後の方はミステリーとはいえなくなってしまうような感じもしたが,おもしろく一気に読んだ。
 音楽や演奏家に関するディテイルも実によく書いてあって,主人公のリサイタルの曲目など,友人のプロのヴィオラ奏者が感嘆していた。

 映画の邦題はそのままカタカナということが非常に多くなっているから,この小説が今もし映画化されたとしたら,邦題は『ベートーヴェン・コンスピラシー』となりそうだ。
 ただし,映画化するには,ベートーヴェンの有能な贋作者が必要だ。まあ一部分あればいいのだけれど。

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May 09, 2007

ラ・フォル・ジュルネ「熱狂の日」/国立新美術館

 連休の最終日の昼前,今年3回目を迎えたラ・フォル・ジュルネ「熱狂の日」音楽祭2007というのはどんなものだろうと東京国際フォーラムへ出かけてみた。外は雨だったが,内部には熱気に満ちたお祭り空間があった。
 プログラムによると,この日の大小さまざまの有料コンサートは26件あり,そのうちまだチケットが販売されていたのは4つだけだった。その中から,ちょっと迷った末,夕方のビルバオ交響楽団(スペイン)の「ダフニスとクロエ」のチケットを買った(\3000)。この音楽祭は,45分ぐらいのコンサートを最高3000円で気軽に,というのが大きな特徴である。
 で,地上に上がったところに並んでいた「屋台」の中から,ギリシャ風ハンバーガーとハイネケンのナマで軽めの昼食とした。ハイネケンのナマはたぶん20年以上のごぶさただった。昔は珍しい外国産生ビールとしてありがたくいただいていた。

 そのあと,急に思い立って出かけたのは,乃木坂の国立新美術館。地下鉄の駅に直結していていて,東京国際フォーラムと同様,壮大な吹き抜けのあるバブリーな建物だった。
 2つの開館記念の企画展のうち,先に終わる「異邦人たちのパリ」を見た。ポンピドーセンターの所蔵する作品によるもので,ピカソ,モディリアーニ,フジタ,シャガール,カンディンスキーなどのほか,マン・レイ,ブラッセイの写真などもあり,20世紀にパリにやってきたというだけの共通項なのでかなり雑然としてはいるが,内容充実の展示だった。

 夕方,有楽町へ戻り,会場のホールAへ。ここに入るのは初めてだった。「ダフニスとクロエ」を生で聞くのはこれまた20年ぶりぐらいである。
 2階はだいぶ空席があったが,演奏は熱気十分で,特にフルート,コールアングレのソロは立派だった。オーケストラの魅力を堪能させてくれるこの曲を,合唱(晋友会)つきで \3000 はたいへんお買い得。隣の席では,女性が連れの男性にオーケストラというものの初歩を説明したりしていて,こういう音楽祭ならではの雰囲気だった。

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May 04, 2007

「考える人」のひじ

 先述の上野のついでで思い出したが,だいぶ前,読んでいた本にロダンの「考える人」のことが出てきて,そこに「右ひじを左ひざの上について…」というような描写があった。なんでもなく読み過ごしそうになったが,あれ,右ひじを「右ひざ」の上じゃないのかなとちょっと引っかかった。
 画像検索など想像もできなかったころで,確かめるには図書館で画集を探すのが常道だろうと思ったが,それよりは上野で実物を見る方が早い,というわけで,次の休みの日に国立西洋美術館に出かけた。「考える人」は庭にあって,入場しなくても外から見えることは知っていたから,双眼鏡を持って行ったのである。
 見ると,「考える人」はまっすぐ座っているわけではなく体を左にひねっていて,確かに右ひじを左ひざにのせていた。双眼鏡で見るまでもなかった。考えているように見せるためには,文字通りひとひねり必要なのだなと思った。

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Apr 16, 2007

ルーブル展とミロのヴィーナス

 上野の話の続きを少々――

 小学校6年のとき,東京国立博物館で「ルーブルを中心とするフランス美術展」という展覧会があった。担任の先生から見てきた話を聞いて行きたくなり,東京から鉄道では60kmほどのところに住んでいた私は,このとき初めて一人で東京へ出かけた。まず東京某所の親戚を訪ね,そこの人に連れて行ってもらったのである。
 国立博物館の庭と周囲をめぐる長蛇の列に2時間ぐらい並んで入り,中もかなり混み合っていた。モネという人とマネという人の絵があったということぐらいしか覚えていないが,かなり大規模で質も高い展示だったことは確かで,子供心にもなんだかすごい世界があるらしいと思った。

