神保町
Jun 07, 2008
Jun 03, 2008
旭化成,東京堂書店――神保町の5月
神保町三井ビルでは,仮住まいしていた会計検査院が12月に退去したあとけっこう長い改装工事を経て,5月19日に旭化成グループの本社がオープンした。まだ入居していない部門もあるようだが,全体では1階から9階と14階の広大な面積を占め,近く勤務人口は2000人になるという。神保町随一の大企業の到来である。
東京堂書店が数日休業してリニューアルし,5月16日に開店した。基本的な構造は変わらないが,通路を広げて余裕を持たせている。
東京堂を話題にしようとして,久しぶりに思い出したことがある。
80年代後半か90年代前半ごろのこと,たぶん毎日,たぶん昼前からかなりの時間,東京堂書店の3階のすずらん通りに面した窓のそばにじっとたたずみ,カーテンに隠れるようにして下を見ている小柄な男がいた。ただ立ってじっとしているだけで,他人に特に迷惑になるようなこともない。
当時,社内の少なくとも数人と目撃談を交換した覚えがあり,おそらく半年とか1年というような期間続いたと思う。心理派ミステリーのネタになるかもしれない,などと思った。
May 17, 2008
厚揚げストーリー
豆腐はどういう料理でも好きだが,つまみとしていちばん愛用している豆腐家族のメンバーは厚揚げである。これは,私の母語では「生揚げ」であり,今もおでん屋では生揚げと呼ばれることが多いような気がするが,飲み屋での名称は圧倒的に「厚揚げ」である。
神田駿河台3丁目,三井住友海上の南側の地域には良い和食店がいろいろあるが,その一つのの「藍」で,先日昼に「本日の定食」を食べた。そのおかずに厚揚げが入っていたのだが,これがなんと注文を受けてから豆腐を揚げて作っていた。ざるの上に水切りした豆腐が並んでいて,定食の注文があるとその1丁を縦長の半分に切って,衣をつけて揚げるのである。揚げている時間は長いわけではないが,揚がってから薬味を添えたりするし,もちろん他のおかずを並行して用意するわけで,その手のかけ具合は申しわけなくなるほどだった。
飲み屋では厚揚げは網で焼くから「焼きもの」だが,池袋の大衆的な居酒屋Fでは厚揚げは「揚げもの」に分類されている。ただし,豆腐を揚げているわけではなく,既製品の厚揚げをさらに揚げているもので,これはこれでうまい。安いつまみなのに,ありがたい。
厚揚げの薬味は,ネギ,ショウガ,かつおぶしが定番だが,店によっては大葉やミョウガが加わる。同じく池袋のNでは,5月になって店長が交代したのをきっかけに,ありがたいことにメニューに厚揚げとポテトサラダが登場した。ここの厚揚げは薄い直角三角形のものを4片串に刺して網で焼き,ネギ,かつおぶしのほかにちょっと酸味を加えた味噌が添えられている。これもなかなか乙なものだ。
May 02, 2008
non-reversible Reverse――リヴァースが閉店
本拠地に「神保町昼食ニュース」の5月号を掲出した。
そこにも書いたが,「<ダイニングバー>リヴァース」(マクドナルドの脇から錦華通りに入って2本目を左へ上がった左側)が4月末で閉店してしまった。ホームページにも closed の札がかけられている。
昨年はリヴァースの昼食を5回食べた。5回というのは回数ランクで堂々の2位であり,気持ちとしては「愛用」の店だったのだが。サンドイッチと共に,紅茶がおいしいという点で希有の店だった。(→参照)
話は変わるが,少し前に昼食に入った某和食店で,たいした年ではない板前が新人店員を叱責していた。それが「何考えて仕事してるんや」「ぼやーとしてるんやないよ」などとねちねちしつこい叱り方で,断続的に5分以上続いた。そのときに一度注意してあとは客のいないときにしてほしい。食事は良かったが,不愉快になった。
店主が客の前で奥さんを叱りつけることでは,神保町地区の某和食系の古い店が,ごく一部では有名である。奥さんの方は柳に風と受け流しているのだが,愉快なことではない。店主は愛想よくすることはほとんどなく,安いランチサービスの品を頼んだりするとますます不機嫌になる。それならサービス品などやめればいいと思うのだが。
ずっと前,その店で葬式をやっていた。おお,やっとあのオヤジが,と思ったら,亡くなったのは引退していた先代だった。
