旅行・地域

May 17, 2008

厚揚げストーリー

 豆腐はどういう料理でも好きだが,つまみとしていちばん愛用している豆腐家族のメンバーは厚揚げである。これは,私の母語では「生揚げ」であり,今もおでん屋では生揚げと呼ばれることが多いような気がするが,飲み屋での名称は圧倒的に「厚揚げ」である。
 神田駿河台3丁目,三井住友海上の南側の地域には良い和食店がいろいろあるが,その一つのの「藍」で,先日昼に「本日の定食」を食べた。そのおかずに厚揚げが入っていたのだが,これがなんと注文を受けてから豆腐を揚げて作っていた。ざるの上に水切りした豆腐が並んでいて,定食の注文があるとその1丁を縦長の半分に切って,衣をつけて揚げるのである。揚げている時間は長いわけではないが,揚がってから薬味を添えたりするし,もちろん他のおかずを並行して用意するわけで,その手のかけ具合は申しわけなくなるほどだった。

 飲み屋では厚揚げは網で焼くから「焼きもの」だが,池袋の大衆的な居酒屋では厚揚げは「揚げもの」に分類されている。ただし,豆腐を揚げているわけではなく,既製品の厚揚げをさらに揚げているもので,これはこれでうまい。安いつまみなのに,ありがたい。
 厚揚げの薬味は,ネギ,ショウガ,かつおぶしが定番だが,店によっては大葉やミョウガが加わる。同じく池袋のでは,5月になって店長が交代したのをきっかけに,ありがたいことにメニューに厚揚げとポテトサラダが登場した。ここの厚揚げは薄い直角三角形のものを4片串に刺して網で焼き,ネギ,かつおぶしのほかにちょっと酸味を加えた味噌が添えられている。これもなかなか乙なものだ。

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May 11, 2008

鳩山会館・野間記念館・あしかが・ベニバナトチノキ

 連休中のある日,文京区音羽の鳩山会館に出かけた。鳩山一郎はじめ,五代にわたって政治家を排出してきた鳩山家の邸宅を修復したものである。地下鉄有楽町線の江戸川橋から護国寺方向へ進んだ右側に門があり,坂を上がっていく。Img_1080
 1924年,関東大震災の翌年完成した建物で,旧岩崎邸(池之端)よりスケールは小さいが,内外装とも落ち着いていて趣味の良い邸宅である。2階には鳩山薫子,鳩山威一郎の記念室もある。庭は西洋風の一部を和風にしたような感じで,ツツジが品良く咲いていた。庭に面した1階の部屋では無料の緑茶(給茶器によるものだが一応香りがあった)が飲める。Img_1084

 鳩山会館のあとは,野間記念館に行った。江戸川橋方向に戻ってから目白坂を上がり,椿山荘を過ぎたところにある。講談社の創業者・野間清治のコレクションを展示する美術館で,横山大観とその周辺の画家の展示をやっていた(これは5月18日まで)。大観もいいが,小杉放菴など6人の十二ヶ月図がおもしろかった。
 記念館の玄関の前の植え込みにベニバナトチノキがあって,少しピンクがかった淡い朱色の花を咲かせていた。ベニバナトチノキは神田神保町のすずらん通りにあって,会社の先輩に木の名を教わった。(「本拠地」の「神保町の昼食の章」の「神保町昼食ニュース」2000年6月号参照)

 その数日後,こんどは栃木県足利市のあしかがフラワーパークで,ベニバナトチノキにまた巡り会った。最初は別のところに行こうとしていたのだが,駅のポスターを見て方向変更した。こういうとき Suica はありがたい。Img_1132
 藤色・白・黄色のフジが盛りを迎え,1年分を2週間で稼ぐというほどではないかもしれないが,大賑わいだった。ここは入場料が「変動相場制」で,季節・天気・花の咲き具合によって変動する。後で見たホームページによると,料金は当日朝7時に決めるとのこと。Benibanatochinoki0805a
 フジのほかにツツジやクレマチスなどが所狭しと咲いていたが,そこに混じってベニバナトチノキがあった。これが,都内の何か所かで見たものよりずっと色が濃くて,新緑の中で鮮やかだった。

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May 10, 2008

ケルンとローマ

 70年代に当時は西ドイツのケルンに行ったことがある。ドイツはその後も南の方しか行ったことがなくて,ケルンが今まで行ったドイツの「北限」である。
 有名な大聖堂の向かい側にローマ博物館があった。細かいことは覚えていないが,わかりやすく展示する工夫がこらされ,非常によく作られた古代史博物館だと思った。その地下展示室では,ローマ時代の遺跡の発掘現場をそのまま保存してガラス越しに見られるようになっていた。
 今のドイツ地域は,『ゲルマニア』などの書物に記録された北方の辺境であり,そもそもケルンという地名はラテン語の colonia(植民地)に由来する。

 その数日後,ローマへ飛んだ。
 ローマでは,町中に古代の遺跡・遺物があるのを見て目がくらむような思いがした。古代ローマの中心をなすフォロ・ロマーノはちょっと別格にしても,ケルンで大切に保存・展示されていたようなものが,そこらじゅうにごろごろしているのだった。「永遠の都」というのは,永遠に遺跡で食っていける街,でもあった。

 ローマからは南回りの飛行機で23時間半かかって帰ってきた。

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Feb 13, 2008

平安京と羅城門

 ソウルの南大門が放火で焼け落ちたというニュースを見て,『羅生門』に『地獄変』が重なって思い出された。『羅生門』を思い出したのは京都へ行った直後だったせいでもある。

