May 22, 2008
6月14日の地下鉄副都心線開通まで,20日あまりになった。山手通り(環6)地下の高速道路・中央環状線が昨年末に開通したのに続き,明治通り(環5)地下の副都心線が開通すれば,山手線の東西の道路で長年続いていた工事がようやく終わることになる(ただし,中央環状線の新宿以南はまだ工事中)。
この線は,「東京13号線」として計画されていたもので,今後地下鉄の新線建設の具体的な予定はなく,当面「最後の地下鉄」となる。昨年開業日が決まって以来,東京メトロでは何種類もポスターを作って宣伝に努めている。
小竹向原―池袋間は有楽町線と2階建て構造になっている。有楽町線といっしょに建設されたので,駅や線路は1983年にできていたが,地下2階は「(有楽町)新線」として後から開通した。途中の要町・千川駅にもホームは造られていたが電車は通過で,車内から見ると,暗い中に丸い柱が立ち並び,宮殿の廃墟のようで不気味だった。
それが,先日通ってみたら,照明はまだ明るくないものの,内装がほぼ完成しているのが見えた。有楽町線の要町・千川駅では,副都心線ホームへ降りる階段・エスカレーターの工事のための覆いが,昨年から通行のじゃまをしていたが,連休明けにこの覆いが外された。小竹向原駅では,ホームに副都心線の路線図もすでに掲げられている。
地下鉄の他の駅でも,副都心線が書き込まれた新しい路線図があちこちですでに掲出され,「6月開通予定」という注意書きのステッカーをはがせばよいようになっている。準備は着々と進んでいる。
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May 05, 2008
(承前)
JR王寺駅は関西本線(大和路線)と和歌山線が合流する要衝で,構内は広大である。近鉄とJRは競合関係にあるが,おもしろいことにホームに近鉄の広告があった。
大和路線の快速は6両編成,かなり混雑していた。ノンストップ12分で久宝寺着。3月15日に開通したばかりのおおさか東線のホームへ行く。しかし,時間になっても前の電車が居座って動かない。やがてアナウンスがあって「飛来してきた布団が電車に接触,現在運転を見合わせております」という。「布団が飛来する」という発想はなかったから最初「飛来」ということばが聞き取れず,何度か繰り返されてやっとわかった。
結局5分の遅れで発車した。旧山手線の緑色の電車で,おおさか東線区間のみを学研都市線の放出(はなてん)まで走る。おおさか東線は貨物線の線路をかなりの部分流用したもので,全部で9.2キロ,途中駅は5つ。このあと新大阪まで建設される予定になっている。
出発してまもなく高架となり,以後ずっと高架を行く。5つの途中駅のうち,3つに駅名に「JR」がつく。近鉄の駅が先にあったためだろう。連続する3駅の真ん中のJR俊徳道では,ひらがなの表示「じぇいあーる」が3つ並んでいた。
高架で見晴らしはいいが,要するに都会の景色でなんということはない。ただ,電車の窓が横長のワイドスクリーン形なのはちょっと新鮮だった。終点の放出はJR東西線の行き先のひとつとなって駅名を読めるようになった。14分でその放出着,4月3つめの新線初乗りとなった。
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May 04, 2008
4月某日,関西に出かけたときに,空いている時間を利用して近鉄・田原本線とJR・おおさか東線に乗りにでかけた。
田原本(たわらもと)線は,近鉄の長大な路線の中でまったく孤立している短い線である。初めは別のところへ行くつもりだったが,所澤秀樹『鉄道地図は謎だらけ』(光文社新書)を読んでいるうちに,起点の西田原本は橿原線田原本駅から少し離れ,終点の新王寺は生駒線・JR関西本線の王寺駅から少し離れているというちょっとすねたようなこの線に乗ってみようと思い立った。
京都から近鉄に乗車,そのまま大和西大寺から橿原線に入る。大和西大寺駅では路線図上は京都線・橿原線と奈良線が十字交差しているが,実際の線路はカッコを背中合わせにくっつけたような状態だった。56分かかって田原本に着。到着直前に,田原本線への連絡線が右に分かれていくのが見えた。
出口は田原本線とは反対側だった。Uターンするように踏切を渡って150メートルほど先に西田原本駅があった(位置関係は右の写真参照)。両駅の間は駅前広場整備の工事中だった。
西田原本駅の自動改札で,迷わずスルッと関西(ICカード)を入れたら,通れない。駅員さんに言ったら,なんと田原本線では使えないのだという。「どこまでですか」と聞かれ,新王寺までと答えると,京都からの通算の切符を手動で発行してくれた。
田原本線は,全線で 10.1キロの単線,途中駅は6つ,ワンマン運転の3両編成の通常の近鉄の車両が走る。路地裏のようなところも通るし,田園地帯という感じのところもある。大まかにいえば平らだが,川を渡るところなどで細かいアップダウンはけっこうある。箸尾と大輪田で交換があった。
大輪田駅を出ると築堤に上り,左へ大きくカーブしながらJR関西本線と和歌山線を乗り越える。「この電車は次まででございます」という関西的なアナウンスが入り,終点の新王寺に到着した。重ねて「この駅まででございます」。