 「ミロのヴィーナス」が国立西洋美術館にやってきたときは中学生だった。このときはまったく一人で出かけ,やはり2時間以上並んだと思う。庭に特設会場が作られていたような記憶がある。並んでいる間に,すぐ前にいた大学生のおねえさんがドロップをくれたりした。
 書きながら思い出したのだが,このとき,カタログなどを買ったら帰りに金が足りなくなり,帰るのに必要な費用をやむを得ず一部省略してしまった。(関係の方々,ごめんなさい。)
 ルーブルでミロのヴィーナスに再会したのはその11年後と13年後,その後はずっとお目にかかっていない。

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Apr 15, 2007

桜と飛行機

 「恒例」の春の一人文化の日(参照 →05, 06),今年は上野の東京国立博物館で「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像」展(参照 →ここ)を見た。平日なので幸い待たずに入れた。
 入るとまず,「えっ,いきなりですか?」という感じで本館の「受胎告知」へと導かれる。最初に少し離れた段の上で見て,次に段の下の近いところから見るようにコースができていて,「立ち止まらないでください」と声がかかるのは,昔のパンダ館(上野動物園)を思わせる。しかしこの日は人が密着するほどの密度ではなかったので,手すりからちょっと離れれば立ち止まってもさほど支障はなかった。
 ここはこの絵1点をありがたく拝観するだけで,この絵についての分析・説明を含むその他の展示は平成館で行われている。

 平成館の展示では,美術関係より,スケッチ帳に遺されたデザインや「からくり」のアイディアを模型や映像として再現したものが中心で,多芸な天才のいろいろな側面を見せてくれる。まさにartの人だ。
 メインの展示室を出ると,思いがけず華やかな空間があった。最大の模型である実物大の人力飛行機が置かれている場所の背景が,ガラス越しに見える一面の桜だったのである。桜まで意図して展示したのかはわからないが,普通ではあり得ない形の花見だった。
 今はもう背景は緑になって,雰囲気が変わっていることだろう。

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Dec 04, 2006

2つの『夕鶴』

 11月30日の朝刊に,木下順二氏の訃報が出た。
 40年前にすでに『夕鶴』が国語の教科書に載っていたから,ずいぶん昔の人のような気がしていたが,『夕鶴』は作者の三十代の作品で,その後も長く「現役」の劇作家なのだった。

 團伊玖磨の歌劇『夕鶴』は,この戯曲をそのまま台本にしている。この点,同じく戯曲のかなりの部分をそのまま用いたオスカー・ワイルド=リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』を思わせる。
 歌劇『夕鶴』の成功の大きな要因が台本の良さにあったことは,作曲者が台本も手がけた後の作品と比べるまでもない。團伊玖磨のオペラでは,結果として,最初の作品が最大の成功作となった。

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 大仕事が(ほんとうは永久に終わりがない仕事だが),ともかくも一段落し,俗世間に復帰した。ブログにも少しずつ復帰したい。
 暖かい晩秋で,ところどころで遅い紅葉が美しい。

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Apr 16, 2006

京都御所――雅楽と桜

 用事で京都に出かける日が,ちょうど京都御所の一般公開期間中だったので,午前中のうちに見ることにし,少し早く東京を出た。ふだんでも事前に申込みをして見学することはできるのだが,年に2回,春と秋の各5日間は申込みなしで見学できる。20年ぐらい前の秋の公開を見て以来,2回目である。
 地下鉄の京都駅ですでに「京都御所の一般公開に行かれる方は今出川でお降りください」というアナウンスがあり,今出川ではかなりの人が降りた。平均年齢の高い人の流れに乗って門をくぐると,満開のしだれ桜が出迎えてくれた。玉砂利の上を歩き,特設テントでの手荷物検査を経て,宜秋(ぎしゅう)門という門から御所内に入ると,以下は順路に従って一筆書きで歩くことになる。0604gosho1