変な比較になってしまって申しわけないが,そこへいくと,上記リヴァースの西山夫妻の手を携えての奮闘ぶりは快い。そして,閉店の日には感動のクライマックス――最後の日々の「ドタバタ奮戦記」を涙と笑いと共に読んだ。
西山さん,またどこかで活躍されますよね。
Jan 06, 2008
『神田村通信』
昨年最後に読み終えた本は鹿島茂『神田村通信』(清流出版)だった。雑誌・新聞に連載した短いエッセイを中心にまとめたもので,『東京人』などに載ったものは読んだことがあったが,大部分は目にしたことがないものだった。
鹿島先生のエッセイに接するときにはいつも同世代としての勝手な連帯感があるが,著者の書庫・仕事場のある神田神保町についての話には特に,「うん,そうだよな」「あ,そうだったのか」などと心中相づちをうちながら読んだ。今回初めて知って「うん,そうだよな」と思ったのは,神奈川県の京浜急行沿線からの遠距離通学・通勤の話題だった。
フランス文学をベースにした蘊蓄を傾けるときとは別の表情がうかがえた。
Dec 27, 2007
Dec 25, 2007
Dec 15, 2007
Dec 03, 2007
カキフライ始めました
東海林さだおが書いていたように,飲食店の「…始めました」という貼り紙は,都会で季節感を感じさせる重要な存在である。11月には,多くの店でカキフライ,鍋物などが始まった。
今シーズンの神保町の昼食では,まず「ムガールマハール」(五十通り;小川町3-7)のカキカレーを食べた。カキは,フライではなく,たぶん薄い衣をつけて炒めたものだと思う。インドにカキはなさそうな気がするが,なんでも入れてしまうのがカレーのおもしろいところ。
続いては「鷹ばん」(駿河台3-3)である日,かき味噌せいろというのがあったので飛びついた。せいろ飯にカキがのり,八丁味噌のたれがかけてあった。カキと味噌の組み合わせは土手鍋でおなじみだが,八丁味噌との組み合わせは新鮮だった。(以上2軒とも日替わりのメニューのひとつなので,毎日あるわけではない。)
「翠園」(錦町1-14)では以前はカキと野菜のうま煮風の炒め物が楽しみだったのだが,2006年以降,登場しなくなってしまった。
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「本拠地」の「神保町の昼食の章」に昼食ニュース12月号を掲載した。初訪問の店が9軒というのは新記録である。
Nov 01, 2007
神保町の「パンツ店」再び
神保町の三省堂書店のそばに,戦前に「小田パンツ店」という店があった,という話を前に書いた。このとき見た写真では,看板に書かれた品目3つのうち,真ん中の行が不鮮明で読めなかったが,このほど出た『にちぶんMOOK 決定版! 神保町』(日本文芸社)に載っている写真では,それが「背広」だと読める。
すなわち,小田パンツ店の看板品目は「パンツ/背広/制服」だった。「パンツ」は背広と並ぶ存在だったわけである。
この本,古本まつりに合わせて発売されたようで,神保町の昔と今の写真を対比したものと,古書店案内が中心だが,川本三郎の神保町の映画館についてのエッセイなど,読み物も多彩である。カレーの店の紹介もある。
Jul 11, 2007
May 03, 2007
Dec 16, 2006
蕎麦屋酒@更科
更科系統の本流の店・錦町更科で,2時から酒を出すようになったのは今年2月だった。その後,しだいにつまみのメニューが充実し,営業時間も伸びて8時までになっている。ただし,そばがなくなって早じまいすることもあるようだ。
お徳用は,1) ビール中びんまたは酒,2) 板わさまたはそば味噌,3) もりまたはかけ,からなる「セット」\1000である。当然,そばは最後で,その前に他のつまみを頼むことになる。ただし,セットのそばはきちんと量があるので,そのつもりでつまみを頼む必要がある。
卵焼き,焼きのりなどの定番,昼と同じ数種類の天ぷらのほか,季節のメニューがあって,12月のメニューには,鴨ぬき,鴨焼きがある。なす田楽,鳥となすの揚げびたしなど,11月登場のなす料理も健在である。
今のところ,非常に混み合っているという様子はないので,こうしてネット上に書いてしまったが,なにしろ小さな店だから,1人または2人で静かに飲むべき店である。(3人以上のときは,最近うどん屋からそば屋に変身した「ふくるる」はいかが?)