頭端式のホームからまっすぐ改札を出ると,左は大規模なJRの王寺駅である。その駅前広場を横切っていった先に,近鉄・生駒線の王寺駅がある。JRが近鉄の両駅を左右に従えているかっこうだ。
今回は生駒線には乗らず,その隣の改札からJR駅に入った。
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Apr 19, 2008
3月30日に日暮里・舎人ライナーと横浜市営地下鉄グリーンラインが開通した。しかし,開通当日は東京を離れていて行かれず,数日後に初乗りに出かけた。
日暮里・舎人ライナーの起点は日暮里駅。JRの駅の改札付近も天井の高いホールに変身していた。舎人ライナーの駅は東口,JR改札階からさらに上がったところにある。駅前の桜を見下ろすことができた。
鉄のレールではなくいわゆる新交通システムで,コンクリートの壁に誘導されて走る。両端を含めて13駅,9.7キロ,所要時間は20分。中黒(・)を含む線名は珍しい。
日暮里を出ると左へ直角に曲がり,尾久橋通りに入る。以後,ひたすらこの通りの上を走る。最初の駅は西日暮里だが,JRの駅とは150メートルぐらい離れているようで,その間に千代田線の駅が直行している。以後,熊野前で都電と連絡する以外,他の鉄道との乗換駅はなく,行き止まり路線である。熊野前の次の足立小台(おだい)を出ると荒川を渡る。高架なのでまことに眺めがいい。
路線の半分を過ぎた西新井大師西で,東側を走っている東武伊勢崎線がもっとも近づく。地図で見ると,その支線の大師前駅(これは非常に大規模な無人駅!)とは1キロほどである。都内はどこまで行っても住宅が密集しているが,それでもだんだん「平地」が広がるようになり,菜の花のじゅうたんのある舎人公園を経て,終点の見沼代親水公園は埼玉県に入る直前,東武の谷塚駅から西へ3キロほどのところである。
駅周辺を少しぶらぶらして,折り返す電車に乗る。5両編成の無人運転で,クロスシートとロングシートが細かく組み合わされている。試し乗車の人も多く,すれちがう電車には立っている人もたくさん乗っていた。
長い間工事が続いていた日暮里駅前は,再開発ビルのひとつが完成したようだが,まだいろいろな工事が行われている。駅では開通記念の「日暮里マップ」が配られていて,「北島(康介)のメンチカツ」の場所もイラストで示されていた。
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Apr 02, 2008
Mar 30, 2008
3月14日限りで東海道本線を走る寝台急行「銀河」が廃止になった。昨年(2007年)1月,大阪発の新幹線「のぞみ」の最終に乗り遅れて,予定外の上り「銀河」乗車となったのだが,これが「銀河」への最後の乗車になった(→参照)。「銀河」の下りには2回乗ったことがあったが,上りに乗ったのはこれが最初で最後となった。
高校生のころ,年上の従兄弟に連れられて,初めて関西へ出かけた。このときは客車急行の夜行に乗った。ボックス席を従兄弟と2人で使って,一応横になることができた。当時,東海道新幹線はすでに開通していたが,在来線にも優等列車が多数走っていたし,夜行もあって,特に若者は在来線に乗る方が普通だった。
その2年後の東北への修学旅行も,夜,上野駅に集合し,夜行の座席車で出かけた。朝の平泉の陽光がまぶしかった。
その後,東海道ではさすがに新幹線が普通になったが,他の線区では,遠くへ出かけるときは,少なくとも片道は夜行に乗ることが多かった。
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Feb 11, 2008
Jan 27, 2008
広島で用事が済んだ翌日,山口県東部の山の中を走る錦川鉄道に乗りに出かけた。錦川鉄道はJR岩徳線の岩国から出発するが,途中の御庄(みしょう)駅が新幹線の新岩国のすぐ近くなので,まず新岩国へ向かった。

広島からの「こだま」は,半ば回送なのだろうか,なんと16両編成の豪華こだまだった。18分で新岩国着。車内のアナウンスでは,錦川鉄道は無視されていて乗り換え案内はなかったが,降りるとちゃんと案内板があった。乗り換えは時刻表では「徒歩7分」となっているが,新幹線の高架脇を歩いて3,4分で御庄駅着。道路からは階段を上がるとホームの中央に出るようになっていて,さすがに元国鉄らしくホームはけっこう長い。しかし,減便の弁明の張り紙がさびしい。
8:46発の下りに乗る。「せせらぎ号」という1両のワンマン車で,開業20周年のヘッドマークをつけていた。乗ってきた乗客は1人,そこに私ともう1人加わった。
次の駅は「しゅうちかさがみ」と書いてある。「しゅうち」というのは衆知でも羞恥でもないだろうし何だろうと思ったら「守内」という重箱読みだった。この後も,南河内(みなみごうち),行波(ゆかば),南桑(なぐわ),柳瀬(やなぜ)など,一癖ある読み方の駅名が多い。