 学生の時,初めて京都へ行った。あまり時間がなかったが,平安京の大きさを実感したいと思って,市電(という乗り物が当時あった)と徒歩で歩き回った。現代の京都に昔の碁盤の目の道を重ね合わせた地図は歴史の教科書でおなじみだったが,実際に歩いてみると「条」の間隔がかなり広いことに驚いた。
 当時,庶民の家は掘っ立て小屋だったし,貴族の家も平屋だっただろうから,都市は平面に広がるほかはないのだが,それにしても都の規模は大きい。これだけ広くては人家のない部分も多く,あちこちで「羅生門状態」になっても不思議はないと思った。

 羅城門(この表記の方が普通)は都の中心を南北に通る朱雀大路の南端にあった。場所は東寺の南西のあたりで,今の京都の中心部からは西にはずれている。したがって,後の京都の街は平安京の東半分に重心を移したことになる。
 昔の道と現代の道の対応もなかなかおもしろい。京都の中心部で見ると,四条・五条の通りは今も大きな道だが,二条・三条はそれほど大きくなくて,代わりにその間の御池通りが大きい。道にも栄枯盛衰がある。

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Feb 11, 2008

太秦天神川駅

 京都へ行ったところ,市営地下鉄東西線の延長開業のポスターが貼ってあった。二条から西へ延びて,西大路御池・太秦天神川の2駅が1月16日に開業したという。Img_0820
 翌日の朝,少し早く出て,その延長区間に乗りに行った。2駅だから正味5分,終点特有のX字型のポイントをゴトゴトと渡り,あっけなく太秦天神川に到着した。Img_0821
 改札を出ると,1番・4番出口の案内があり,2番・3番は書いてない。目の前にエスカレーターが見え,それがどうも3番出口らしいが,フェンスでふさいである(写真で4番とあるのは右へ行く矢印を伴った表示である)。4番出口から地上へ出ると,周りじゅう工事中だった。あとで調べたところ右京区区役所を含む再開発ビルがが3月完成の予定だという。Img_0826
 京福電鉄の嵐山線(嵐電)乗り換えの表示があったので,行ってみる。この部分は嵐電が三条通りの上を走っていて,最寄りの「蚕の社」駅まで300メートルほどある。これも後で調べたところでは,3月にもっと近い乗換駅「嵐電天神川」が開業するという。これまでの四条大宮(阪急)乗り換えより便利だ。次はいつになるかわからないが,きっと厳寒の季節は終わっているだろうから,嵐電で太秦周辺を歩いてみることにしたい。

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Nov 07, 2007

長崎からは東京より上海の方が近い

 長崎からは東京より上海の方が近いということを知ったのは,一度だけ80年代に中国へ行った帰りのことだった。上海から成田行きの機内で航空路の地図を見たら,国際線なのに行程の半分以上は日本の領土の上を飛んでいるのだった。

 そんなことを思い出して,地図を広げてみた。ある特定の図法の地図の上で直線距離を測ったので誤差はあると思うが,大ざっぱには下記のようなことがいえる。

  (1) 福岡からは東京よりピョンヤンの方が近い
  (2) 福岡からはソウルと京都が等距離である
  (3) 鹿児島からは仙台より台北の方が近い
  (4) 鹿児島からは旭川とフィリピンのルソン島北端が等距離である

 こうして見ると,日本はかなり広い。長さを測ると四島だけでも1970km,知床から与那国島までだと3000km近くある。3000kmというと,ヨーロッパでは南西端のジブラルタルからオスロとかリトアニアまでの距離である。
 面積についても,隣に中国やロシアがあるので,日本の国土は狭いという感覚があるが,ヨーロッパの国々と比べると日本は決して狭くはない。旧ソ連以外のヨーロッパで日本より広い国はスウェーデン,スペイン,フランスだけである。

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Sep 04, 2007

30年前の夏

 30年前,1977年の夏,エルヴィス・プレスリーの訃報をイギリスで聞いた。大スターだが,たった42歳だった。なにしろ昔から有名人だったので,その若いことに驚いた。

 その数日前,イギリスのラジオで,日本で火山が爆発したというニュースが報じられた。ところが,肝心の山の名前は,なんだかマウントゥースーというように聞こえるが,わからない。
 少ししてイギリスの新聞に Mt.Usu と書いてあるのを見つけた。しかし,当時,昭和新山というのがあることは知っていたが,それを生み出した火山の名は知らず,結局帰国するまで有珠山という漢字と結びつかなかった。

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Jul 25, 2007

東西のスポニチ

 7月23日(月)朝,京都でスポーツニッポンを買ったところ,その前日はオールスター明けでプロ野球の試合はなかったのに,なんと1面から3面までタイガースの記事で埋まっていた。中身は練習の様子が主で,大きな写真を配してかなり「水増し」している。
 この日,松井のダブルヘッダー2試合連続ホームランや,大相撲千秋楽など,1面ネタはあったはずなのだが,まるで眼中にない。
 午後帰京して東京のスポニチを見たら,1面は当然松井だった。東西の違いは,もちろん日によるのだろうが,一般紙よりかなり大きいようだ。ほかに,芸能面に宝塚歌劇についての連載があるのも関西版だけだった。

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May 27, 2007

革命前夜

 1970年代後半に住んでいた地域は,講道館へ歩いても行かれる場所だったので,柔道を学ぶために来日している外国人が住んでいた。それは,町の定食屋で,当時王政のイランから柔道留学で来ていた3人組にときどき会うようになって知ったことだった。
 3人のうちの1人は,かなりひどいが一応英語を話す。やっと聞き出したところでは,彼らは警察官だという。ペルシャ語はもちろん,英語の新聞も読める環境にはないので,日本の新聞を広げていた私に,イランのニュースはないかと尋ねてきた。それからしばらく,何か出ていると,新聞を見ながらいいかげんな「同時通訳」(むしろ「勧進帳」というべきか)をする羽目になった。