 建物はすべて平屋である。床が高く,屋根も高いが,高楼はない。しかも,建物の中は向こうに屏風があったりはするが,あとは畳が広がっているだけで,前のときにも思ったのだが,まことにあっけらかんとした空間である。「御所」は英語では palace とするほかないが,同じ palace でも西洋の宮殿とはまったく違う。
 現在の建物の大部分は幕末のものだという。例えば枕草子に出てくる清涼殿の姿をどの程度伝えているのかはわからないが,庶民の家が掘っ立て小屋程度なら,まあ一応そびえ立ってはいたのだろう。
 「正殿」にあたる紫宸殿(上の写真)には,「左近の桜」「右近の橘」があって,桜は満開だった。右近・左近というのは,中から見て右左だということを初めて知った。
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 庭の丹塗りの欄干のある舞台で,予告されていた雅楽の公演が始まった。舞台は舞のためのもので,楽員は奥のやはり欄干のある台の上で演奏していた。色とりどりの衣装が春の日に鮮やかである。
 隅に座っている鞨鼓のおじさんがマイクで曲目を紹介し,簡単な説明をする。曲によって編成はいろいろだったが,最後は13人のトゥッティだった。笙3名,篳篥(ひちりき)3名,笛4名,打楽器3名である。笛と篳篥がメロディ楽器だが,斉奏でこれが西洋風のユニゾンを意図しているのか,微妙にずらしているのかがどうもよくわからない部分もあった。
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 見学コースは清所門という門から出て終わる。あらためてしだれ桜を見た。東京より1週間遅い花見だった。
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Mar 12, 2006

一人文化の日 (2)――源氏物語絵巻

 交通博物館を出て,古い洋食の店・松栄亭で遅い昼食とする。食べたのは,いかにも手作りの不揃いなパン粉に包まれたカキフライ。貼り紙のメニューには「3月末日までです」と注記がある。
 万世橋駅の時代から続く旧連雀町の古い店のたたずまいを眺めてから,地下鉄の駅へ向かう。

 この日のもうひとつの目的地は,「よみがえる源氏物語絵巻」展を開催中の世田谷の五島美術館だった。下車駅は大井町線の上野毛。駅の真ん前は環八の喧噪だが,それを渡って数十メートル入ると静かなお屋敷町で,樹木も多い。
 美術館に着くと,入り口に「ただいま入場は40分待ちです」という貼り紙が出ている。切符を買うのに並ぶわけではなく,展示室内の人数を調整しているのである。どうしようかと思ったが,平日に来ることはもうできないだろうし,ほどなく「30分待ち」に貼り替えられたのをきっかけに,やっぱり切符を買って並ぶことにした。

 25分ぐらいで中へ入れた。入れたが,ちゃんと見るには順序通り1列で行くしかなく,きわめてゆっくりした歩みで進む。
 展示は,1)絵巻の現在の姿のディジタル技術による複写,2)昭和30年代の復元模写,3)このほど完成した平成の復元模写の3種を,各面ごとに並べて対比できるようにしたものがメインである。復元模写というのは書かれた当時の色合いを推定して描いたもので,平成の復元模写にあたっては,すっかり退色して見えなくなっていた模様を,蛍光X線分析で明らかにし,また使用している絵の具を分析して元の色を推定するなどしたという。ただし,あくまで「模写」,つまり日本画家が筆で描いたものであり,CGではない。

 混んでいてゆっくり進んだおかげで,解説を読み,じっくり見比べることができた。
 全部で19面のうち,「使用前・使用後」がいちばん大きく違うのは,最初の「蓬生」である。本物の現状は大部分が泥の海のような状態だが,中央部は実は藤の花と蓬の庭で,左の源氏と惟光は涼しげな夏の装束だった。それだけに,右上の末摘花の家のあばら屋ぶりが目立つわけである。
 その他の絵も,青系統の方が退色している度合いが大きく,それを復元したものは非常にさわやかな印象である。
 ほかにも,江戸時代の古模本,剥落模本(剥落した状態を模写したもの),木版刷りによる複製などがあり,1室だけの展示だが,充実した内容だった。

 五島美術館に前に来たのは2000年秋,やはり源氏物語絵巻で,徳川美術館と五島美術館に分かれて所蔵されているすべてが一度に見られる展示のときだった。
 このとき売店で買い物をしたら,お釣りに2000円札が入っていた。この年の7月に発行された2000円札が「実用」に供されるのを初めて体験した。しかしよく考えたら,2000円札の図柄は源氏物語絵巻で,しかもこの五島美術館所蔵の「鈴虫二」であり,これはいわば「ご当地もの」なのだった。