右手にずっと錦川が並行する。途中で日がさしてきて,川が緑色に輝いている。線路は川にほぼ忠実に沿っていて,短い古いトンネルがけっこう多い。途中の北河内(きたごうち)で上り「じゃくち号」と交換があった。
9:35 終点の錦町着。乗客は多少の出入りがあったが,最後は4人だった。

この線は,元は国鉄の岩日(がんにち)線で,岩国から日本海岸の日原を目指していた。錦町から先もかなりの部分は路盤ができていたらしい。
錦町駅は有人駅だった。駅構内には乗ってきたせせらぎ号以外に車両が3両止まっていた。改札を出ると,狭いスペースいっぱいに地元の産品を並べた店になっていた。
同じせせらぎ号で折り返して 9:47 発。乗客は最初が9人で,平均年齢はたぶん六十を超えていたが,やがて中学・高校生も少し乗ってきた。
家々の瓦がつややかである。色は黒が多いが,オレンジ色がかった茶色や青もあり,山間の冬でも雰囲気は明るい。北河内でまた「じゃくち号」と交換する。
最初に乗った御庄を過ぎ,次の川西で錦川鉄道の区間は終わってJR岩徳線に入る。岩徳線の沿線の町はさすがに大きい。乗客は次第に増えて,最後は25人ぐらいになり,山陽本線と合流する岩国駅には 10:52 に着いた。
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Jan 16, 2008
ケータイのなかったころ,事情に詳しくない者同士が大きな駅で待ち合わせをするのはけっこう難しかった。たとえば渋谷駅。古くからの待ち合わせスポットは忠犬ハチ公の像のところであるが,夜はハチ公の周りに待ち合わせの人だけでたぶん200人ぐらいの人が密集していた。
あるとき友人と,やむを得ずハチ公前で待ち合わせをすることになった。電話で,混んでるけど大丈夫かなあ,と言ったら,友人は「ハチ公のしっぽにつかまってるから」という。
自分がしっぽにつかまるのはちょっと恥ずかしいなと思いながら行ってみたら,まずハチ公に近づくのが容易でなかったが,そこを分け入っていくと,しっぽ,もしくはその近くにつかまっている人だけで7,8人いた。
ハチ公は当時は駅の方を向いていなかった。80年代後半だったと思うが,向きを変え,主人の出てくる駅入り口を見つめるようになった。
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Sep 24, 2007
電車の写真を見るだけでも楽しそう,という軽い気持で『大手私鉄比較探見 東日本編』(JTBパブリッシング)という本を読み始めたところ,工学・電気などの技術にかかわる専門用語が最初から頻出し,目で字面を追っているだけという状態になった。鉄道は好きだが,鉄道に乗るのが好きということで,車両形式や鉄道技術には強い興味はない。
それでも,著者の個人的な好みや感覚,鉄道車両に寄せる思いも書かれていて,そういう部分はなかなかおもしろいなと思いつつ読み進めたところ,「当時まだ少女だった私だが」という言葉が目に飛びこんできて,通勤電車の中で思わず「えーっ」と(小声で)言ってしまった。
著者は広岡友紀氏,まったくの先入観で男だと思っていたのだが,カバーにあるローマ字表記をよく見ると「ゆき」さんなのだった。
まことに喜ばしいことに,近ごろ女性の鉄道ファンが増えていて,「鉄子」などという言い方もできている。しかし,これだけハードに技術的な面は,これまではまったくの男性社会だった。風穴を空けたゆきさんをまぶしく仰ぎつつ,最後の方を読んでいる。
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Jul 26, 2007
6月の某日,広島県で用事ができたのを幸い,呉線に乗りに行った。呉線は,山陽本線の海田市(かいたいち)と三原の間を,山陽本線より海寄りのルートで走る。乗ったのは広島始発の電車で,4つめが分岐駅の海田市である。途中までは通勤客や高校生で混んでいたが,やがてすいてきた。といっても過疎地モードではなく,少なくとも呉までは座席はほぼ埋まっていた。
トンネルをいくつかくぐると海が見え,グレーの艦船がいる。このあたりの感じは,私の故郷の同じ軍港の町・横須賀とよく似ている。ただし,JRの横須賀駅が海には近いが市街地から離れているのに対し,呉駅は海にも市街地にも近い。横須賀と呉は,ともに鎮守府が置かれ,海軍工廠があったが,工廠の規模は呉の方がはるかに大きかった。巨大戦艦「大和」が建造されたのも呉で,いま呉には「大和ミュージアム」がある。
呉から先もトンネルと海の風景は続き,車両基地のある広(ひろ)を過ぎるとかなりローカル線風になる。広の次は仁方(にがた)で,かつては予讃線の堀江(愛媛県)との間に仁堀連絡線が通っていたということで(鉄道ファンにだけ)知られている。

呉から1時間と少しかかって,竹原着。ここで下車し,タクシーで安芸の小京都・竹原の古い町並みの保存地区へ向かう。観光客はいたが,商家や造り酒屋が並ぶ町並みは,午後の陽光の下で静かだった。

洋風建築の元図書館が歴史民俗資料館になっていて,かつて繁栄をもたらした製塩や酒造,竹原ゆかりの有名人・池田勇人,頼山陽一族,竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)などについての展示があった。古い木の床がぎしぎし鳴った。