 イラン革命が起きて王政が倒れたのはその翌年ぐらいだった。3人がいつ帰国したのかはわからないが,定食屋のマスターと「彼らは王党派ということになるんだろうから,帰っても大変だろうね」などという話をした。

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May 16, 2007

Myカルデラ史

 箱根は全体が大きなカルデラで,その一部に水がたまったのが芦ノ湖である,ということを,小学校の修学旅行で箱根へ行く前の授業で習った。しかし,箱根火山は何度も爆発を繰り返しているために,東南側の外輪山は何重にもなっているし,中央火口丘も多くの山からなっていて,地形図を眺めてもカルデラの形はあまりすっきりとはわからない。
 その6年後,高校の修学旅行で十和田湖へ行った。十和田湖はカルデラ湖で,やはり何度かの爆発を経ているそうだが,これはともかく丸ごと湖になっている。

 それから三十年近くたったある年,九州へ用事で出かけ,その帰りに熊本から豊肥本線に乗った。このとき車窓から初めて見た阿蘇山は,荒々しく雄大な山容と,そこから阿蘇谷を挟んで外輪山へ続く地形がはっきりと見え,日本の風景としては随一と思われるスケールの大きさで,まことに感動的だった。なるほどこれがカルデラというものかと思った。
 このときは,立野から南阿蘇鉄道に乗って,地獄温泉(参照:地獄への道)に泊まり,翌日はバスで高千穂駅へ出て,高千穂線に乗った。
 その2年後,もう一度熊本に行き,こんどは豊肥本線でそのまま大分まで行った。このときは大雪で,珍しい雪化粧のカルデラを見て,外輪山を登る立野の大規模なスイッチバックを堪能した(参照:本拠地 鉄道の章-その他の断章-九州雪国紀行)。

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Apr 30, 2007

パリの歩き方

 昔,初めて海外に出かけ,パリに行ったとき,最初は建物や街並みばかり見ていたが,少しして,人々の歩く姿が男女とも颯爽としていて,まことに格好いいことに気づいた。おどおどした感じがなく自信に満ちていて,スピード感がある。
 これにはまず,脚が長いという要素が大きい。ただ,それだけなら西洋人並みの日本人だって当時すでにある程度の数いたし,実際の歩行の速度は身長との比例以上に速いわけではない。ポイントは,背筋が伸びていることと,脚を出す速度とタイミングなのではないかと思った。

 その少し後,郷里の横須賀でみなと祭りのパレードを見たことがある。そこで,吹奏楽やバトントワラーの華やかな行進の合間に,米軍兵士4名による,独立戦争のころの姿でのパフォーマンスがあった。単に歩くのが主で,ときどき隊形を変えたり,向き合って銃をぶつけ合ってガチャッと音をさせたり,止まって号令をかけたり,というだけのことなのだが,これまた歩く姿が良かった。

 オペラではよく兵士の行進がある。70年代に日本のオペラ団体が『ファウスト』を上演したとき,有名な兵士の行進の場面で,音楽がなかったらとぼとぼと歩いているようにしか見えないような行進があった。舞台の狭さなど,難しい条件はあることは承知しつつも,とても戦えそうにない軍隊の姿に,さすが戦争放棄の国と苦笑させられた。
 もちろん,その後,オペラでの集団の演技が全体に格段に良くなっている中で,この点もかなりの進歩を遂げている。

 最初のパリでのことだが,少しして,女性がかなりの確率でノーブラであることに気づいて,歩き方からそちらに注目点が移行してしまった。

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Apr 21, 2007

私の廃線リスト

 3月末に鹿島鉄道(茨城県)とくりはら田園鉄道(宮城県)が廃止になった。
 鹿島鉄道は,1992年夏に家族連れで乗りに行き,そのときの報告を拙著『<鉄道紀行文集> 車窓伴影』に収録した(本拠地「鉄道の章」の『車窓伴影』参照)。くりはら田園鉄道には1998年に乗った(同じく「鉄道紀行文断章」の「東北横縦紀行」参照)。こうして記録が残っているとよく思い出すことができるが,もう15年または9年も前のことになってしまった。
 私は鉄道に「乗りに行く」ようになったのはだいぶ年をくってからなのだが,それでも私が乗った後に廃線になった線はかなりの数にのぼる。廃線年表を見ながらリストアップしてみた。

廃止年 線名・区間  乗った年
      (*印は複数回乗っているうちの最後に乗った年)
1991 下津井電鉄  1990ごろ
1994 野上電鉄  1993
1995 深名線  1994
1997 南部縦貫鉄道  1997
1997 信越本線 横川―軽井沢  1997*
1999 新潟交通 東関屋―月潟  1998
1999 蒲原鉄道 五泉―村松  1994
2001 下北交通  1997
2001 のと鉄道 穴水―輪島  2001
2001 名古屋鉄道谷汲線  1999
2002 長野電鉄 信州中野―木島  2001
2003 有田鉄道  1999
2003 可部線 可部―三段峡  2000
2005 日立電鉄  2001*
2005 のと鉄道 穴水―蛸島  2001
2006 北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線  2001
2006 神岡鉄道  2002
2007 鹿島鉄道  2004*
2007 くりはら田園鉄道  1998

