鉄道・旅

May 05, 2012

桜満開の角館へ――ギャラリー

(承前)
 角館 桜ギャラリーです。

武家屋敷通りの桜
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公演で雅楽の公演
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圧巻 檜木内川の桜
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新潮社記念文学館
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桜満開の角館へ

 連休の谷間で他の家族にとっては平日である5月1日は,四半世紀ぐらい前から恒例の「一人旅の日」である。今年は,あまり早くは出発できない,日帰りする,という条件の中で,いくつかの候補地の中から,桜が満開というネット情報に惹かれて秋田県の角館(かくのだて)に出かけた。
 東京駅から「こまち」に乗車,盛岡で新青森行きと別れて先に発車する。秋田新幹線と言っても線路は在来線(田沢湖線)で,景色が近い。カーブも急なところがあり,けっこう揺れるし,単線なので行き違いの停車もある。大釜での交換(上りとの行き違い)は「右側通行」での交換だった。
 あちこちで桜が咲き,新緑と山の残雪が同時に見られるのが,東北の山間の5月1日である。雫石を出ると山登りで,速度が低下する。いくつかのトンネルのうち,やや長いトンネルで県境を越えると下り勾配になり,川には雪解け水が勢いよく流れている。ミズバショウらしき花も見えた。
 山間から町に出ると,田沢湖駅着。駅に,「秋田新幹線開通15周年」ののぼりが出ていた。また峠を越えて,その次のもっと大きい平野の中心が角館,東京駅から3時間20分で着いた。

 角館には前に一度,たしか12月に来たことがある。秋田内陸縦貫鉄道で角館に着き,雪が降ってきてボロ靴の中に浸水し始めたので,あわてて靴を買った覚えがある。それに引き換えこの日は,少し雲があるが,晴れて春たけなわの陽気になった。
 自転車を借りて,古い町並みの方へ。もう1時半過ぎなので,まずは昼食を探し,観光客向けではあるがまあ落ち着いた店で,きりたんぽ鍋定食を食べた。少々汗をかいた。
 桜はあちこちにあるが,しだれ桜の並木になっているのは武家屋敷通り。ポスターなどで見る写真はかなり濃いピンクであることが多いが,葉が出始めていることもあって,実際にはほとんど真っ白の花だった。その合間にも濃い色の八重桜があったり,大きなモクレンがあったりして,色も形も多彩である。
 地域の公園では,雅楽の公演が行われていた。黄色い衣装のオーケストラをバックならぬサイドにして,赤い華やかな衣装の人が舞っていた。演奏はなかなかよく整っていて,前に京都御所で見たときより少なくとも音程は良かった。
 圧巻は檜木内川(ひのきないがわ)沿いの桜だった。まさに見渡す限りで,その長さが2kmというのもすごいが,なんというか,桜の質が良く元気だ。一本一本の木が大きく,花は淡いピンクで密度がかなり高い。土手の上の道は桜のトンネルである。

 武家屋敷などは外側しか見なかったが,桜以外では,「新潮社記念文学館」を駆け足で見た。角館出身の新潮社の創業者が建てたもので,建物の外壁は『雪国』の表紙(もちろん新潮文庫版)になっていた。

 滞在3時間あまりで角館を後にした。まだ明るくて,東北にやってきたおだやかな春を,帰りも車窓から眺めることができた。
                         (写真は次の記事で)

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Jan 24, 2012

東京駅の復原工事

 先日東京駅の丸ノ内側を通りかかったら,旧駅舎復原工事がもう大詰めを迎えていて,南北のドームが囲いの上に頭を出していた。
 空襲で焼け,戦後すぐに2階まで修復してその上に屋根を乗せるという形で2階建てとしたものを,元の3階建てに戻す,というのが概要である。復原前後の図(→参照)を見比べてみると,ドーム以外の全体にわたり,5メートル高くなるから,全体のボリュームはかなり大きくなったという感じがするのだろう。
 ただし,いちばん目立つ南北のドーム部の高さは頂部まで35メートルで2メートル高くなるにすぎず,しかも大きな三角の屋根が小さい「帽子」になるので,ドーム部の迫力は小さくなる。P1095995