Oct 06, 2006
3年ぶりの牛丼
ある日,健康診断のため,前日の晩飯以降何も食べずに出勤した。健康診断がひととおり終わって,やはりふだんとは違う空腹感を覚え,11時ごろに早い昼飯に出かけた。
吉野家(小川町店)の前までくると,大きく「牛丼」の貼り紙があり,警備員が店の前にいて,次々とやってくる客を案内していた。5日連続の牛丼販売の最終日で,11時から牛丼を売り出したばかりだった。
吉野家の牛丼は昔からときどきは食べていたが,特別な思い入れはないから,米国産牛肉が入らなくなって牛丼が姿を消しても,別に禁断症状が起こるようなことはなかった。しかし,久しぶりに牛丼があるといわれるとなつかしくなって,今なら並ばずにすむし,ということで入ってみた。
牛丼のない間に開発された他のメニューもあるが,わざわざこの時間に来る人はみな一言「並」「大盛り」と牛丼を注文する。並が380円で,前よりは高い。そうだ,こういう味だったと思いながら,なつかしい味を楽しんだが,食べて終わってしまえば,またしばらく食べないでもどうということはない。
昼食の記録を見たら,前に吉野家の牛丼を食べたのは,2003年9月だった。
Aug 17, 2006
お盆新旧
ささやかな夏休みは早めにとったので,今週も通常通り出勤している(ブログの方は夏休み状態だが)。14~16日の3日間,電車は空いていて,神保町も人が少なかった。
神保町の昼食については,必要とする人はもちろんふだんよりずっと少ないが,提供する店はさらに少なく,開いている店ではあちこちで12時半過ぎまで行列ができていた。
夜の神保町も,それほど広く歩いたわけではないが,閑散としていた。この時期,魚河岸も青物市場休みだから,やっている店でもいろいろ不自由なこともあろう。飲み屋では,兵六,いちこうが,例年通り2週間休んでいる。
関東全部かどうかはわからないが,少なくとも東京周辺では,お盆はもともと7月15日とその前後である。私の故郷・横須賀では,昔7月15日にお盆の花火大会が行われていた。一時期,対岸の木更津といっしょに,「東京湾架橋促進花火大会」と銘打っていたこともあった。
今のように,旧暦のお盆が,ある意味では正月以上の帰省シーズンとなったのは,そう古いことではないような気がする。新盆には提灯を出すといった年中行事としてのお盆はすたれ,企業の夏休みがこの時期に定着した結果なのだろう。
Jul 31, 2006
纏寿司 ――神保町'70s (10)
靖国通りとさくら通りの間にある小路に,かつては小さな飲食店がいくつかあった。そのひとつが,纏(まとい)寿司である。今はさくら通りとの間には駐車場のあっけらかんとした空間が広がり,さくら通りから纏寿司のあったあたりが見えているが,ここには昔閉館した東洋キネマの由緒ある建物がだいぶ後まで残っていた。
纏寿司は,痩身のきっぷのいいおやじさんがやっていて,おかみさんのほかに美人の娘さんが店に出ていた。夜に入ったことは2,3回しかないが,おやじさんが仕事中酒を飲んで娘さんにたしなめられていた記憶がある。
昼飯は「ねぎま」「まぐろの刺身」「鰺のたたき」の3種で,私はこの店の昼食で,ねぎまという言葉を初めて知った。まぐろと鰺には小さいねぎまがついたが,大きいねぎまに替えて少し豪華版にする人も多かった。いずれもしじみ汁がつき,これはおかわりができた。ただし,最初にしじみがたっぷり入っているので,当然,おかわりはほとんど汁だけだった。まぐろはわさび醤油にあらかじめつけておくやり方だった。昼食としてはやや高めの値段だったが,娘さんの人気もあってか,いつも混んでいた。
その後,纏寿司は,日本教育会館の地下に店を出し,こちらもかなり繁盛していた。元の店と両方やっていた時期もあったような気がするが,あったとしても短い間で,元の店は80年代前半ぐらいに閉店した。おやじさんが倒れたという噂を聞いたこともある。教育会館の店は90年代まであった。
いま,かつての纏寿司に似たねぎまや刺身の昼食を出すのは,さくら通りより1本南の道にある「ひげ勘」である。纏寿司とのつながりは尋ねたことがない。
Jul 04, 2006
三十年一日 ――神保町'70s (9)