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Jan 30, 2006

三都物語――(9) 『ローエングリン』補遺

 帰国後,ウィーンの『ローエングリン』についてネットに何かないかと検索していたら,「K&Kの生活」というブログにめぐりあった。見ると,なんとウィーン・フィルおよびウィーン国立歌劇場のオーケストラのメンバーである青い文字のKさんと,ウィーン国立歌劇場の合唱団のメンバーであるピンクの文字のKさんの夫妻によるブログだった。
 「22回目の結婚記念日」と書いてあるので,あれ,かなり年配なのかと思ったら,毎月結婚記念日を祝っているという。
 12月3日の『ローエングリン』のプレミエについては,出演していたピンクのKさんが舞台上で「鳥肌が立ち,涙がたまった」と書いている。

 ウィーンのオペラの合唱には,東洋人も,特に女声にはけっこういた。その中で,『ローエングリン』の4人の小姓の1人として Yoko Ueno さんという名が配役表に載っていた。

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Jul 06, 2005

萩原葉子氏――梅ヶ丘にて

 1日に亡くなった萩原葉子氏に,一度会ったことがある。
 もう5年半前になるが,1世代上の「飲み友だち」T老人に呼び出されて,世田谷の梅ヶ丘でご馳走になったことがあった。食事のあと,T氏行きつけのバーに行ったところ,そこにやってきたのが,同じくそこの常連の萩原葉子氏だった。

 紹介されて驚きながら,とっさに『蕁麻の家』というタイトルを口にしたら,「あら,ありがと。ずいぶん昔の話なんだけど」という言葉が返ってきた。ダンスに打ち込んでいるとのことで,話の中心はダンスだった。その引き締まった体つきと軽い身のこなしはダンスの練習の賜物で,八十歳近く(当時)とはとても見えなかった。
 東京新聞(7月5日夕刊)に載った追悼記事によれば,萩原氏は父・朔太郎の膝につかまってダンスをよくし,芥川からも前途有望だとほめられたという。

 2,3杯飲んで,さっぱりした表情ですっと帰って行った。それまでに会った人には類のない素敵なおばさまだった。

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Jun 22, 2005

オリヴィア

 オリヴィア・ハッセーが『マザー・テレサ』に主演し,そのキャンペーンのために17年ぶりに来日したという。

 若いころの方が,映画を今よりはたくさん見た。しかし,封切り作品を見ることは非常に少なく,たいていは二番館・三番館で2本立て(以上)になってから見に行った。(『ぴあ』はこうした映画を見るための情報源として創刊された。)その私が新作を見た少数の映画のひとつが,オリヴィア・ハッセーの『ロメオとジュリエット』だった。
 監督はフランコ・ゼッフィレッリだが,後にオペラの演出家としてその名前を知る以前は,この映画の監督の名を特に意識することはなく,私にとってはオリヴィア・ハッセー(ジュリエット)とニーノ・ロータ(音楽)の映画だった。
 オリヴィア・ハッセーは,撮影時「原作どおり」の15歳ぐらい。(後から考えると,徹底的に写実的な演出をするゼッフィレッリならではのことなのだろう。)渋谷のどこかの映画館で,私はその初々しさに息をのんでスクリーンを見つめた。

 それが,数年後に布施明と結婚するとはねェ…。

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Jun 20, 2005

荷風――オペラとカツ丼

 荷風と西洋音楽,特にオペラの関わりは,松田良一『永井荷風 オペラの夢』(音楽之友社)に詳しいが,最近になって読んだ瀧井敬子『漱石が聞いたベートーヴェン』[中公新書](中央公論新社)にも荷風についての章があった。
 この本は文豪たちの西洋音楽体験をたどるもので,「森鴎外とオペラ」(本ではもちろん「鴎」の左側は「區」)に始まり,以下,露伴,藤村,漱石&寺田寅彦が順に扱われ,最後の章が荷風となっている。荷風の章は長くはないが,他の人と違うオペラ実践者の面が印象に残る。

 荷風がニューヨークやリヨン,パリでオペラを見たのは,今からちょうど100年前,1905年から08年だった。『オペラの夢』を読んだときも思ったのだが,荷風が見たオペラの作曲家では,ヴェルディは死んだばかりであり,プッチーニやマスカーニはばりばりの現役だった。特に『トスカ』(1900年初演)はまったくの新作だったことになる。
 古典的名作に新作として接した人々の感覚は想像もつかないが,考えてみると,荷風にとっては何でも初めてで,「現代の作品」だからどうこうという思いはなかったのだろう。