 中央部の屋根は元々三角型で,今回大きさが逆に小さくなる。そもそも戦後の修復は,元の中央の屋根の形にならって(ただし,ずっと大きくして)南北の屋根を作り,中央もこれに合わせて大きくするような形で行われたということなのだろう。考えてみると,戦後物資も機材も乏しい中で,まったく壊してしまわないでよく修復したものだと思う。(これは,同じく内部を作り直した歌舞伎座も同様である。)P1096001
 完成当時は周囲に高い建物はなく,東京駅駅舎はまさにあたりを睥睨してそびえ立っていたに違いない。1923年になって8階建ての丸ビルが完成し,駅前広場を挟んで向かい合う形になったが,空はまだまだ広かったはずだ。
 それが,JRのサイトに載っているパース図を見ると,東京駅は,高層ビルに取り囲まれて足元で小さくなっている。

 50年以上前,小学校の国語の教科書に「丸の内ビルジング」というのが写真入りで載っていた。当時すでにビルディングというのが(カタカナ語としての)普通の発音だったから,「ビルジング」という表記は奇妙な感じがした。戦前「ビルヂング」と書かれていたのを新かな風にしたものか。

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Dec 31, 2011

旅先で聞いた訃報

 1975年6月,初めて日本を出て,ロンドンで最初の夜を迎えた。簡素なホテルで,設備と言えばベッドに作り付けになっているラジオぐらいだった。そのラジオをつけ,BBC1というダイヤルに合わせたら,ニュースをやっている。そこで聞いたのが,日本の前の首相で,Nobel Prize 受賞者の Eisaku Sato が死去した,というニュースだった。
 ニュース自体にはさしたる感慨もなかったが,とりあえず内容がわかったことはうれしかった。

 10年以上前の1月だった,と思って調べてみたら1996年のこと,仕事で鹿児島に出かけた。一仕事終わって,夜は地元の関係者に連れられて飲みに行った。鹿児島で「飲む」といえば当然焼酎である。カウンターで,芋焼酎の濃いお湯割りが注がれた。
 関係者氏はやがてカウンター内のマスターや周囲の顔なじみの客と話を始めた。もちろん,地元の人同士はこてこての鹿児島弁で,ほとんど何もわからない。知らない音楽のように聞いていたが,どうやらだれか有名人が死んだという話をしているらしい,ということがだんだんわかってきた。テーマになっている人の名前は「旧情報」になってしまって出てこないが,元相方の「きよし」という名が出てきてやっとわかった。死んだのは横山やすしだった。
 今でも,たまに横山やすし・西川きよしの話題になると,鹿児島の居酒屋のカウンターを思い出す。
   (→参照

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Dec 25, 2011

暗闇の中を新青森へ――延長区間初乗り

 八戸―新青森が開通したのは2010年12月だった。それまでに,東北地方の鉄道にはすべて乗っていたので(→参照),「完乗」タイトルを維持するにはこれに乗りに行かなくてはならないのだが,翌年3月にスピードアップが行われることが予告されていたので,春になったら行こうかと思っていた。
 そのダイヤ改正は2011年3月5日に実施されたが,それから7日目に震災が起こり,東北新幹線は不通になった。4月末までに全線開通したものの,徐行運転が続いていたし,用もないのに乗るのははばかられた。5か月たってようやく震災前のダイヤに戻り,一応順調に走っているようなので,そろそろいいかなと思った次第。しかし,前回書いたように,一度行こうとしたが挫折した。

 11月,ひたちなか鉄道に乗ってから数日後,今度は午後に新青森を目指すことにした。昼過ぎの列車なら大丈夫だろうと高をくくっていたら,東京駅12:56発はなんと満席で,やむなく13:56発の「はやて」に乗る。東京はかなり厚い雲に覆われていたが,関東平野を出るころには晴れた。秋の日はつるべ落としでどんどん傾いて,北上あたりで夕日が沈んだ。16:22 たそがれの盛岡着。併結の「こまち」が切り離されて先に発車し,後を追うように 16:26 に出発した。Pb184890

 16:55 に八戸を出て,いよいよ新規開通区間に入る。もう日はとっぷり暮れたが,そもそもトンネルばかりの区間なので,ずっと暗闇の中を疾走する。17:07 ごろ,唯一の途中駅・七戸十和田を通過した。あたりには人家の明かりは見えない。
 ひたすら暗闇の中を走り,17:19 終着の新青森着。あっけない初乗りだった。駅の中の店で地魚で一杯飲み,1時間ほどの滞在で帰途についた。