名物の瓦そば――ゆでた日本蕎麦と具(豚肉,錦糸卵など)を瓦の上で焼いたもの――で昼食の後,その店でタクシーを呼んでもらって駅へ戻る。

再び呉線に乗る。2つめの安芸長浜を過ぎると線路がぐっと海に近づく。特に次の忠海(ただのうみ)からは,海岸ぎりぎりに岬を回るので,刻々方角が変わり,景色も変化に富む。海に近い鉄道はいろいろあるが,海岸線への「忠実度」は,この20km が屈指の存在である。

最後は真北を向いて進み,山陽本線にぶつかって東へ曲がって,終着三原となる。広島から93km,正味2時間40分の旅だった。
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Apr 21, 2007
3月末に鹿島鉄道(茨城県)とくりはら田園鉄道(宮城県)が廃止になった。
鹿島鉄道は,1992年夏に家族連れで乗りに行き,そのときの報告を拙著『<鉄道紀行文集> 車窓伴影』に収録した(本拠地「鉄道の章」の『車窓伴影』参照)。くりはら田園鉄道には1998年に乗った(同じく「鉄道紀行文断章」の「東北横縦紀行」参照)。こうして記録が残っているとよく思い出すことができるが,もう15年または9年も前のことになってしまった。
私は鉄道に「乗りに行く」ようになったのはだいぶ年をくってからなのだが,それでも私が乗った後に廃線になった線はかなりの数にのぼる。廃線年表を見ながらリストアップしてみた。
廃止年 線名・区間 乗った年
(*印は複数回乗っているうちの最後に乗った年)
1991 下津井電鉄 1990ごろ
1994 野上電鉄 1993
1995 深名線 1994
1997 南部縦貫鉄道 1997
1997 信越本線 横川―軽井沢 1997*
1999 新潟交通 東関屋―月潟 1998
1999 蒲原鉄道 五泉―村松 1994
2001 下北交通 1997
2001 のと鉄道 穴水―輪島 2001
2001 名古屋鉄道谷汲線 1999
2002 長野電鉄 信州中野―木島 2001
2003 有田鉄道 1999
2003 可部線 可部―三段峡 2000
2005 日立電鉄 2001*
2005 のと鉄道 穴水―蛸島 2001
2006 北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線 2001
2006 神岡鉄道 2002
2007 鹿島鉄道 2004*
2007 くりはら田園鉄道 1998
このうち,南部縦貫鉄道,のと鉄道輪島線は廃止が決まってからあわてて乗りに行ったものだが,その他は乗車の時点では廃止が決まってはいなかった。しかし,それぞれすでに廃止の動きはあって,実際に乗ってみてこれでは存続は難しそうだなと思った線が大部分だった。そういう線ほど,訪れる部外者にとっては思い出深い。
その点,信越本線横軽間の廃止は新幹線開通に伴う政策的なもので,いろいろな意味で事情が違う。「本線」の廃止というのは鉄道史上初めてのはずだ。私も他の廃止線と違って昔から何度も乗っていて,お名残り乗車に行ったのが上記の1997年だった。
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Mar 19, 2007
首都圏では昨日から Pasmo の使用が始まった。JR東日本の Suica と相互利用が可能になったので,さっそく昨日の昼前,私鉄の改札でモバイル Suica の携帯をセンサーにかざしたら,ちゃんと入れた。今まではパスネットを取り出して,機械に通さなければならなかったので,なんだか不思議な気分である。昨日は試さなかったが,バスにも使えるのはまことに便利だ。
クレジットカードからオートチャージ(一定の残高以下になると改札口を通過するときに一定の額を自動的にチャージする)もできるし,記名式なら子供用のカードもある。これで,運賃支払いについては,ひとつの理想型が実現した。
こうなると「目障り」なのが,東京の市内交通が東京メトロと都営地下鉄に分かれていることである。両者を乗り継ぐと高いし(割引はあるが),何よりもわかりにくい。これにはいろいろな歴史的事情があるのだが,経営統合が無理なら,(できればバスも含めて)運賃体系の統合をしてほしい。
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Jan 30, 2007
先日,大阪に行き,最終の「のぞみ」でその日のうちに帰ることにしていた。ところが,大阪駅の券売機に行ってみたところ,もう東京までの指定券は発売していない時間になっていた。
「のぞみ」の登場によって,新大阪発東京行きの「ひかり」の最終が30分近く遅くなった。そのころは「まだのぞみがある」などと言ってぎりぎりまで大阪にいたりして,最終の時間をよく覚えていたのだが,このところ京都から乗ることが多かったので,京都発の時間と勘違いしてしまっていたのである。
翌日の用事は午前中なので,始発の新幹線では間に合わない。それで,数秒考えたすえ,寝台急行「銀河」に乗ることにした。下りの「銀河」には2回乗ったことがあるが,上りは初めてである。
