横須賀

Jun 24, 2011

雨の季節に

 元来男女による事情の違いはないはずだが,実際には男性はあまり使わず,女性はよく使うものに,レインコートがある。放射能のことがなくても,一滴の雨を蛇蝎のごとく忌み嫌い,梅雨時の蒸し暑いときでもレインコートを着る女性はけっこう多い。
 子供のころは,いかにもビニールという感じのレインコートを,男の子もよく着ていたような気がする。大人の男はどうだったのだろう。私は大人になってからは,山で降られてポンチョをかぶった以外,レインコートの類を着た覚えがない。
 先日,郷里の横須賀へ行ったら,自衛隊関係の学校の生徒が濃いグレーのお揃いのレインコートを着ていた。彼らは休日の外出時も制服であり,レインコートにも制服がある。レインコート姿の男の集団を久しぶりに見た。

 使用率の男女差がもっと大きいのは日傘である。ときどき,曇ってまったく太陽が見えないのに日傘をさしているおばさまも見かける。

 自宅で,屋外に置いてある自転車のカバーの荷台部分に雨水がたまるので,だいたいの雨量がわかる。22日に突然真夏日となるまでは,ここに毎日のように雨水がたまっていた。今年は梅雨入りも早かったし,梅雨の神様はかなり勤勉である。

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Apr 23, 2011

火主水従のころ

 小学校のころ,というのは50年以上前だが,日本の発電は「水主火従」であるが,近い将来「火主水従」になる見込みと教わった。当時はたしか,水力が7,火力が3ぐらいだったと思う。
 故郷・横須賀でも久里浜で火力発電所の建設が始まり,それが年々増えて,完成時には当時世界最大の発電所となった。千葉の金谷港から東京湾フェリーに乗ると,久里浜が近づくにつれ,火力発電所の威容がよくわかる。
 しかし,その後,「水」と「火」の間に「原子」が割って入って話が複雑になり,「主」だの「従」だのという言い方はしなくなった。今までよく知らなかったが,横須賀火力発電所は2010年4月までにすべて「長期計画停止」になったとのこと。
 それが,このたびの電力不足対策のひとつとして,一部の運転を再開するという。郷土の生んだ往年の名選手の現役復帰を歓迎したい。

 話は飛ぶが,私のひげ剃りは長年「電主手従」だった。「手」は Schickの手動カミソリで,あごの骨の付け根のあたりなど,どうしても電気カミソリでは剃れない部分があって,そこだけ Schickを使っていた。
 それが,今年の1月に電気カミソリを十数年ぶりで買い換えたところ,ほぼ問題なく電気ですべて剃れるようになった。Schickの肌触りへのなつかしさはあるが,実際上「電全手0」となった。

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Feb 11, 2011

川のない町

 小学校の国語や社会の教科書に,典型的な小都市の様子の絵が載っていた。駅があって駅前に商店街があり,役所や学校があり,寺や神社があり,川が流れていて田畑があり,少し離れて山と海がある,といった鳥瞰図である。
 故郷・横須賀には,こうした絵の中のアイテムがなかなかよく揃っていた。かつては近所に田畑があったし,学校は海のそばで,裏の岡にのぼれば三浦半島でいちばん高い(といっても標高248メートルだが)大楠山も見えた。
 そうした中で,唯一,自分の町で身近でなかったのは川である。横須賀でいちばんちゃんとした川は平作(ひらさく)川だが,上記の大楠山の水源から久里浜湾の河口まで長さは7キロほどしかなく,しかも私のところからは京浜急行で数駅離れていて地元という感覚ではなかった。そのほかの地域は高台が海に迫っているところが多く,川らしい川はなかった。

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Aug 10, 2010

神保町・横須賀・13周年――夏三題

 今週はかなりの店が夏休みである。
 神保町では,「兵六」が例年通り2週間プラス週末で計16日間休んでいるのをはじめ,いつも行列の讃岐うどんの「丸香」は8日間の休みに入っている。ただし,兵六の貼り紙が,前後の土日まで含めて「7日(土)から22日(日)まで」としているのに対し,丸香は定休日の日曜を別扱いにして「9日(月)から14日(土)まで」と表示している。