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Dec 24, 2011

復旧したひたちなか海浜鉄道 晩秋

 11月の某土曜日,東北新幹線で最後に開通した八戸―新青森に乗るべく,9時前に家を出たが,JR駅で指定席を買おうとしたら,11時まで満席だった。いさぎよくあきらめ,多少迷いつつさすらったあと,茨城県の「ひたちなか海浜鉄道湊線」を目指すことにした。元の茨城交通という私鉄の時代に乗ったことがあるが,2008年に第3セクター化されてからは初めてである。この鉄道は,震災で被害を受け,全線復旧したのは7月23日だった。Pb124827
 始発駅は常磐線の勝田である。折り返して13:16発予定の列車がなかなか来なくて,到着したのは13:26ごろ。なんのアナウンスもなく,13:29ごろあわただしく発車した。2つドアの超ロングシートのディーゼルカー1両で,50人ぐらい座り,立つ人が10人ほどの盛況だった。
 周辺の田畑などは特に変わった様子はなく,どういう被害があったのかはわからないが,鉄道は路盤がかなり流出したとのことで,真新しい部分が多かった。セイタカアワダチソウがところどころに密集している。各駅の駅名の看板は,図形入りデザインの漢字で文字でできていた。Pb124828

 終点阿字ヶ浦で折り返し,最大の駅・那珂湊で降りる。10分ほど歩いて,おさかな市場そばで遅い昼食とした。店の入口に,床から120cmぐらいのところに「津波はここまで来た」という印がつけてあった。
 市場でハマグリとメカジキを買った。東京のスーパーの半額以下だった。その夜はハマグリの酒蒸し,翌日はメカジキのステーキにした。Pb134847_01


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Nov 03, 2011

名古屋泊と武豊線

 先日,名古屋に初めて泊まった。名古屋へは何度も行っているが,いつも地下鉄で目的地へ行ってまた戻り,夜東京へ帰るということばかりで,宿泊する必要が生じたことはなかった。今回も,名古屋に朝集合だったので,6時台の新幹線に乗れば間に合ったのだが,前の晩に行っておく方が楽で確実なので,泊まることにした次第。これで久しぶりに「経県値」(→参照)が上がった。
 しかし,泊まったのは駅前で,翌日は車で名古屋の中心部を避けるようにして目的地まで行ったので,名古屋城など市内の名所を知らない状態に変わりはない。

 用事はなんとか無事に済んで,その翌日の昼前に名古屋駅に戻って解散となった。旅先で時間ができると,まず鉄道の路線図を思い浮かべるのが乗り鉄の習性である。当初の漠然とした予定では静岡県の天竜浜名湖鉄道に乗ろうかと思っていたが,もう少し早く帰れるよう,もっと短くてまだ乗ったことがないJR武豊線に乗ることにした。
 武豊線は,東海道線の新快速で14分の大府(おおぶ)から分岐し,終点の武豊まで19.3km の地方交通線で,1886年建設という古い歴史を持つ。それというのも,東海道線建設のための資材を港から運ぶために建設されたからだという。
 大府では,隣のホームにすでに武豊線の列車が入っていた。2両のディーゼルカーで,座席はクロスシートである。20分ほどの接続時間で発車し,すぐに田園地帯となる。土地は広々しているが,2つめの緒川(おがわ)では駅のそばに巨大なイオンのモールが忽然と姿を現した。Pa294766a

 しばらくすると田園は遠のいて町になり,古そうな町並みの隙間に,有人駅の亀崎,半田があった。半田駅の手前の公園に蒸機が保存されているのが見えた。東成岩(ならわ)には引き込み線や長い側線があって,貨物列車の時代を思わせる。起伏のない線路を淡々と走って,約30分で,終点・武豊着。
 天気がよいせいもあって,何もないけれど明るい雰囲気の終着駅だった。海は近いはずだが,見えない。駅前に,「高橋煕君之像」という銅像があった。昔,台風の際にこの近くで殉職した駅員の像らしい。こんな立派な銅像が作られるというのは明治か大正の話かと思ったが,後で調べたら戦後の1953年のことだという。Pa294767a