発車は22:22,東京には朝6:42に着く。地下街の端の方の明石焼の店で少し飲んで時間調整をし,発車15分前にホームへ行った。当然,今日最後の長距離列車だった。ホームは,電車区間のまだ混雑しているホームとは少し離れていて,うら寂しい雰囲気だった。
発車7分前ぐらいになってようやく,客車2段式の6両編成の列車が入線してきた。車両はややくたびれているが,一応の風格がある。
発車してすぐにシーツを敷き,浴衣に着替えて寝酒の態勢になった。
私の席は下段で,ボックスの4席のうち,向かい側は京都で客が乗ったが,上段2つは空いたままだった。廊下を少し歩いて見たところでは,ベッドの稼働率は50%弱ということろだった。
4時過ぎにトイレに起きたとき,となりのボックスの若い男が廊下の窓の下にある折りたたみ式の椅子に座って外を見ていた。確証はないが,鉄道ファンなのだろうと思った。
6:18 横浜着。まだ暗い。今日午前中の用事はこちらの方面なのだが。横浜到着前のアナウンスの乗換案内で,最初が京浜急行だったので一瞬「あれ?」と思ったが,これは1番線から順に言っているためだろうと推察した。
6:35 定刻に品川に着き,下車。予定外の夜行列車の旅を終えた。
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Aug 22, 2006
テレビをふと見たら,家城(いえき)というなつかしい駅名が出てきたので何だろうと思ったら,8月20日の午前0時過ぎ,名松線の家城駅から無人の列車が勾配のある線路を下り始め,8.5キロ以上走って上り坂になるところで止まったというニュースだった。
三重県を走る名松線は,かつて関西へ行った帰りにわざわざ乗りに行って,初めて写真付きの報告を本拠地の「鉄道の章」に書いたことがある。名松線は,松阪から名張を目指したが途中で行き止まりになった地味な線で,家城駅には腕木式の信号機があることで,一部のファンには知られている。
走り出したのは家城駅に留置してあった車両で,沿線の人によると,夜中に踏切の警報機が鳴ったので何かと思って外に出てみたら,無灯火の車両が走っていくところだったという。
都会の明るい夜と違って本当に暗い中を列車が走っていくのは,『さまよえるオランダ人』の幽霊船のようで,不気味な風景だったことだろう。
こういうのも「事故」ということになるのだろうが,警報機がけなげに働いてきちんと鳴り,何も被害・損害がなかったのは幸いだった。いたずらっ子が,たまには自由に走ってみたいと思ったのかもしれない。
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Apr 22, 2006
北海道ちほく高原鉄道「ふるさと銀河線」が20日限りで100年近い歴史に幕を閉じた。前身は池田と北見を結ぶ旧池北線で,140kmの長大路線の廃止という例のない事態となった。
私が乗りに行ったのはちょうど5年前で,このときは最北の稚内から襟裳岬に近い様似まで,S字形のルートで旅をした。連休の北海道は早春の風情だった。[参照:「北海道大S字紀行――宗谷・ちほく・日高」(本拠地 「鉄道の章」の「『車窓伴影』後の断章」にあり)]
私が乗ったことのある線が廃線になったのは,北海道では深名線に続いて2つめになる。深名線はまあ純粋にローカル線だったが,このたびのふるさと銀河線は,最初は札幌と道東をを結ぶ「本線」として開通した歴史を持つ。
遠くまで鉄道に乗りに行くようになったのがだいぶ年をくってからだったのでやむを得ないことだが,北海道には,私が乗らないうちに廃線になった鉄道がたくさんある。今回,北海道の中央部に大きな空白が広がった。
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Apr 19, 2006
通勤定期の表示では,この5年間,年をとらなかった。申込書には,その都度,正しい年齢を書いていたのだが,係のおばさんはいつも前の定期を見て入力していたらしい。
ところが今春は,久しぶりに正しい年齢が入力され,玉手箱を開けたわけではないが一気に5年年をとった。
駅の改札が自動化されてからずいぶんたって忘れかけていたが,磁気化される前の定期は,有効期限や駅名がゴム印で押されていた。女性の定期には,名前の下に赤鉛筆で線が引いてあった。
私は学生のときの一時期,3線にわたる定期を持っていた。ちゃんと1枚で発行されたが,2度乗り換えて行く下車駅の名のゴム印の用意がなく,駅名は片方手書きだった。
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Mar 11, 2006
昨年2月と同様,某平日の午後,休日出勤の代休をとって個人的な文化の日とすることにした。
まず出かけたのは,今年5月14日限りで閉館になる交通博物館(東京・神田須田町)。閉館に伴うイベントとして開催されている「旧万世橋駅遺構特別公開」に出かけた。平日は1回20分で17回,土日祝日は1回15分で26回開催されていて,この日の13:10の回を予約しておいたものである。