神保町には長い歴史を持つ飲食店が多いが,その多くは,改装や建て替えなどいろいろな変転を経ている。そんな中で,私が知っている70年代前半以降で見た場合,もっとも雰囲気が変わっていないのは,花家,スヰートポーズ,それにキッチン南海である。
「キッチン南海」は,一時はずいぶんたくさんの店があったが,前世紀の90年代ごろだいぶ少なくなり,今はこの近くではすずらん通り(神保町1-5)と小川町(2-12あたり)の店が「健在」である。すずらん通りの店は,今も昔も通り随一の「行列の店」で,1時過ぎまで行列が絶えることがない。焦げ茶色の外装も,縦書きで黄色く「キッチン」,緑で「南海」と書かれたドアも,内装も,手入れはしているようだが,昔のままである。
その斜め向かいの「スヰートポーズ」も「南海」に次ぐ行列の店である。4人掛けのテーブル(左奥のみ2人用)が並ぶ店内は昔より少し明るくなったような気がするが,黄色の看板も,ショーウインドウも,ほとんど変わっていない。メニューも(値段以外)すべて昔と同じで,四角い筒のような独特の形の餃子が小皿8個,中皿12個,大皿16個,定食には(中華スープでなく)ワカメの味噌汁と白菜の漬け物がつく。私は「チュウテイ(中皿定食),小ライス」を食べることが多い。
その裏の路地にある「花家」は,門を開け,玄関に入って靴を脱ぎ,2階の座敷へ上がる古典的な和食の店で,1階の玄関脇の別の扉を開けるとカウンター席があり,1人2人だったらこちらがいい。この店は,建物や内装はもちろん,驚くべきことに女将さんを含む3人の女性も,三十年一日である。
カウンター脇に,夜の客のボトルが置かれている。昔はウィスキーだけだったのが,今は大部分が焼酎のボトルになったのが,小さな変化である。
Jun 20, 2006
禮華楼と楽々 ――神保町'70s (8)
すずらん通りの中ほどには,北側に「禮華楼」,南側に「楽々」という中華の店があった。いずれも古い建物の1階だけの小さな店で,大柄のおばさんが一人で接客していたのも共通する。
禮華楼は,昔からの2軒の楽器屋の間で,いまは古本屋になっている場所にあった。のれんに(記憶が定かではないが)「ラーメン」と書いてあるだけで店名の看板がなく,常連でも店名を知らない人もいた。メニューはラーメン,タンメン,チャーハン,中華丼などのほか,カレーライスがあった。安くて量はかなりあったが,時には「ラーメンとカレー」といった注文をする若者もいた。カレーは,豚肉がちらほら,福神漬がついた日本的なカレーだった。おばさんは元気のいい肝っ玉母さんふう,客は圧倒的に男が多かった。
閉店したのは90年代の始めの方だっただろうか。その後,一時信州ラーメンの店になっていたこともある。
楽々は東京堂書店の右隣,いまは箱形のスペースを店舗として貸す店がある場所にあった。いかにも昔の中華料理屋という感じの赤い枠の外装で,ドアを開けるとコンクリートの床の上にテーブルが5,6個あった。こちらのおばさんはのんびりゆったりで,低めの声の独特のイントネーションで「ありがとざんした」と言った。
メニューに,普通の軟らかい焼きそばと別に「ソース焼きそば」があるのと,「サンマーメン」があるのが少し変わっていた。店・地域によっていろいろなサンマーメンがあるようだが,ここのはもやしうま煮の載った麺だった。ここも客は男が多かったが,禮華楼よりは女性も入っていた。
閉店したのは90年代前半だったか,禮華楼よりは後だったと思う。最後のころはずっといたおばさんは姿を消して,小柄な上品なおばさんが店に出ていた。
Jun 04, 2006
May 19, 2006
西方の輝き――後楽園球場
1978年4月4日夜のことである。国鉄お茶の水駅の付近を歩いていたら,西の方からドーン,ドーンという鈍い爆発音が数発連続して聞こえた。
何だろうと思って,お茶の水橋から西の方を見たところ,水道橋の付近がまばゆく輝いている。あれは後楽園球場だ。と思っていると,また先ほどと同じドーン,ドーンという音がした。
後楽園球場といえば――そうだ,今日はキャンディーズの解散コンサートだ。
ドームではなく「露天」のすり鉢の中で,音楽のリズムと,観客のどよめきと足を踏みならす音などがブレンドされ,ソニックブームのような音になって響いてきているのだった。
東京ドームが開場するのはちょうどその10年後である。
May 07, 2006