 郷里・横須賀で,親戚のお通夜・葬儀に出席した。お通夜は車,葬儀は電車で行ったが,所要時間はほとんど変わらなかった。
 会場は,火葬場内に作られた市営の斎場で,葬儀のあと霊柩車でなくストレッチャーに載せられて出棺し,「火葬棟」へ移動する。焼ける間に別室で食事という「合理的」な進行だった。
 祭壇に果物のかごが飾られているのは普通だと思うが,その隣に,果物の缶詰やインスタント・コーヒーやクリープのびんを盛ったかごがあるのがおもしろかった。夏でも傷まないという意味ではこれも合理的。コーヒーのお裾分けをもらって帰った。
 合理性のおかげで思ったより早く終了となったので,帰りは古典的な居酒屋「銀次」へ寄ることができた。4時に開店して間もなくだったが,カウンターは8割埋まっていた。テレビで高校野球をやっていたが,大騒ぎする客などいなくて,「ホッピーの聖地・横須賀」の重要な一角をなす店の静かな時間が過ぎた。(→参照;なお,銀次の夏休みは12日~18日だとのこと)

 今日8月10日は,本拠地ウェブページ開設記念日である。開設は前世紀の1997年だから13年になる。13年というと,生まれた子供が中学生になるだけの長い年月だが,この年の身にとってはほんとうにあっという間だった。
 (開設前後のことについては →参照

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Jun 18, 2010

ブローニー判・全手動でカメラ入門

 小学校4年の時,父親から譲り受けて,初めてカメラを手にした。最初に撮った写真は,横須賀の実家の裏の東京湾を見下ろす丘(その後整備されて中央公園となった)で,10歳ぐらい年上のいとこを写したものである。うろ覚えのゲルトというブランド名で検索してみたら,戦前から戦後にわたって作られていた国産カメラらしい。これを父は,戦死した兄から受け継いだと思われる。
 ブローニー判のフィルムを使い,セミ判(6×4.5cm)で撮影するカメラだった。フィルムはスプールに巻いてあり,端を引き出して反対側の空のスプールに差し込んで,空回りしないことを確認してから裏蓋を閉め,丸い赤い小窓に1という字が出るまで,(巻き上げレバーではなく)つまみを回す。1枚写した後は次の数字が出るまでまたつまみを回すのだが,巻くのを忘れて二重写しをしたこともあった。

 もちろん「全手動」で,距離と絞りとシャッター速度を自分で決める必要があった。決めるといっても,ASA100だと,晴れた屋外では絞り8,シャッター速度1/100が基準で,曇ってくると5.6の1/50にしてみるか,という程度のことだった。
 現像とプリントは,近所のお茶屋さんが「DPEの店」でもあったので,そこに頼んだ。たしか,中2日ぐらいかかり,できあがるのが待ち遠しかった。プリントは1枚10円した。当時の10円というのは,電車やバスに大人が乗れる料金で,かなり価値ある金だったから,フィルム代も考えるとそうたくさん撮れるものではなく,子供ながらも考え考え撮らざるをえなかった。

 そのころ買って熟読した本に,偕成社図説文庫の『カメラの世界』というのがあった。カメラの種類,写真の撮り方から現像・焼き付けの方法まで書いてあったので,現像はともかく,焼き付け(引き伸ばし)をやってみたいものだと思ったが,引き伸ばし機を買ってもらえる状況ではなく,実現しなかった。この本で,いつも使っているフィルムはブローニー判というサイズで,普通の小型カメラは35mmフィルムを使うということを知った。(その後二眼レフのカメラを使ったことがあり,そのときもフィルムはブローニー判だった。35mmのカメラはその後のオリンパス・ペンが最初だった。)
 偕成社図説文庫のこの本と『天体と宇宙』(野尻抱影著)は,字句を覚えてしまうほど読んだ思い出の書である。