 このうち,南部縦貫鉄道,のと鉄道輪島線は廃止が決まってからあわてて乗りに行ったものだが,その他は乗車の時点では廃止が決まってはいなかった。しかし,それぞれすでに廃止の動きはあって,実際に乗ってみてこれでは存続は難しそうだなと思った線が大部分だった。そういう線ほど,訪れる部外者にとっては思い出深い。
 その点,信越本線横軽間の廃止は新幹線開通に伴う政策的なもので,いろいろな意味で事情が違う。「本線」の廃止というのは鉄道史上初めてのはずだ。私も他の廃止線と違って昔から何度も乗っていて,お名残り乗車に行ったのが上記の1997年だった。

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Mar 19, 2007

Pasmoの始まり

 首都圏では昨日から Pasmo の使用が始まった。JR東日本の Suica と相互利用が可能になったので,さっそく昨日の昼前,私鉄の改札でモバイル Suica の携帯をセンサーにかざしたら,ちゃんと入れた。今まではパスネットを取り出して,機械に通さなければならなかったので,なんだか不思議な気分である。昨日は試さなかったが,バスにも使えるのはまことに便利だ。
 クレジットカードからオートチャージ(一定の残高以下になると改札口を通過するときに一定の額を自動的にチャージする)もできるし,記名式なら子供用のカードもある。これで,運賃支払いについては,ひとつの理想型が実現した。
 こうなると「目障り」なのが,東京の市内交通が東京メトロと都営地下鉄に分かれていることである。両者を乗り継ぐと高いし(割引はあるが),何よりもわかりにくい。これにはいろいろな歴史的事情があるのだが,経営統合が無理なら,(できればバスも含めて)運賃体系の統合をしてほしい。

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Dec 11, 2006

道後温泉の『復活』

 どの程度珍しいことなのかはわからないが,私は47都道府県すべてに足を踏み入れたことがある。

 首都圏以外の場所へは,小学校4年のとき,福島にあった親戚に行ったのが最初である。上野駅で何時間か並ぶ覚悟で出かけたが,予定の列車の前の臨時列車に乗ることができた。東北本線の全線電化の前で,蒸気機関車が引いていた。
 以来,東北には何かと縁があり,学生時代に全県を訪れ,また北海道へも行った。
 近畿は,京都・大阪・兵庫・奈良へは仕事でよく行ったが,その他の県を訪れたのはだいぶ後で,乗ったことのない鉄道に乗りに行った結果である。
 ふつうは行く機会の少ない鳥取へは,たまたま出張があり,ついでに島根に足を伸ばした。九州へは,90年代半ばに何度か用事ができて,全県へ行き,帰りに山口県にも寄った。四国は,香川・徳島は80年代に行ったが,高知に行ったのは90年代後半だった。

 結局,20世紀中に唯一行けなかった県は愛媛だった。
 世紀が変わって間もない2001年4月,高知・愛媛へ出かけた。行きは寝台特急「サンライズ瀬戸」に乗り,朝日にきらめく瀬戸大橋を渡った。土佐くろしお鉄道と予土線で四万十川沿いの新緑を堪能してから愛媛県に入り,宇和島に泊まった。
 翌朝は松山。路面電車で市内を回り,道後温泉本館の湯に入った。
 その脱衣所兼休憩室で,裸のままなにやら厚い本を読んでいるおじいさんがいた。おじいさんが本を置いて席を立ったときにちらりと見たら,世界文学全集の1冊で,トルストイの『復活』だった。

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Apr 22, 2006

ふるさと銀河線の終焉

 北海道ちほく高原鉄道「ふるさと銀河線」が20日限りで100年近い歴史に幕を閉じた。前身は池田と北見を結ぶ旧池北線で,140kmの長大路線の廃止という例のない事態となった。
 私が乗りに行ったのはちょうど5年前で,このときは最北の稚内から襟裳岬に近い様似まで,S字形のルートで旅をした。連休の北海道は早春の風情だった。[参照:「北海道大S字紀行――宗谷・ちほく・日高」(本拠地 「鉄道の章」の「『車窓伴影』後の断章」にあり)]

 私が乗ったことのある線が廃線になったのは,北海道では深名線に続いて2つめになる。深名線はまあ純粋にローカル線だったが,このたびのふるさと銀河線は,最初は札幌と道東をを結ぶ「本線」として開通した歴史を持つ。
 遠くまで鉄道に乗りに行くようになったのがだいぶ年をくってからだったのでやむを得ないことだが,北海道には,私が乗らないうちに廃線になった鉄道がたくさんある。今回,北海道の中央部に大きな空白が広がった。

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Apr 16, 2006

京都御所――雅楽と桜

 用事で京都に出かける日が,ちょうど京都御所の一般公開期間中だったので,午前中のうちに見ることにし,少し早く東京を出た。ふだんでも事前に申込みをして見学することはできるのだが,年に2回,春と秋の各5日間は申込みなしで見学できる。20年ぐらい前の秋の公開を見て以来,2回目である。
 地下鉄の京都駅ですでに「京都御所の一般公開に行かれる方は今出川でお降りください」というアナウンスがあり,今出川ではかなりの人が降りた。平均年齢の高い人の流れに乗って門をくぐると,満開のしだれ桜が出迎えてくれた。玉砂利の上を歩き,特設テントでの手荷物検査を経て,宜秋(ぎしゅう)門という門から御所内に入ると,以下は順路に従って一筆書きで歩くことになる。0604gosho1