両国と神保町「リヴァース」
先述のビヤステーション両国の関連の情報を求めてネットを検索したら,2月26日で「契約満了のため」閉店したという。JRとの契約が10年間だったということらしい。旧駅舎の高い窓から日光がさす空間を生かすのにビヤホール以上のものは考えられないのだが。
それから,店内にあった地ビールの製造タンクはどうなったのだろう。
ネットの検索で,神保町の昼食との接点がひとつ見つかった。
靖国通りのマクドナルド神保町店の脇から錦華通りに入り,すぐ右に曲がって坂を少し行った左側にある「リヴァース」は,昼はサンドイッチのランチを供し,夜は(行ったことがないが)ダイニング・バーとなる店だが,その店主は,ビヤステーション両国の最初の支配人だった人だそうだ。
この店主のブログ「脱サラ!カフェオーナー・夢のつづき」は,日々のできごとを苦労も含めて明るく語っていて,楽しい店に育てていこうという姿が快い。
7日までの5連休で新メニューの準備をしたらしい。今週,久しぶりに行ってみよう。
PS リヴァースについては,「本拠地」の「神保町昼食ニュース」2004年1月号,および3月号で触れた。
May 04, 2006
Apr 28, 2006
ネットで注文,ブログが本に
3月14日の項に予定ということでちょっと書いたが,ブログの内容を手ごろな値段で印刷・製本して本にするサービス MyBooks がスタートした。
ネット経由で注文し,PDFファイルで仕上がりを確認してから製造するというやり方である。本の大きさ,縦か横か,文字の書体・大きさ,表紙のデザイン・色,序文・目次の有無,コメント・トラックバックを含めるか,など多様な選択肢がある。
料金は,基本料金+ページ単価で,1冊から注文できるが,冊数が増えればかなりの割引がある。
知人の依頼で,その開発のためのサンプルデータとしてこのブログの内容を提供したところ,いろいろな試作を経て,このほど,写真のB6判のおしゃれな本ができあがり,MyBooks サービス開始の発表の席で関係者に配布された。

タイトルは『Bloghissimo―神保町便り』とした。Bloghissimoというのは「とってもブログ」というような感じの造語である。内容は2004年3月14日の開始から2006年4月11日までのもので,まったく一過性の記事は除いたが,244ページの立派な本になった。
ネット上に浮かんでいる言葉がこうして手に取れる形になるのは,何ものにも代え難い喜びである。思いがけず「著書」が誕生して,昨夜は一人祝杯を上げた。
Apr 23, 2006
三省堂パーラー ――神保町'70s (7)
三省堂書店神田本店の西側,「兵六」のはす向かいあたりの位置の1階に,かつては「三省堂パーラー」があった。書店の当時の建物の一部なので天井が高く,荘厳とまではいかないが落ち着いた雰囲気の「洋食店」で,学生にはちょっと敷居が高い感じだった。
もはや断片的なシーンしか記憶にないが,白髪のボーイ長がいて,昼に集中する客を各テーブルに割り振っていた。メニューにはある程度高級なものもあったのかもしれないが,昼食に食べたのはカレーやスパゲッティナポリタンだった。ここで知った料理としてはドライカレーがある。
これは店のせいではないが,タバスコが指についていたのに気づかず,手で目をこすってひどい目にあったこともあった。
三省堂書店は,大震災後復興すると,文具,学生服,靴,帽子などの売り場や洋食堂を作り,「学生のデパート」を標榜していたという。その後かなり変化があったが,70年代になっても,洋服部,レコード店,それにこのパーラーは健在だった。
先述の『荷風!』の神保町特集の記事によると,旧本店は1937年の建築で,1980年まで使われた。この取り壊しと共にパーラーも消えた。
Apr 06, 2006
羅生門 ――神保町'70s (6)
神保町パークタワーの北側の商店街の中ほどあたりの位置に,とんかつ専門店の「羅生門」があった。「再開発」に伴って閉店した店のひとつである。
昼だけ営業の店で,入って右に調理場をL字型に囲むカウンター,左に小上がりがあった。メニューはロースライスとヒレライスのみ(ただし,もっと昔はその下にトンカツライスというのもあった)。みそ汁はなく,キャベツの漬け物がついていた。ヒレライスがオイルショック前には300円ぐらいで,新米社会人にとっては少し高めの昼食という感じだった(最後のころは1000円だった)。