明治末から大正にかけて,万世橋駅は中央線の終点で,繁華街にそびえる赤レンガの大ターミナルだったが,やがて中央停車場(東京駅)ができて万世橋はターミナルでなくなり,関東大震災で焼失した。簡素な2代目駅舎のあと,1936年に3代目の駅舎ができたが,そのときにそれまでの万世橋駅の基礎を利用して駅に併設されたのが交通博物館の前身の鉄道博物館だった。万世橋駅の廃止は戦時中の1943年である。
20分のツアーの割には,30分前からものものしく予約のチェック,集合,点呼,注意事項の説明などがあった。定刻となり,ぞろぞろと展示室を横切り,脇の廊下の途中のドアをくぐると,石組みのアーチが見える部屋になっていた。ここで6分間の解説ビデオを立ち見してから,ホームへ通じる古い階段を登る。階段のへりが欠けているのは,戦時中に金属を供出したためだという。
登った先は,ホームの上に顔を出したガラスの小部屋になっていて,春の日差しがまぶしい。中央線の上下線の間にあるあの古いホームである。すぐ脇を中央線のレンガ色の電車が地響きをたてて通過していくのを,二度と見られない位置から写真に撮って,あっけなく終了となった。
交通博物館に初めて入ったのは,小学校3年の夏で,その夏休みの最大のイベントだった。宿題の絵日記の中で,この日の項は,模型鉄道パノラマの絵など4ページの「特大号」だった。
新しい「鉄道博物館」が大宮に開館するのは,2007年の鉄道記念日の予定である。
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Feb 22, 2006
これまで時間の順で概要を記したが,以下,「テーマ別」の補遺を少し書く。
◇3路線
3都市とも,地下鉄を軸に,トラム(路面電車)とバスが絡み合う形で市内交通を担っている。
プラハとブダペストの地下鉄は共に3本の路線があり,規模も同じくらいである。ブダペストでは3本の路線がデアーク・フェレンツ・テールという1つの駅で交わっているのに対し,プラハでは中心部で3本の路線が小さな三角形をなしていて,2路線の交わる駅が3つある。

◇エスカレーターの速度
最初に乗ったプラハでは,1日券はタバコ屋で買うようになっていた。タバコ屋とはいっても,飲み物だの新聞だのちょっとしたお菓子もあって,ミニコンビニだった。
改札口に日付を入れる機械があるので,そこに切符を通して入場する(これは3都市共通)。最初に乗った駅で,エスカレーターが速いのに驚いた。感覚としては日本の地下鉄駅の1.6倍ぐらいのスピードだ。エスカレーターで歩く場合は左を歩き,止まっている人は右に立つヨーロッパ(および大阪!)式だったが,これだけ速いと,歩く人はさすがに少数派のようだ。
ホームは広く,トンネルの幅が広い。大阪の御堂筋線の天井を低くしたような感じである。路線ごとにラインカラーがあって,乗り換えも迷うことはない。しかし,(4)で書いたように,外へ出たときにそこがどこなのかがわからなくて困った。地図つきの出入り口案内図がほしいところだ。
ウィーンでも1日(24時間)券,ブダペストでは3日券を,駅の窓口で買った。いずれも,トラムやバスにも乗れる。
どこも,普通は切符をチェックしない。ブダペストで1回だけ,ホームへ入ったところで検札があった。
◇銀座線
ブダペストの地下鉄1号線は,メインストリートのアンドラーシュ大通りの下を走っている。これはなんと,ロンドンに次いで世界で2番目に古い地下鉄だという。駅は,古風だが,きちんと手入れされていた。古いから浅いところを走っていて,駅間は短く,ラインカラーはオレンジがかった黄色,駅はタイル張りで,あらゆる点で東京の銀座線(これは「東洋初」の地下鉄というのが開業時の宣伝文句)と似ている。
3線の乗換駅デアーク・フェレンツ・テールは,銀座線との対比では銀座駅のような存在で,乗り換えはけっこう遠い。
各線の車内に『ハウルの動く城』のポスターがあった。駅のエスカレーターでは,着物の女性の写真があるなと思ったら,アラーキー(荒木経維)の写真展のポスターだった。

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Feb 05, 2006
◇トランクは廊下
『ローエングリン』の翌朝,荷造りをしてから朝食をとり,タクシーでウィーン西駅へ行く。行き先のブダペストは南東方向だが,列車は西駅から出発する。12:30にブダペストに着くからと思って昼食を買わなかったのが,後で災いを招くことになる。
10:03 発予定の列車IC345ベオグラード行きは,遅れて10:10ごろ入線してきた。プラハからの列車もそうだったが,「何号車」というような単純な表示はなく,トランクを押しながら右往左往してやっと指定の席を見つけた。6人のコンパートメントに6人乗ったのでトランクは入らず,廊下に置いて手すりとハンカチで結びつけた。
◇風車の丘
しかし,車両トラブルがあったとのことで,なかなか発車せず,動き出したのは10:55ごろだった。ウィーンを出ると大部分は平原で,雪はほとんどない。途中初めて青空も少しのぞいた。風景でちょっと目立っていたのは発電用の風車。30~40基(と数えるのだろうか)密集している丘もあった。