 建物はすべて平屋である。床が高く,屋根も高いが,高楼はない。しかも,建物の中は向こうに屏風があったりはするが,あとは畳が広がっているだけで,前のときにも思ったのだが,まことにあっけらかんとした空間である。「御所」は英語では palace とするほかないが,同じ palace でも西洋の宮殿とはまったく違う。
 現在の建物の大部分は幕末のものだという。例えば枕草子に出てくる清涼殿の姿をどの程度伝えているのかはわからないが,庶民の家が掘っ立て小屋程度なら,まあ一応そびえ立ってはいたのだろう。
 「正殿」にあたる紫宸殿(上の写真)には,「左近の桜」「右近の橘」があって,桜は満開だった。右近・左近というのは,中から見て右左だということを初めて知った。
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 庭の丹塗りの欄干のある舞台で,予告されていた雅楽の公演が始まった。舞台は舞のためのもので,楽員は奥のやはり欄干のある台の上で演奏していた。色とりどりの衣装が春の日に鮮やかである。
 隅に座っている鞨鼓のおじさんがマイクで曲目を紹介し,簡単な説明をする。曲によって編成はいろいろだったが,最後は13人のトゥッティだった。笙3名,篳篥(ひちりき)3名,笛4名,打楽器3名である。笛と篳篥がメロディ楽器だが,斉奏でこれが西洋風のユニゾンを意図しているのか,微妙にずらしているのかがどうもよくわからない部分もあった。
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 見学コースは清所門という門から出て終わる。あらためてしだれ桜を見た。東京より1週間遅い花見だった。
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Mar 15, 2006

一人文化の日 (3)――横須賀「銀次」

 ゆっくり見たので,見終わるともう閉館時間だった。五島一族の屋敷群を見ながら駅へ戻る。日が長くなって,まだ明るいが,そろそろ居酒屋文化探訪の時間である。
 多少迷った末,ふるさと横須賀の「銀次」に行くことにし,東横線に乗った。太田和彦『居酒屋味酒覧』(新潮社)に横須賀で唯一載った店が銀次で,前から気になっていた。
 乗り換えは非常に接続が良く,京急で横須賀中央に着いたのは5時半過ぎだった。昨年夏のホッピー探訪に続く「帰省酒」である。横須賀ではたいして飲んだことはないのだが,「銀次」という看板は見たことがあったような気がしていた。行ってみたら,それもそのはず,知人のやっているとんかつ屋の向かいだった。

 引き戸をがらりと開けて入ると,そこは太田氏が書いているように「時の止まった空間」だった。まず,横須賀名物のホッピー。「横須賀風」に当然三冷(グラス,焼酎,ホッピーを冷やす)で,冷蔵庫の一升びんに入った焼酎をグラスに注いで出てきた。ただしここでは,氷を入れるかどうかを聞かれた。
 かなり広い厨房を囲んでL字型のカウンターが十数席,テーブルが数卓。厨房はおじさん1人とおねえさん4人で,注文が入ると必要な人数が一瞬のうちに連携して動き始め,多くの注文は20秒足らずで出てくる。揚げ物も,純粋に揚げている時間プラス10秒ぐらいしかかからない。

 つまみは300円から400円が大部分で,シコはなかったがアジがあったのでアジ刺と,大根煮,菜の花辛子和えなどを食べた。大根煮は大3切れ,小1切れで,煮え方の段階がいろいろで色とりどりだった。アラも少し付いていて,内容豊かである。
 ホッピーの後,燗酒を頼んだら,店名と「招徳」という酒の名の入ったとっくりで出てきた。
 となりで食べていたモツ揚げというのがおいしそうだったが,この日は昼間すでに揚げ物(カキフライ)を食べているので,やめておく。

 うーんすばらしい,と一人つぶやいて,そろそろ満席になった店をあとにする。外はもうすっかり暮れていた。
 充実した半日の「文化の日」だった。

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Mar 11, 2006

一人文化の日――旧万世橋駅

 昨年2月と同様,某平日の午後,休日出勤の代休をとって個人的な文化の日とすることにした。

 まず出かけたのは,今年5月14日限りで閉館になる交通博物館(東京・神田須田町)。閉館に伴うイベントとして開催されている「旧万世橋駅遺構特別公開」に出かけた。平日は1回20分で17回,土日祝日は1回15分で26回開催されていて,この日の13:10の回を予約しておいたものである。0603mansei1
 明治末から大正にかけて,万世橋駅は中央線の終点で,繁華街にそびえる赤レンガの大ターミナルだったが,やがて中央停車場(東京駅)ができて万世橋はターミナルでなくなり,関東大震災で焼失した。簡素な2代目駅舎のあと,1936年に3代目の駅舎ができたが,そのときにそれまでの万世橋駅の基礎を利用して駅に併設されたのが交通博物館の前身の鉄道博物館だった。万世橋駅の廃止は戦時中の1943年である。0603mansei2

 20分のツアーの割には,30分前からものものしく予約のチェック,集合,点呼,注意事項の説明などがあった。定刻となり,ぞろぞろと展示室を横切り,脇の廊下の途中のドアをくぐると,石組みのアーチが見える部屋になっていた。ここで6分間の解説ビデオを立ち見してから,ホームへ通じる古い階段を登る。階段のへりが欠けているのは,戦時中に金属を供出したためだという。0603mansei3

 登った先は,ホームの上に顔を出したガラスの小部屋になっていて,春の日差しがまぶしい。中央線の上下線の間にあるあの古いホームである。すぐ脇を中央線のレンガ色の電車が地響きをたてて通過していくのを,二度と見られない位置から写真に撮って,あっけなく終了となった。

 交通博物館に初めて入ったのは,小学校3年の夏で,その夏休みの最大のイベントだった。宿題の絵日記の中で,この日の項は,模型鉄道パノラマの絵など4ページの「特大号」だった。
 新しい「鉄道博物館」が大宮に開館するのは,2007年の鉄道記念日の予定である。