カツは薄目でカラッとしていて,長年のファンも多かった。
先代のおやじさんのことは記憶になく,思い出すのは,坊さんにしたら似合いそうな柔和な顔立ちの2代目である。彼はほとんどしゃべらない。小上がりの客にはおふくろさんが運ぶが,カウンターの客には,盆にのせた料理を彼がだまってぬーっと出す。
閉店は1999年の6月で,「34年間お世話になりました」という貼り紙が出た。ということは1965年の開店ということになる。
羅生門のあと,「庄太郎」(駿河台下交差点から南すぐの左側半地下)もやがてなくなり,昨年「駿河」(自遊時間脇を上がった左側路地)がなくなり,とんかつの店は「いもや」「ニューポート」「まんてん」が残っている。
(このシリーズ,(5)からだいぶ間があいてしまったが,またぽつりぽつりと書いていきたい。)
Mar 29, 2006
Mar 01, 2006
神保町の「パンツ店」
前述の『荷風!』神保町特集号に,靖国通り沿いの商店街のいろいろな時期の写真があるが,その中の戦前のもの2枚に,「Oda's Pants」というしゃれたロゴを掲げた店が写っている。三省堂書店の向かって右隣,いまCDショップのある場所だと思う。
その店の店名は,真ん中が電柱に隠れていて見えないのだが,右横書きでどうも「小田パンツ店」と書いてあるらしい。店名の上に取扱品目とおぼしきものが3行縦に書いてあり,そこにも右の行に「パンツ」と書いてある。(他の2行のうち,左の行は「制服」のようだが,中の行は読めない。2字で,下の字は「匹」か「匠」のように見えるが。)
この店の「パンツ」はまさか下着ではあるまい。「パンツ」という言葉の用法の変化が話題になったのは80年代だったような記憶があるが,そのはるか昔から下着でない用法があったことになる。もちろん,モダンな名称として店名にしたのだろう。
Feb 28, 2006
『荷風!』神保町特集の飲食店
関心のある方はとっくに読んだことと思うが,『荷風!』の神保町特集号(→参照)に登場する飲食店をリストアップしておく。
まず,カレー店の記事には,ボンディ,共栄堂,エチオピア,ムガール・マハールの4店。それぞれ店主に取材している。錦華通りのMには取材拒否されたという。カレーと関係のないエチオピアがなぜ店の名になったかも語られている。
それから,レストランでも食堂でもなく「キッチン」という視点で,キッチン南海,キッチンジロー,キッチングランが挙がっている。ジローの会長の小林二郎氏へのインタビューがおもしろい。昔,創業の地・南神保町店(今の店より少し東にあった)でよく見かけた丸顔がなつかしい。
70年代前半だと思うが,そのジローに入ろうとして小銭がないのを思い出し,「1万円札でいいですか」と聞いたことがあった。当時,2品の盛り合わせは300円台だったと思う。二郎サン(名前は知らなかったが)に「どうぞ,どうぞ。いやあ,そういうこと聞いてくれるお客さん,ありがたいですよ」と言われて,かえって恐縮した。
それから,別格として独立の記事になっているのが,ランチョン,さぼうるの2店。さぼうるのマスターへのインタビューも内容豊富である。さぼうるの記事には,ラドリオ,ミロンガ・ヌオーバ,エリカを紹介するコラムもある。
居酒屋エッセイの名手,太田和彦の「神保町居酒屋探検」では,銘酒居酒屋さらさら,いちこう,菊水,兵六,浅野屋を訪ねる。ほかに,名前だけ出てくるのは,みますや,鶴八,八羽。このうち,さらさらというのは入ったことがなかった。
飲食店を紹介しているわけではないが,なぎら健壱の「神保町とアタシ」というエッセイも,神保町への入れ込み具合がおもしろく語られている。スタバ脇の路地のモノクロ写真が,今どき珍しく裏焼きになっているのがご愛嬌。フィルムから手作業で現像したのだろうか。
Feb 23, 2006
特報 その後
2/14に「錦町更科に酒が登場!」と書いたが,営業時間は変わっていないらしく,4時半に通りかかったら閉まっていた。したがって,飲むには午後休暇をとる必要があり,幸か不幸か入り浸る心配はない。定年後の楽しみとしよう。
Feb 14, 2006
特報: 錦町更科に酒が登場!