 帰りは数分歩いて知多武豊駅から名鉄に乗った。こちらは複線電化で,クロスシート車の急行が名古屋まで直通していた。

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Oct 15, 2011

7か月後

 2か月に1度ぐらいの頻度で行く繁華街の飲み屋に行ったら,カウンターはそこそこ埋まっているものの,テーブル席はかなり閑散としていた。帰るまでに客の出入りはあったが,全体としては空席が目立つ状態が続いた。
 帰りがけに店主に,今日はちょっと寂しいね,と言ったら,「いやあ,ずーっと良くないね。これでも震災直後よりは戻ったんだけど,人通りがこの程度だから。まあ,明日は金曜だから今日よりはマシだと思うけど」という。確かに,通りは客引きの姿ばかりが目立つ。
 その日の昼,昼食に寄った別地域の和食店でも,主人が常連客に「震災このかた,みなさん,少しでも早く家の近くまで帰ろうっていうことらしくて,このへんでは飲まないんですね。」と言っていた。
 先日,京都でも,タクシーの運転手に「外人観光客はどうですか」と聞いたら,お盆前ぐらいから少し良くなったが去年の三分の一にもいかない,とのことだった。

 10月10日に,常磐線の不通区間のうち,いわきのすぐ北の久ノ浜~広野が開通した。ほんの2駅だが,ずっと進まなかった復旧が再開されたのは喜ばしい。次は,だいぶ北へ跳んで原ノ町~相馬の開通が見込まれるとのこと。
 さらに,その北の新地・坂元・山下の各駅は,元の場所でなく,線路ごと内陸へ移設することになったという。となると,まだかなりの時間がかかるが,道筋がついたというのは大きな前進である。
 9月23日から,東北新幹線のダイヤが震災前に復した。3月5日がダイヤ改正だったので,6日間だけ実施されたダイヤに戻ったということになる。12月に開通した八戸~新青森の区間を乗りにいかなければと思う。

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Sep 29, 2011

上海 四半世紀前

 1988年3月に中国(大陸)へ行った(→参照)。北京に着き,だんだん南へ行って最後は上海から帰国する旅だった。
 今週地下鉄が追突事故を起こした上海だが,当時は人口1200万の巨大都市に地下鉄はまったくなく,何百万人もの人がバスと自転車と徒歩で移動していた。蚊の大群のような感じで無数の自転車が広い通りを埋め尽くし,その間を車やバスがクラクションを鳴らしながらけっこうな速さで走っていくのは壮観だった。
 バスは,当時日本ではあまり行われていなかった「アイドリング・ストップ」をしていた。これでガソリンは少し節約できるだろうが,エンジンを起動するときの電池の消耗は激しいはずだよな,などと考えてしまった。

 それから四半世紀,上海は今や路線の長さ世界一の地下鉄都市だという。中国版新幹線もものすごい早さで建設されたが,それを上回る急成長である。空港との間には,高速のリニアモーターカー(磁気浮上式)もある。

 上海からの成田への飛行機は,前に書いたように(→参照),飛行時間の半分以上は日本の領空を飛んでいるのだった。同行メンバーの中に四国から来た人がいて,途中で「このへんで飛び降りると(家に)近いんだけどなあ」と言っていた。

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Aug 14, 2011

秋立つ――まもなく10月

 今年は6月中からやたら暑かったが,その後は比較的涼しくて,このまま竜頭蛇尾の夏かと思っていたら,立秋と共に暑さが戻ってきた。
 今年は「スーパークールビズ」が喧伝されていたが,これもなんだか尻すぼみになっている。考えてみると,いくら「スーパー」と言っても,ランニングになるわけではなくせいぜい「かりゆし」だから,半袖ワイシャツやポロシャツに比べて露出度が特に高いわけではない。ズボンを短くするなら別だが,上半身については「スーパー」の意味はあまりなさそうだ。
 その点,女性は,「ビズ」の内容にもよるが,タンクトップなど,いろいろな選択の余地がある。(→参照

 梅雨が早く明け,7月中旬は空気がよく澄んでいて,月が毎夜美しかった。8月になってからは夕方から雲が出ることが多くなり,にわか雨もよく降る。今夜は満月だが,先月のように見えるかどうか。
 暦の上の季節は早くやってくるが,立秋はひときわ早く「まだまだこれから暑い」という時期にやってくる。しかし,毎月早くやってくるのは雑誌の上の季節で,8月には9月号が出る。
 こういう習慣になったのは,明治時代の雑誌社同士の競争の結果らしいが,私の知る限り,「月号」との比較でもっとも早く出るのは鉄道雑誌である。『鉄道ジャーナル』『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』などの鉄道雑誌の発売日は前々月の21日,すなわち(今年は21日が日曜なので)1週間後の8月22日には9月号でなく10月号が出るのである。毎年11月21日過ぎには,次年のカレンダーが付録に付いた新年号が出て,今年も残りが少ないことを告げてくれる。

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