 数年前,荷風が毎日のように通った本八幡駅前の「大黒家」で,カツ丼を食べたことがある。グリンピースがのった「古典的」なカツ丼で,かなりのボリュームだった。これを死(1959年)の前日まで食べていたというから,80歳の胃袋としては並ではない。荷風の注文はいつもカツ丼と上新香,酒1合だったという。
 原則として外でパン粉の衣の揚げ物を食べないことにしている私にとって,それがこの10年で食べた唯一のカツ丼である。

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Jun 06, 2005

レオノーレ序曲なしの『フィデリオ』

(これから新国立劇場の『フィデリオ』を見る方は,ネタばれになりますので,読まない方がいいかもしれません。)

 新国立劇場の5-6月公演は『フィデリオ』。未明のW杯予選バーレーン戦を見て寝不足の状態で初台へおもむいた。
 序曲が始まってすぐ幕が開き,出てきたのは真っ赤な洋服のレオノーラ。これがなんと舞台上で旅行カバンを開いて,ナマ着替えを始めた。男装するという設定の説明としてきわめてわかりやすいが,男装する計画があるなら最初から男の服で家を出そうなものだし,途中で男装するにしても,夫の捜索にあんなに目立つ赤い服を着ていくこともあるまい。
 それ以外は演出はまあ普通,歌手陣も指揮者もおおむね堅実で,ベートーヴェンの真面目オペラとして完結していた。
 レオノーラ役は,別に太っていたりというわけではないが,男装してもとても男には見えなかった。しかしこれは原作のせいでしかたがない。これに対し,フロレスタンは巨漢で,とても死にそうな囚人には見えなかった。

 第2幕第1場,ドン・ピッツァロがフロレスタンを殺そうとするところで,大臣到着のラッパが鳴り,ドン・ピッツァロは逃げ出す。ここはまあ,ご都合主義の解決だからやむを得ないのだが,さっさと殺してしまえばまだ間に合うのに,と思ってしまう。その前に,書類を改竄するとか,いくらでも「方法」はありそうなものなのだが。
 『フィデリオ』を見るのは6回目になるが,第2幕の途中で「レオノーレ序曲第3番」を演奏しなかったのは,たぶん初めてだ。これはマーラーの始めた「ファンサービス」なのだが,大臣到着のラッパをもう一度聞かされるのは力が抜けるから勘弁してほしいとかねがね思っていたので,今回,序曲を入れない演奏を見ることができたのは幸いであった。

 第2幕第2場は,もともと劇が終わった後の大団円でオラトリオ状態だが,今回の演出では,合唱が結婚式の服装で登場した。ここは,そもそもなぜ女性たちが急に登場するのかわからないところ(囚人が釈放になるという知らせが電話連絡網で届いたのか?)だが,結婚式にする必然性は感じられなかった。
 しかしまあ,レオノーレが再び舞台上で赤い服に着替え,最後はベートーヴェンの音楽の力で超法規的なまとまりを見せた。

 新国立劇場は,次の『蝶々夫人』で今シーズンの幕を閉じる。

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Apr 16, 2005

海のそばの美術館

 神奈川県立近代美術館の「葉山館」が開館したのは2003年10月だった。鎌倉の従来の美術館(「鎌倉館」となった)は鶴岡八幡宮の緑とその背後の山に抱かれていたが,葉山館は相模湾に向かって開かれている。
 今年2月に行ったときは,まずひとつ先のバス停近くの蕎麦屋で優雅な昼食をとってから美術館へ行った。不思議な暖かさのあるハンス・アルプの展覧会を見て,海と富士山の見える細長い喫茶店でコーヒーを飲んだ。さらに,斜め向かいの小道を入ったところにある「山口蓬春記念館」へ行き,こんどは日本家屋の座敷から海を眺めた。

 海のそばにある美術館といえば,数年前に,徳島県の鳴門大橋の近くにある大塚国際美術館に行った。
 ここは普通の美術館ではなく,セラミックの板の上に世界の名画を原寸大で複製したものを展示した壮大な「贋作美術館」であり,「教科書に出てくる名画」がすべて揃っているばかりでなく,ヴァチカンのシスティーナ大聖堂(こんどコンクラーベが行われる)の天井画も本物と同じ大きさ・高さ(!)で再現されている。
 普通の美術館であれば,その内容にはいろいろな意味でばらつきがあり,目玉となる作品は他の作品と見比べることによってその位置が明らかになるのだが,ここでは見渡す限り超一級の名画で,しかもかなりの密度で並べられていて,息つく暇もない。
 まあしかし,時間が少なくてかなり急いで見たために,なおさらそう感じたということもあろう。機会あれば1日がかりで見てみたい。