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Feb 22, 2006

三都物語――(17) 地下鉄とトラム

 これまで時間の順で概要を記したが,以下,「テーマ別」の補遺を少し書く。

◇3路線
 3都市とも,地下鉄を軸に,トラム(路面電車)とバスが絡み合う形で市内交通を担っている。
 プラハとブダペストの地下鉄は共に3本の路線があり,規模も同じくらいである。ブダペストでは3本の路線がデアーク・フェレンツ・テールという1つの駅で交わっているのに対し,プラハでは中心部で3本の路線が小さな三角形をなしていて,2路線の交わる駅が3つある。
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◇エスカレーターの速度
 最初に乗ったプラハでは,1日券はタバコ屋で買うようになっていた。タバコ屋とはいっても,飲み物だの新聞だのちょっとしたお菓子もあって,ミニコンビニだった。
 改札口に日付を入れる機械があるので,そこに切符を通して入場する(これは3都市共通)。最初に乗った駅で,エスカレーターが速いのに驚いた。感覚としては日本の地下鉄駅の1.6倍ぐらいのスピードだ。エスカレーターで歩く場合は左を歩き,止まっている人は右に立つヨーロッパ(および大阪!)式だったが,これだけ速いと,歩く人はさすがに少数派のようだ。E0512_4-2

 ホームは広く,トンネルの幅が広い。大阪の御堂筋線の天井を低くしたような感じである。路線ごとにラインカラーがあって,乗り換えも迷うことはない。しかし,(4)で書いたように,外へ出たときにそこがどこなのかがわからなくて困った。地図つきの出入り口案内図がほしいところだ。

 ウィーンでも1日(24時間)券,ブダペストでは3日券を,駅の窓口で買った。いずれも,トラムやバスにも乗れる。
 どこも,普通は切符をチェックしない。ブダペストで1回だけ,ホームへ入ったところで検札があった。

◇銀座線E0512_4-3
 ブダペストの地下鉄1号線は,メインストリートのアンドラーシュ大通りの下を走っている。これはなんと,ロンドンに次いで世界で2番目に古い地下鉄だという。駅は,古風だが,きちんと手入れされていた。古いから浅いところを走っていて,駅間は短く,ラインカラーはオレンジがかった黄色,駅はタイル張りで,あらゆる点で東京の銀座線(これは「東洋初」の地下鉄というのが開業時の宣伝文句)と似ている。
 3線の乗換駅デアーク・フェレンツ・テールは,銀座線との対比では銀座駅のような存在で,乗り換えはけっこう遠い。

 各線の車内に『ハウルの動く城』のポスターがあった。駅のエスカレーターでは,着物の女性の写真があるなと思ったら,アラーキー(荒木経維)の写真展のポスターだった。
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Feb 08, 2006

三都物語――(16) フィナーレ

◇普通の日曜日
 リスト博物館が休みというのは知っていたので他の所へというわけで,再び地下鉄に乗り,エステルハーツィ家のコレクションを中心にした国立美術館を目指した。昨日のガイド氏は,今日は「普通の日曜日」だと言っていたのだが,行ってみると扉は閉ざされていた。E0512_3BP_16

 しかたなく,トラム,バス,徒歩でホテルへ戻る。コーヒーを飲んで暖まり,預けておいたトランクを受け取った。

◇空港へ
 予定の4時半より少し早く,漢字で「……様」と書いたボードを持った運転手がやってきた。現地の交通のうち,最初と最後の市内・空港間の車だけは,ツアーの一部としてセットされている。(行きのプラハ着のときは,飛行機が遅れて利用できなかった。)
 もうすっかり暗くなった街を,車は空港へ走る。運転手は英語を話す人で,「こんどは夏に来たい」と言ったら,「いや,夏は暑いよ」という。データでは真夏の平均気温は21度ぐらいなのだが。
 30分足らずで空降着。残ったハンガリー・フォリントをユーロに交換してから(日本円はなかった),チェックイン。こぢんまりした免税店でハンガリーワインを仕入れた。

◇意気阻喪
 以後,ほぼ予定通りで,パリ・シャルルドゴール空港で乗り継ぎ,日本時間の翌日夜7時に成田に到着した。結局,都市間の交通で遅れなかったのは帰りの日本への飛行機だけだった。
 成田で飛行機から出てきたカミさんのトランクは鍵がこわされ,中が荒らされていた。荒らされていたが,何も盗られていなかったのは,泥棒氏が,あまりがらくたばかりなのですぐ意気阻喪したに違いない。それでもいろいろな手続きに,思わぬ時間がかかった。
 スカイライナーで9時半上野着。その12時間後には出勤していた。
    (このあと,少し「補遺」を記す予定)

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三都物語――(15) ミサ,それ無にす,雑念を

◇青空
 翌朝,クリスマスの日,早めに朝食を食べて,急いで荷造りの仕上げをし,チェックアウト。しかし,夕方このホテルに空港までの車の迎えがくるので,トランクを預ける。E0512_3BP_11