出国・入国手続きがあり,またEUマークのスタンプが押された。途中少し遅れを取り返したが,ブダペスト直前でまた遅れた。腹が減って,隣の夫婦がパンに野菜をはさんで食べているのがうらやましい。12:28着の予定だったのが,1時間以上遅れて13:40にブダペスト東駅に着いた。
◇good taxi
頭端式のプラットホームを歩いていくと,タクシーの運転手が客引きにやってくる。ハンガリーのタクシーはあまり安心して乗れないという情報もあったが,トランクをかかえて乗らないわけにもいかず,一生懸命 good taxi だと主張する運転手の案内でまず駅構内で両替してから,空腹をかかえたままタクシーに乗った。地図と見比べてみたが,妙な回り道をすることもなく,ホテルに到着,メーター通りの額を請求されたので一安心し,チップを加えて支払った。
ホテルはプラハ,ウィーンのホテルより大きく,部屋が9階だったので景色もよかった。日本語のパンフレットも置いてあり,「ハンガリーでいちばん有名な日本人は指揮者の小林研一郎さんです」という一口知識が書いてあった。
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Nov 09, 2005
朝,地下鉄に乗ろうとしてぎっしりいっぱいで,次の電車にしようかと迷ったりすると,決まって思い出すのが寺田寅彦の「電車の混雑について」である。
この随筆では,東京の市電(路面電車)の乗客の行動を観察した結果として,「人は混んだ電車に乗りたがる」「混んだ電車の次にはすいた電車が来る」…といった「法則」が語られる。
寺田が観察をしたのがどこの停留所だったのかは長年意識したことがなかったが,少し前にふと思い立ってあらためて原文を見たら,これが神保町の停留所だった。時は1922(大正11)年6月18日,作者44歳のときである。白山通りを行く市電だから,その子孫が地下鉄三田線ということになる。
市電の場合は,電車の間隔が詰まってじゅずつなぎになったりすることもあるのに対して,現在の鉄道は混雑のためにダイヤが大きく乱れることはないし,乗り入れなどによる始発駅の違いが混雑のバラツキの原因になっていることも多く,事情の違いは大きいが,混んだ電車に乗りたがる心理などは変わっていない。
いま,寺田の随筆はネット上の「青空文庫」で容易に見ることができる。
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Aug 28, 2005
駅でも路線図でも,駅名は駅番号と共に表示してある。秋葉原が01,つくばが20である。英語のアナウンスのときだけ駅番号をいうのは東京メトロと同様である。
次は流山おおたかの森。交差する東武野田線にも駅ができて,今日開業である。追い越し可能駅で,先行の各駅停車に接続し,先に発車した。この後,広々とした緑の田んぼを見下ろしながら2駅を過ぎ,利根川を渡って茨城県に入り,守谷には9:50に着いた。守谷は関東鉄道との接続駅である。前に関東鉄道に乗ったとき,守谷駅付近は大工事中で,灰色の工事用シートの隙間から電車が出入りしていた。どんな具合になったのか,次のときには下車してみようと思う。

各駅停車は大部分がこの守谷止まりで,その先は区間快速が各駅に止まる。守谷でさらに多数の乗車があり,まったく外が見えない状態になった。守谷を出て少しすると直流から交流に切り替わるポイントがあるそうだが,何もわからないまま通過した。みらい平のあたりは堀割で,前に常磐自動車道から見たことがある。最後にまた地下に入り,10:07 終点のつくばに到着した。
つくば駅も大混雑で,切符売り場の混乱を避けるため,とりあえず乗る乗車券(着駅で精算するのだろう)を駅員が配っていた。記念パスネットは売り切れだったが,つくば駅の駅名入りパスネットを買った。
少し外を歩いてから駅に戻り,こんどは最速の快速に乗ろうと思ったがかなり混んでいたのでやめ,また区間快速に乗る。といっても,守谷までの各駅停車区間だけ乗って,守谷で秋葉原行きの各駅停車に乗り換え,全線各駅停車に乗ってみた。つくばから秋葉原まで,乗り継ぎの3分を含めて61分だった。

降りると,秋葉原の混雑はさらに増していて,駅構内への入場制限をしていた。その脇をすり抜けて,新しくできた東西自由通路を通って西側に出ると,そこはいつもの秋葉原だった。
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8月24日(水)は,つくばエクスプレス(TX)の開業日――首都圏で58kmもの大路線が開業することなど,少なくとも私の生きているうちにはないだろうと思い,開業当日に乗ってみることにした。

秋葉原でJRのホームからエスカレーターで降りていくと,山手線の東側,総武線の真下に中央改札口というのができ,様子が一変している。出て左右につくばエクスプレスの入り口があり,路線図入りグッズや無料地域雑誌などが配られている。左に出て見上げれば,総武線ホームはガラス張りの空中回廊と化していて,その脇のビルにはヨドバシカメラ開店予告が出ている。