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Feb 14, 2005

一人文化の日

 2月の某平日の午後,休日出勤の代休をとって個人的な文化の日とすることにした。
 で,まず近代の東京の食文化を探訪しようと,日本橋の蕎麦屋「室町砂場」へ。着いたのはまだ1時前だったが珍しく待たずに入れた。昼間だが,大部分のテーブルで酒を飲んでいる。
 名物の玉子焼きはいつものように焦げ目がついていて,しみじみうまく,暖かい。季節のつまみとしてふろふき大根があったので頼んでみたら,直径4センチの半円×厚さ1.5センチの大根一切れと葉っぱ少々だけ。これはいくらなんでももう少し量がほしい。
 ビルの中だが落ち着いた空間で,いつものことながらほっとする。のんびり飲んで,ソバで締める。

 次いで,地下鉄で上野へ。東京国立博物館平成館の「唐招提寺展」を見た。本館の左奥にある平成館に入ったのは初めてだった。
 唐招提寺展は,金堂の10年がかりの解体修理の間を利用して開かれたもので,金堂の内部(本尊の盧舎那仏を含む)と,御影堂内部(鑑真像と東山魁夷の障壁画を含む)を再現している。ほかには修理中の金堂の瓦など(これも大部分国宝)だけで細かいものはなく,実に豪快でさっぱりとした展示である。
 鑑真像は,前にこの東京国立博物館で展示されたときに見て以来である。前のときはやや高い位置にたてまつられているような感じだったが,今回は目の高さで,前より大きく感じられた。
 金堂の構造を紹介する映画を見て少しまどろむ。
 唐招提寺展の入場券で各館の常設展も見られるので,法隆寺宝物館を見る。2階で,国宝の小さい仏像が何十体も並んでいるのは息をのむような迫力があった。

 5時近くなって外へ出ると,やはり立春を過ぎて日が長くなり,まだ明るい。ふと見ると,国立科学博物館もリニューアルしたのだった。そのうち入ってみよう。

 明るくとも夕方になればまた東京の食文化,というわけで,北千住の「大はし」へ。牛煮込みと肉豆腐が名物の店で,太田治彦の居酒屋本などで何度か目にしていたが,少し前に人に勧められて機会あればと思っていたところだった。
 いつも満員ときいていたが,ちょうど空席ができたところですぐ入れた。何はともあれ,まず煮込み。1.5センチ角ぐらいの固まりの肉が濃い色のたれで柔らかく煮てある。それだけで,他に何も入っていない。この煮込みの肉が半分になって豆腐が入ったのが肉豆腐で,共に320円。カウンターの中は4代目と5代目の父子だけだが,奥の調理場には意外とたくさんの人がいる。客はもちろん常連が多いのだが,父子の客あしらいは,常連にも初めての客にも,一人客にもグループにも,過不足なく適切に気を遣っているのが印象的だった。
 ほかにカキのミニ鍋も良かった。一人文化の日を,一人鍋で締めくくった。

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Jan 30, 2005

初台の伏魔殿

 新国立劇場の1月公演『マクベス』は,野田秀樹演出による再演だった。黄色い花が咲き乱れる中を走り回る魔女たちの動きがおもしろく,タイトルロールのカルロス・アルヴァレスも熱演で(初日は代役だったらしいが),良い舞台となった。

 その『マクベス』公演中の1月19日に突然,同劇場の2月公演『ルル』が,予定の3幕版から2幕版に変更になり,アルヴァ役が交代する,という発表があった。新演出の準備中に歌手が交代することはいくらでもあるし,指揮者の交代もないわけではないが,初日20日前の時点で上演版の変更というのは聞いたことがない。
 オペラ芸術監督のトーマス・ノヴォラツスキー氏の声明では「非常に高度な芸術的レベルが要求される作品であり、新国立劇場といたしましては高い水準を維持した公演を聴衆の皆様に観劇いただくため」,(1)3幕版から2幕版への変更,(2)アルヴァ役の交代,という措置をとったという。
 Yomiuri Online ではもっとはっきり「歌手の水準低くオペラ短縮」という見出しを掲げ,「一部の歌手が芸術的に満足できる水準に達していないことを理由に,当初予定していた全3幕完成版から全2幕版に急きょ変更して上演すると発表した。これにより出演者が一部変更となるほか,公演時間も1時間半近く短縮される。」と書いている。