更科布屋直系の創業130年の老舗「錦町更科」の前を通りかかったら,外に貼り出した(というより立てかけた)季節ものメニューの端に,なんと「2時よりお酒をお飲みいただけます」として,ビールや酒,つまみのメニューが少し書いてある。神保町近辺の食事と酒に関して,ワタシ的には近年最大のニュースだ。
前に本拠地の「昼食ニュース」2004年2月号に「この店はご飯ものなし,酒なしという本当に「純粋なソバ屋」である(うどんはある)」と書いたが,その一角が突然変更になったわけだ。
ただし,入りびたってしまいそうで怖い。
Dec 19, 2005
Dec 13, 2005
廬山菜館と大雅楼 ――神保町'70s (5)
すずらん通りの西側の入り口近く,いま郵便局がある場所には,むかし「廬山菜館」という四川料理の店があった。黒っぽい建物で,1階と2階にテーブルがあり,2階の奥には座敷もあった。2階へ上がる階段がぎしぎし音を立てた。
昼の定食はいつも5種類あって,うち4種は日替わりだが,5番目は麻婆豆腐で固定されていた。今でこそ非常にポピュラーな麻婆豆腐だが,職場の先輩たちはみな,この店で麻婆豆腐というものを知ったという。他の4種のおかずは炒め物やうま煮が主で,4~5人のグループで行って違うものを注文して分け合って食べたりした。
この昼の定食の印象が強く,他に麺類などもあったと思うがほとんど記憶がない。
今ある店で,雰囲気が少し似ているのは,専修大交差点の南の「源興號」である(建物はもちろん新しいが)。
廬山は四川料理を神田に広めた店といえるのかもしれない。閉店したのは,80年代始めだったように思う。
現在,郵便局の向かいには「冷やし中華の元祖」ともいわれる「揚子江」がある。揚子江は,前は向かい側の廬山の左隣にあった。きちんとした位置関係は定かではないが,郵便局のあるビルの場所に廬山と揚子江が並んでいたのだと思う。さらにその前には,反対側の今の場所(またはその右隣だったかも)にあったような記憶がある。
揚子江は,昔からずっとやや高級な店という感じだったが,このところ少し路線変更して1000円以下の昼食を設定している。
すずらん通りの東寄りの方から南に少しはずれたところには,「大雅楼」があった。こちらは中国の南方系なのだろうか,夜はかなりちゃんとした料理を出す店だったが,ここも昼食の印象が強い。五目そば,五目やきそば,中華丼,天津丼など,いずれもボリュームがあり,味にもさりげない主張があった。天津丼・天津麺のあんに酢を使っていないのが少し珍しかった。夜は出前もやっていた。
大雅楼は,神保町1丁目南地区再開発の計画がまとまる少し前,90年代前半に姿を消した。
Nov 21, 2005
すずらん通りの立ち食いソバ屋 ――神保町'70s (4)
すずらん通りの中ほど,今は牛丼の「たつ屋」がある場所だったと思うが,昔は細長いカウンターの立ち食いソバ屋があった。看板があったという記憶はなく,したがって店名もわからない。比較的長身のおじさん一人でやっていた。
麺にはつなぎがたくさん入り,つゆには化学調味料がかなり使われているようだったが,当時の立ち食いそばではごく普通の水準だった。
この店がよかったのは,天ぷらの種類がいろいろあって,自由に選べることだった。普通の立ち食いと同じく,単に「天ぷらそば」といえばもちろんかき揚げが出てくるが,ほかに,ナス,ピーマン,タマネギ,レンコン,シュンギク,ゴボウ,ちくわ,エビ,イカなどがあった。
私は,当時も昼に立ち食いというのはしなかったが,夕方,演奏会やその他の用事で出かける前によくこの店に行った。顔なじみになると,「今揚げたては,ナスとちくわ」などと教えてくれた。
ふつうの(立ち食いでない)そば屋にも天ぷらのネタを自由に選べるシステムがあるといいのに,と思う。
立ち食いソバ界の雄・小諸そばチェーンは,当時,もっと東の方にはすでにあって,特に小川町交差点そばの店はかなり初期の店だと思うが,神保町付近にはまだなかった。このあたりでは,駿河台下交差点脇の店がいちばん古い。最近では,神保町2丁目の白山通り沿いにあって孤軍奮闘していた「二八そば」が小諸そばに化けた。
ただし,小諸そばは3,4年前に椅子が設置され,純粋の「立ち食い」ではなくなった。