 地下鉄とバスを乗り継いで王宮へ行く。昨日までと違って,クリスマスの朝を祝福するように,青空が広がり,日があたっていた。この旅行で唯一のちゃんとした青空だった。バスが着いたのは王宮の南東の端の方で,昨日見た中心部の方まで歩く。王宮といっても店があり,人家があって,街と融合している。
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◇ミサ曲 ハ長調
 マーチャーシュ教会に着いたが,ミサのことは書いてない。ただ「tourist は13:00まで入るな」という掲示があり,ミサがあるらしいということはわかる。ガイド氏の情報のようにベートーヴェンのミサ曲が演奏されるのかどうかはわからなかったが,ともかく入ってみる。
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 昨日「準備中」だった内部に,ほぼ「満員」の人が集まっていた。10時になり,神父と助祭が入場し,後ろの聖歌隊席からオーケストラが鳴り響いて,ミサが始まった。ベートーヴェンのミサというのは,『ミサ・ソレムニス』以外にたしか1曲 C-dur のがあったような記憶があったが,聞いたことはなかった。しかし,聞こえてくる音は,まぎれもなくベートーヴェンの音だった。(帰国後,CDを買った。確かに 作品86の C-dur のミサというのがこの時の曲だった。)
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 定型どおり,ミサは進行した。神父はラテン語で祈りを唱え,ハンガリー語で説教をし,またラテン語でミサ曲を導入する聖歌を歌った。良い声というわけではなかったが,音程は正確で,ミサ曲の各曲への導入をきちんと果たした。神父さんには絶対音感が必要らしい。オーケストラは,少なくとも管楽器はプロが中心ではないかと思う。要所を締めた端正な演奏だった。E0512_3BP_15


◇ラザニア
 12時少し前にミサは終了した。一応カトリック系の学校の出身者の私にとって,なつかしく,また心の洗われる時間だった。英語を教わったハンガリー人のN神父のことを思ったりもした。
 外へ出ると,青空は消えていて,また曇り空が広がっていた。人々は晴れやかにクリスマスのあいさつを交わしている。
 王宮の地域にはいくつかの博物館・美術館があるのだが,いずれもクリスマスで閉まっていた。北西の端まで歩き,モスクヴァ広場からトラムに乗った。橋を渡ってペスト側へ行き,地下鉄に乗り換えてで中心部へ行く。
 レストランはやはりクリスマスで休みのところが多く,かなりあちこちさまよった末,1時半ごろ,やっと見つけたイタリア・レストランに入る。スープとラザニア,サラダ各1人前を頼んだら,ラザニアはちゃんと2つに分けて持ってきてくれた。

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Feb 06, 2006

三都物語――(14) 閉ざされたクリスマス・イブ

◇特ダネ
 市内ツアー中,ガイド氏から重要な情報を得た。クリスマスイブは,すべての公共交通が4時で終わり,レストラン・商店も,ホテル以外は午後は休業だという。商店や劇場が閉まるというのは聞いていたが,地下鉄まで止まってしまうとはどこにも書いてなかった。泊まっているホテルは地下鉄でないと帰れない場所なので,もしこのツアーに参加しなかったら,市内で立ち往生するところだった。
 もうひとつ,ガイド氏によると,翌日は王宮のマーチャーシュ教会でクリスマスのミサがあり,ベートーヴェンのミサが演奏されるという。これは,ホテルにあったどのパンフレットにも書いてなかった特ダネである。E0512_3BP_09a
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◇ホッと,ワイン
 プラハと同様に,広場にはクリスマス市の店がたくさん並んでいた。昼食の場所を求めて繁華街をうろついたが近くには何もなく,クリスマス市まで戻って,屋台でソーセージと豚肉・タマネギ炒めを買い,野外のテーブルで食べた。油をかなり使って大きな鍋で豪快に炒めていた。プラハの屋台にもあったホットワインを飲んで暖まった。E0512_3BP_10
 ブダペストにも名物のカフェがいろいろあるので,入ってみたいと思っていた。しかし,どこもすでに閉店して後かたづけをしている。マクドナルドさえ,同様だった。しかたなく,高級ホテルのコーヒーラウンジでコーヒーにありついた。

◇夜長
 「終電」が迫り,3時半にホテルへ帰った。部屋にクリスマスのチョコレートが置いてあった。
 しかたなく,午睡。
 夕食はホテルのレストラン以外に選択肢がない。それも8時までだというので,7時に夕食に行き,少ないメニューの中からグーラッシュとランプステーキを食べる。ランプステーキは日本でもまあありうるくらいの大きさだったが,付け合わせのフライドポテトや温野菜が皿からあふれそうに盛ってあった。これはそれまでの経験から予想していたので,メイン・ディッシュは1人前にしておいてちょうどよかった。
 「冬の夜長」は,テレビでクリスマスの歌番組を見たり,写真データの整理をしたりしたりし,合間に荷造りの準備をして過ごした。

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三都物語――(13) 市内周遊

 ブダペストには,2泊したあと夕方出発なので滞在はまる2昼夜で,3都市のうちでもっとも時間がある。しかし,ちょうどクリスマス・イブだったために,予想外のことに遭遇することになる。E0512_3BP_06

◇バシリカ
 『コシ・ファン・トゥッテ』の翌朝,9時発の市内観光バスに間に合うようにホテルを出た。パンフレットでは市内観光バスは聖イシュトバン大聖堂(バシリカ)前から出発すると書いてある。しかし,大聖堂を1周しても,それらしいものは何もない。
 とりあえず,という感じで大聖堂へ入ってみたのだが,その壮大さに圧倒された。旧市内では国会議事堂と共にもっとも高い建物だという。祭壇ではクリスマスのミサの準備が行われていた。日本人の団体が来たので,ガイドの説明を少し離れて聞く。

◇寒風の丘
 地下鉄の乗換駅デアーク・フェレンツ・テール駅まで戻ったところ,広場に Budapest Sightseeing と書いたバスが止まっていた。日本語を含む12か国語イヤホンガイドつきの3時間の市内ツアーがまもなく出発だというので,乗ることにする。E0512_3BP_07

 30代ぐらいの男性ガイドが登場,非常にきれいな発音の英語・フランス語で説明が始まる。中学校で英語とフランス語の教師をし,休日だけガイドをしていると自己紹介があった。旧市街をゆっくり走り,英雄広場,ゲッレールトの丘,王宮で下車する手軽なコースだった。必見とされる国会議事堂は含まれないが,今日は閉まっているとのことで,どっちみち外からのみである。