 『ルル』にそれほどなじみがあるわけではない者としては,第3幕でアルヴァというのがどのぐらい重要な役なのかはわからないが,同役の歌手のレベルが最大の原因だとすると,基本的には歌手を選んだ方の責任だろう。なにしろノヴォラツスキー氏は「(日本人・外人を区別せず)世界的基準でオーディションを行う」というスローガンを掲げていたのだから。(同氏は上記の声明の中で,某放送局の会長と違って,「このような結果となりましたことを大変遺憾に思っております。この責任は芸術監督である私にございます。心よりお詫び申し上げます。」と述べ,またチケット代の払い戻しにも応じている。)
 一方で,タイトルロールのしのぶサンは,ポピュラリティのない曲への客寄せのために,他のオーディションとは別に決まっていたような節もあるが,どうなのだろう。(ルルなら他の曲のヒロインよりは似合っているような気も(少しは)するが。)
 気の毒なのは,出番がなくなってしまった人たち。ギャラはある程度出るのだろうが,このために他の仕事を断ったりしたのではなかろうか。

 オペラハウスの「伏魔殿係数」でも世界的基準に近づいているのかも。

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Jan 13, 2005

Once upon a time――ケータイの黎明

 あるとき会社で,昼休みから戻った某中年男が後輩に「おい大変だ,アンケート書いたらケータイもらっちゃたよ。これ,どうやって使うんだ?」と言った。携帯電話は,今も新規だと0円とか1円の機種があるが,一時期,タダの方が普通で,よくアンケートの景品やクイズの賞品になっていたのである。きかれた後輩が答えて曰く,「これをですね,公衆電話の受話器をはずしてそこに掛けて,それから十円玉を入れるんですよ」
 その中年男も,その後もちろんケータイを使っているが,メールは今も受信のみである。

 ケータイの普及と共になくなろうとしているのが,「お呼び出しアナウンス」と駅の伝言板である。
 今でもデパートでは「先ほど○○売り場で△△を3150円お買い求めのお客様」とか「緑のチェックのワンピースをお召しの3歳ぐらいのお嬢様のお母様」が呼び出されることがあるが,昔は個人を指名した呼び出しアナウンスがしょっちゅうあった。万引きが発生したとか,雨が降り始めた,といった情報を全店員に伝えるのにも,特定の呼び出しアナウンスを符牒として使っていたと聞いたことがある。
 野球の中継をテレビで見ていても,「杉並区○○の△△一郎様,ご自宅にお電話をお願いいたします」といったアナウンスがほとんどイニングの合間ごとにあった。時には「ご自宅が火事です。至急お帰りください」などという放送もあったという。
 私は一度だけ,ある演奏会場で,呼び出しアナウンスでご指名を受けたことがある。受付で聞いた伝言に従って実家近くの親戚に電話したところ,父親が急に倒れたということを知らされたのだった。

 駅の伝言板は,かつては「駅前の喫茶店○○にいる」とか「1時間待った。帰る。バカ!」といった書き込みでにぎわっていたが,今や絶滅寸前の状態である。ただし,本当に問題なのは,伝言板と共に,待ち合わせの時間を守るという習慣もなくなりつつあることだろう。

 80年代だと思うが,自動車電話を車から外し,肩に掛けて一応持ち歩ける電話となったのが,ケータイの「第1世代」である。当時は使用料が月10万円ぐらいして,とても普通の勤め人が使えるようなものではなかった。
 そのころの東海林さだおの漫画に今も覚えているシーンがある。電車の中で,若きエグゼクティブ(?)の肩掛け電話に電話が入る。周りの人は珍しいので聞き耳を立てる中,彼は「うん,よし,3億で手を打とう」などと言う。少ししてまた電話が入り,こんどは「えっ何? ブタのこま切れ300? (急に小さな声で)わかった」

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Sep 10, 2004

ミツコ

 前回の「徳永康元 ブダペスト三部作」で,徳永先生のハンガリー留学時代の「登場人物」として「タナカ・ミチコ」と書いたのは私の誤りで,書いてあるのは,1世代上の青山光子のことだった。