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Jun 26, 2009

ミュージシャン その音楽と死

 26日朝のTVニュースが,「マイケル・ジャクソンさんが亡くなりました」とトップ記事扱いで報じた。
 それで思い出したのは,エルヴィス・プレスリーとジョン・レノンのことである。前にも書いたように,プレスリーの死(1977;42歳)はイギリスで知ったために印象深い。
 ただ,プレスリーの音楽はよく聞いていたわけではないから,さしたる感慨はなかったのに対し,ジョン・レノンのとき(1980;40歳)ははるかに強い衝撃を受けた。もちろん,殺害されたからということがあるが,ビートルズの音楽をリアルタイムで一応ずっと聞いてきていたからということが大きい。

 この3月,私の郷里・横須賀から近い三浦半島某所にある霊園に,知人の納骨のために行ったときのことである。その墓所の近くに,花が大量に飾られている墓があり,何かと思ったら X JAPAN の HIDE の墓だった。今も墓参の女性が絶えないらしい。
 山口百恵はデビュー直前まで横須賀に住んでいたが「出身」ではないのに対し,HIDE は横須賀生まれである。

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Sep 07, 2008

横須賀から北京へ その後

 前に横須賀の北京オリンピック出場選手応援の横断幕のことを書いた(→参照)が,その後行ってみたら,女子ソフトボールで金メダルの西山麗選手を祝福するものに変わっていた。Img_1604
 出身校が「田戸小・常葉中」と注記してある。共に,実家から近い。よしよし。


 夕方は,ホッピーの聖地・横須賀を形成する居酒屋のひとつ「銀次」(→参照)で乾杯した。

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Aug 25, 2008

横須賀から北京へ

 北京オリンピックは昨夜閉幕,閉会式ではプラシド・ドミンゴが登場した。

 少し前に日暮里駅を通りかかったら,JR駅の中に,地元の北島康介応援の横断幕が出ていた。これは北島が100メートル平泳ぎで金メダルを獲ってから見たものなのだが,「おめでとう」になってはいなかった。Img_1519


 夏の一日,郷里の横須賀に立ち寄ったところ,京浜急行の横須賀中央駅の前に写真のような横断幕が出ていた。おやこんなに,と驚くと同時に,横須賀とどういうご縁かはわからないが,ソフトボールと女子サッカーで活躍した選手の名もあったのがうれしかった。Img_1568

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Mar 02, 2008

植え込み通過作戦

 小学校のとき,校門と校舎の間に植え込みがあって,そこは入ってはいけないことになっていた。しかし,そこを通れば近道になる。
 そこでわれわれは一計を案じた。下校するとき,じゃんけんで負けた者が悪者になって,まず1人で植え込みに入っていき,残りが「こら,待て~」といいながら追いかけて,結局全員通ってしまうのである。
 何回かやっているうちに担任の先生に見つかった。ガキの浅知恵に先生は苦笑しつつ,「あしたからダメだぞ」と宣告した。

 ずっと後で知ったことだが,その小学校の校舎は,海軍機関学校の校舎が払い下げられたものだった。植え込みもたぶん海軍時代以来のものだろう。
 海軍機関学校といえば,かつて芥川龍之介や内田百閒が教官をしていたことがある学校だが,その建物はさすがに芥川のころより後のものだったのではないかと思う。

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Sep 23, 2007

シベリウスと横須賀市

 今年はシベリウスの没後50年の記念の年である。音楽の語法は保守的だし,有名な曲は20世紀初頭の曲が多いので,ずいぶん昔の人のような気がするが,長命だったのでまだ50年しかたっていない。

 今年の2月15日,わが故郷・横須賀市は市制100年を迎えた。1907年といえば日露戦争のすぐあとで,軍港の町としての重要性が高まった結果でもあるのだろう。神奈川県では,横浜に続き,2番目の市だった。
 実は,市制50周年のときに,記念のバッジをもらったという記憶がある。50という字を大きく扱ったデザインのバッジだった。――そんな記憶があるということに自ら苦笑しつつ,シベリウスは「まだ50年」かとあらためて思った。(作曲家の没年については →参照

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