階段を降りていくと,広い吹き抜けの向こうに反対側から降りてくるエスカレーターが並び,その脇に大行列ができている。何かと思ったら,開業記念パスネットを買う人の行列だった。その先,切符売り場もかなりの混雑だったが,パスネットを持っていたのですぐ入れた。
ホームは地下4階,9:15発の区間快速に乗ってみる。車両は6両で,中央の2両がセミクロスシートになっている。ワンマンのはずだが,「開業日からご乗車いただき…」というアナウンスがあった。しかしその後,録音による案内では,当然ではあるが「今日も筑波エクスプレスをご利用いただき…」と言っていた。
南千住を出ると地上からさらに高架に上がり,北千住のホームは4階にあるらしい。北千住を出ると常磐線と並んで荒川を渡る。台風の影響か,かなり曇が厚いが,水面は明るい。その後,また地下に潜り,地下駅の青井・六町を一瞬のうちに通過し,再び地上に出ると八潮で,ここから埼玉県である。八潮は追い越し可能で,時刻表を見るとこの後の区間快速はここで追い越しをする電車もある。外環道をくぐると三郷中央,次いで千葉県に入ってカーブしながら地下へ降り,地下駅の南流山へ着く。この間,途中駅でもかなりの乗車があり,だいぶ混んできた。夏休みの家族連れが多い。 [つづく]
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Aug 14, 2005
続いて,ささやかな夏休みのうちの1日(平日),第2回の巡礼に出かけた。今回は日曜休みの店を目指し,前回と同じく,昼を少し過ぎて横須賀中央に着いた。
まず駅から近い「中央酒場」へ。10時からやっている。ここはホッピーの三冷のうち二冷は同時で,焼酎はジョッキについだ状態で専用の冷蔵庫に入っていた。
カウンターとテーブル席があり,姉妹のような感じのおばさん2人がカウンターの中にいて,1人が揚げ物・炒め物など火を使う仕事をしていた。そのうち亭主らしい人や若い従業員も現れて,計6人ほどが働いている。店内は明るく,つまみには地元の魚もいろいろある。久里浜のタコぶつ,イワシのぬた,豆腐ステーキ(ここでは単に「ステーキ」というと豆腐)をつまみ(兼昼食)に,ホッピーの白・黒各1杯飲んだ。前回の2軒と比べると純粋な居酒屋で,魚に力を入れているようだ。(下の写真は,夕方,帰りがけに写したもの)

もう1軒の開店待ちと酔い覚ましを兼ねて,京急で数駅離れた町へ行ってみた。二十数年ぶりのセンチメンタル・ジャーニーである。町の基本構造は変わっていないが,目立つのはコンビニとケータイの店で,古くからの地元の商店はひっそりとしている。
バスで横須賀中央に戻り,こんどは「太田屋」(4時半開店)に入ってみた。小さいが活気のある店で,ここもホッピーはもちろん三冷。おねえさん2人で注文を要領よくこなしていく。
ここは,辛子を塗る独特の湯豆腐を考案した店だというので,その湯豆腐を半丁食べてみた。なぜ湯豆腐に辛子なのかと思ったが,まあおでんの仲間だと思えばよい。おでんと同様,あらかじめ煮てあった豆腐を温めて出す。ほかにカツオぶつ,なす焼き,ちくわ磯辺揚げと,ホッピー2杯。

時間が早めだったせいもあって,みな1,2杯でさっと引き上げていく。平日の日常的な暮らしが淡々と続いていた。
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Aug 13, 2005
7月15日の本欄で書いたように,わが故郷・横須賀は,ごく限られた文献によると,ホッピーの聖地だという。それを見て以来にわかに望郷の念がつのり,夏の某日曜日と某平日の2回,帰省兼聖地巡礼に出かけた。
まず,某日曜日,湘南新宿ラインと京浜急行で,午後,横須賀中央に降り立った。
その限られた文献『散歩の達人』7月号には10軒の店が出ているが,日曜日の昼間からやっている店は少ないので,選択肢はあまりなく,まず「もーり」へ行ってみた。K劇場という奇跡的に残っているピンク映画館の並びである。ここは月曜以外朝9時からやっている。
カウンターが奥に向かって伸びて,その奥の厨房でおやじさんが1人で料理を作っている。食堂としても普通に機能していて,昼食の客がかなりいた。生ビールをグラス1杯飲んで景気をつけて(?)から,いよいよホッピーを注文したところ,冷蔵庫から取り出したジョッキに,冷やしてポットに入っている焼酎を注ぎ,同じく冷やしたホッピーのびんと共に出てきた。なるほど,三冷(グラス・焼酎・ホッピーを冷やす)である。氷を使わないと,ホッピーのほのかな甘みが感じられて,違う味がある。昼食代わりのおかずと共に2杯飲んだ。
街を歩いて,この店は昔からあるな,この店は同級生の家だったな,などと市内視察をしてから,もう1軒,文献に載っていた「忠孝」に行ってみた。しかし,開店のはずの時間になっても開く様子がない。もう少し時間をつぶすかと思って別の方面へ歩いていくと,同じ「忠孝」の別の店がやっているのを見つけ,入ってみた。
カウンターは,床に座って,掘りごたつ式に溝に足をおろすようになっていた。さっそくホッピーを注文。ここも三冷で出てきた