 著者の母方の祖父である薬学者・柴田承桂(すなわち柴田南雄の祖父でもある)は,市谷加賀町に西洋館を持っていた。そこをオーストリア=ハンガリー帝国の代理公使ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が借りて公使館としていたときに,青山光子と結婚したのだという。息子2人もそこで生まれた。
 (別の本によると,伯爵が光子の家の前で滑って転んだのが,2人が知り合ったきっかけだったそうだ。夫の帰国と共にヨーロッパへ渡った光子は,後に社交界に君臨し,ヨーロッパでもっとも有名な日本人となる。なお,クーデンホーフという名はオランダ系で,Coudenhove と綴る。名前の後半は Beethoven と同じか。)

 徳永青年は留学中の1940年夏に,その西洋館の写真を持ち,思い出話を聞こうとしてウィーンに出かけたが,光子は療養中で会えなかった。光子はその翌年死去した。

 光子クーデンホーフ=カレルギーの次男リヒャルト(徳永先生は長男と書いているが次男;栄次郎という日本名もあるらしい)は,第一次世界大戦後の疲弊の中で「汎ヨーロッパ主義」を唱えた。これが,後のEEC,その後のEC,そして今日のEUの源流となった。
 結果として,ミツコが世界史を変えたのだった。

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Sep 04, 2004

徳永康元 ブダペスト三部作

 今日は,畏友Flamand氏の「擬藤岡屋日記」の読者の方には特に興味を抱いていただけそうな話題を――

 言語学者・徳永康元先生(1912-2003)の『ブダペスト日記』(新宿書房)が,逝去の後1年半たって8月に刊行された。『ブダペストの古本屋』『ブダペスト回想』(共に,恒文社)に続く3冊目の著書である。
 徳永先生は,戦前の教養人の系譜の掉尾を飾る人で,音楽家ではないが,音楽に深い理解を持つ。作曲家・柴田南雄のいとこであり,シェーンベルクを初めとする20世紀の音楽を柴田に紹介したのは徳永先生だったという。

 徳永先生は,1940年2月から1942年5月までハンガリーのブダペストに留学し,音楽会にも通った。上記『ブダペストの古本屋』によると,実演を聞いた音楽家は,指揮者ではリヒャルト・シュトラウス,フランツ・レハール,エルネー・ドホナーニ(クリストフの祖父),ピアニストではエミール・ザウアー,バルトーク夫妻,ギーゼキング,エドウィン・フィッシャー,バックハウス,歌手ではネーメト(ソプラノ),セーケイ(バス),さらに当時の「若い世代」の指揮者フェレンチェク,ヴァイオリンのヴェーグなど,ため息の出るような名前が並ぶ。「擬藤岡屋日記」でおなじみのタナカ・ミチコも登場する。
 この中で,バルトーク夫妻の演奏会は,ナチスの圧力が強まっていた中でハンガリーへの告別演奏会となり,その数日後出国して,再び故国の土を踏むことはなかった。

 『ブダペストの古本屋』『ブダペスト回想』の2冊は1980年代の本だが,ネットで探せば手に入ると思う。著者が再びハンガリーを訪れることができたのは1965年,この時の感動が,この2冊のもうひとつのハイライトである。
  <9月17日修正>

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Apr 07, 2004

聖者の行進

 3月25日だったと思うが,昼休みに,近くの小学校から突然「聖者の行進」のバンド演奏が聞こえてきた。吹奏楽器が聞こえると血が騒ぐ私は,あわてて道を曲がって駆けつけた。
 卒業式が終わり,バンド演奏に送られて卒業生が校門を出て行くところだった。昔なら鼓笛隊だったところだが,ちゃんとした金管バンドである。しかも,在校生だから5年生以下のはずなのに,多少リズムがどたどたしているものの,立派な演奏で,通りがかりの人の足を止めさせていた。
 ただし,本当は「聖者の行進」は葬式の曲だ。saints は「ホトケサマ」と同様,「死者」をも意味する。私は,父の葬式のあと,霊柩車の出発のときにこの曲をラジカセで流したが,元来の米国南部では,葬式から帰ってくるときの曲だという。
 ちなみに,この曲の3番の歌詞(いろいろなバージョンがあるようだが)は,「裁きのラッパが鳴り響くとき…」というもので,これはまさに,レクイエムの「tuba mirum」と同じだ。
 (この記事タイトル,最初は「聖者の更新」と変換された。)

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