 冷たい風に吹かれながら丘から川と街を見下ろす。川を挟んで西側の丘の上に城があり,東側の平地に街が広がっているという構造が,プラハと共通している。そのため,思い出の中でプラハかブダペストかが混乱し,結果としてプラハの印象が薄くなってしまった感じもする。E0512_3BP_08
 王宮では,オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇帝としてのフランツ・ヨーゼフとエリザベートの戴冠式が行われたマーチャーシュ教会も見ることができた。

 出発した広場に予定通り1時に戻った。

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Feb 05, 2006

三都物語――(12) 『コシ・ファン・トゥッテ』

◇4夜連続
 同行者が客席に忘れ物をしたりという「事件」もあったが,充実した内部見学ツアーは45分ほどで終わった。
 内部の華麗な姿や舞台の準備風景を見てしまうと,やっぱり今夜もオペラ,ということになり,当日売りのチケット売り場で『コシ・ファン・トゥッテ』のチケットを買った。平土間で,1枚Ft9800だった。4夜連続のオペラとなる。
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 外へ出るともう真っ暗で,街はクリスマスのイルミネーションに飾られている。といっても,色とりどりというわけではなく,白熱灯を街路樹に飾ったものが中心である。
 何はともあれ,食べ損なった昼食を,というわけで,すぐ近くの気軽な中華の店に飛び込み,炒め物と焼きそばを食べ,さらに歌劇場向かいのカフェに入って,ほっと一息つく。E0512_3BP_04

◇まばゆい明かり
 歌劇場に入ると,まばゆい明かりに照らされ,ツアーのときは静かだったところに人があふれ,華やかな雰囲気になっていた。クロークにコートを預け,平土間9列目の席へ。プログラムはモノクロ16ページの簡単なもので,英語とドイツ語であらすじが書いてあった。
 7時開演。ハンガリー語の字幕付きだった。見学ツアーで見たアール・ヌーヴォー風(?)の舞台装置に照明が当たり,表情を一転させていた。装飾は優美だが,写実的に作ってあるわけではなく,適度にモダンな舞台装置である。
 6人の歌手のうち2人はイタリア人らしい名前で,他はハンガリー人,若者役の5人はみな細く,まあ若くて,快調。台本にはないコメディア・デラルテ風な助演者3人と,舞台を転換させる黒子が登場した。E0512_3BP_05

◇夜食
 10時に終演となった。
 上記のクリスマスの飾りを見たり,ウィンドウ・ショッピングをしつつ街を少し歩いたが,手軽にちょっとだけ食べるような店が見あたらず,やがて地下鉄の終電の時間が迫ったので,やむを得ずホテルに戻った。
 ホテルのバーは誰も客がなくがらんとしていたが,ピザがあるというので,ピザとビールで夜食とした。

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三都物語――(11) ブダペスト国立歌劇場

◇昼食抜き
 国立歌劇場の内部見学ツアーが4時からある。国立歌劇場では今夜は『コシ・ファン・トゥッテ』があるが,見るかどうかはなりゆきまかせということにして,見ることになっても一応対応できる服装にし,休む間もなくホテルを出た。
 ホテルのすぐ前に地下鉄3号線の駅があり,3日間チケットを買った。窓口のおばさんは「今日からのチケットか」となぜかドイツ語で訊いてきた。ブダペストの地下鉄3路線がすべて集まるデアーク・フェレンツ・テール駅で1号線に乗り換え,オペラ駅で降りると,国立歌劇場が目の前にそびえていた。色合いはくすんでいるが,手の込んだ華麗な装飾がほどこされている。とうとう昼食を買うひまもなかった。E0512_3BP_02

◇靴にカバー
 内部見学ツアーは英語・ドイツ語・イタリア語・フランス語があり,それぞれのガイドのところに集合する。最初に,靴にビニール袋のカバーをするよう求められた。英語のガイドは美人の学生だった。
 まず,平土間の客席に座った(他のガイドと重ならないように見学の順番が調整されているらしい)。ガイドが「みなさんはどこのオペラハウスに行ったことがありますか」ときき,アメリカ人が「Houston Grand Opera!」と陽気に答えた。うーん,カルチュラルお上りさんめ! 私が「Vienna」と言うと,それを受けて「この劇場の建設にあたっては,その少し前にできたウィーンやパリのオペラの影響を受けています」と「概論」の説明が始まった。
 馬蹄形の古典的なオペラハウス仕様で,プラハのスタヴォフスケー劇場よりは大きく,ウィーン国立歌劇場よりは小さい。舞台では,今夜の『コシ・ファン・トゥッテ』の舞台装置の組み立てをしている。バックステージも含めたステージの大きさは,ロンドンのロイヤル・オペラハウスの次に大きいという。
 続いて,2階正面の貴賓室とお付きの部屋,シシィ(皇妃エリザベート)愛用の部屋(下手,オーケストラピットの真横),優美な曲線を描く階段などを回った。天井や壁面の絵や装飾も美しく,さらにいろいろな曲の初演ポスター,リストやコダーイなどの胸像もあって,見所いっぱいだった。

◇後日談
 帰国後,1月にNHK BSでベルリン・フィルの2005年ヨーロッパ・コンサートの放映があり,なんとこのブダペストの国立歌劇場での公演だった。客席や天井画も映ったので,食い入るように見てしまった。しかし,あの小さなホール(客席は1300ほど)でベルリン・フィルの大音響を聞いたらもう音が充満してしまうのではないかと思った。

 それから,われわれの1週間ぐらい前にブダペストで歌劇場を見学し,