昔の旅

Jan 23, 2010

15分が2時間,40分が1日――捕物帖の歩き方

 7,8年前には池波正太郎の「三大シリーズ」を読み,今は平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズを読んでいるが,江戸を舞台にしたこうした捕物帖を読んでいると,移動手段が徒歩しかない時代の距離感がなんとなくわかってくる。(乗り物としては駕籠があるが,これも速度としては徒歩と大きく違うわけではない。)
 地下鉄の1駅間は1km弱ぐらいだから徒歩なら10分,これぐらいだと現代人でも普通に歩くくらいで,捕物帖ではほんのご近所である。日本橋から大門だと駅4つで徒歩40分,このぐらいが「ひとっ走り」という感じになる。
 日本橋から東海道の最初の宿場・品川までは9kmあまりで徒歩2時間,昔は東海道の旅に出る人を品川まで見送りに行くのが普通だったという。山手線の速度と比較すると,山手線で15分が徒歩2時間と「換算」できる。
 横浜までだと約30kmだから徒歩6時間,もはや日帰りは不可能である。日本橋を出て最初に泊まるのは保土ヶ谷か戸塚ということが多かったというから,東海道線や中央線快速の速さで40~50分かかる所までが徒歩で1日の行程となる。例えば,「御宿かわせみ」の中の「成田詣での旅」では,成田まで街道沿いで70kmほどを,最初舟で行徳へ行き,途中船橋で泊まるという設定になっている。

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Jul 22, 2009

ストラスブール 1975

 1975年6月に初めてヨーロッパへ出かけたときは,ユーレイルパスを持って行ってヨーロッパ内はすべて鉄道で移動した。イギリスでは使えないから,ドーヴァー海峡を渡ったカレーからの列車で日付を入れてもらって使い始めた。
 パリで2泊したあと,留学中の友人のいるストラスブール目指して,パリ東駅から TEE に乗った。TGV が走るずっと前なので,3列座席の1等車のみの TEEが花形列車だった。
 がらがらなのに,中年の品のよいおばさんとすぐ前後の席だった。車掌が食事の予約をとりにきて,そのおばさんは予約し,間もなく案内に従って食堂車に出かけていった。「あーよく食べた」というようなこと(たぶん)を言いながら戻ってきたのは2時間後で,行程の3分の2は食堂車に行っていたことになる。

 ストラスブールは,川沿いにハーフティンバーの家が並ぶ美しい町だった。名だたる美食の町でもあるとのことで,友人に連れられて行ったレストランは料理も雰囲気も良かったし,ビールもワインも安くておいしかった。(これが忘れられず,帰国の際,パリの空港でアルザスのワインを買って税金を払って持ち帰った。)メニューが大きな紙のナプキンに印刷してあるのがしゃれていたので,ボーイさんに頼んで帰りに1枚もらった。
 プロシャ・ドイツ領になったりフランス領になったりした歴史を持つこの地では,料理も酒もドイツとフランスの「いいとこ取り」なのかもしれない。地元の言葉はドイツ語の方言である。現在EUの議会が置かれているのは,この町にふさわしい。
 夕食の後,オペラハウスの前まで行ってみたところ,ちょうど終演になったところだった。ストラスブールのオペラは,当時アラン・ロンバールががんばって水準が高くなっていて,ライン川の向こうのドイツからも観客が多く来ていた。広場に各方面に向かうバスが並んでいる。そのうちのひとつの行き先表示は「Allemagne」,つまり「ドイツ」となっていた。ライン川を渡ったところで「国内線」に乗り換えるのかもしれないが,なんとも大ざっぱな表示なのがおもしろかった。

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Mar 24, 2009

南回りの記憶

 1977年夏,仕事で行ったヨーロッパからの帰りは,南回りの飛行機だった。行きは北回り(アンカレッジ経由)だったが,夏のハイシーズンの団体だからか,帰りは南回りで,ローマを出て,羽田(成田でなく!)まで,トランジット4回,23時間半の旅だった。
 南回りなので,ということで,事前にコレラか何かの予防注射を受ける必要があった。(当時は「イエローカード」といえば,この予防注射済みの証明書のことだった。)
 トランジットの場所は,カラチ,バンコック,香港は覚えているが,最初はテヘランだったか,バグダッドだったか。このうち,飛行機の外へ出ることができたのは,最後の香港だけだった。機内にはテレビのスクリーンもまだなかったように思う。食事は確か5回出た。羽田に着陸したときには拍手が起こった。

 90年代には,ヨーロッパ行きの大部分の飛行機がロシア上空を飛ぶようになり,南回りはもちろん,アンカレッジ経由も昔話になってしまった。

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Aug 08, 2008

甲子園の決勝――夏の思い出

 子供のころ,歩いて数分のところに伯母の家があり,その家の8歳ぐらい年上の従兄がかなりの高校野球フリークだった。うちにはテレビがなかったので,しょっちゅうその家に高校野球の中継を見に行った。当時の神奈川代表は法政二高が常連で,1957年から5年連続で甲子園に出場した。60年には,柴田勲(後にジャイアンツの外野手)が投げて全国優勝したのもテレビで見た。

 夏が来れば思い出す――高校の時のある夏休み,その従兄に連れられて,夜行の客車急行に乗り(→参照),高校野球の決勝戦を見に甲子園に行った。熱海(かろうじて静岡県)より西に行くのは初めてだった。朝,大阪に着いて,そのまま甲子園へ行き,試合開始の何時間か前に入場した。
 決勝は三池工業(福岡)と銚子商業(千葉)の対戦だった。従兄はスコアブックを広げて記録をつけながらの観戦だった。炎天下の5万人の地鳴りのようなどよめきの中で,試合は投手戦となり,ずっと0-0が続いたが,8回に三池が2点を挙げ,そのまま三池が勝った。銚子の投手は後にロッテで活躍する木樽で,その名は深く刻み込まれた。
 このときは知らなかったが,三池の監督は,やがて東海大相模の監督となる原貢,すなわちジャイアンツの現監督・原辰徳の父だった。「福岡県出身」の原辰徳は,当時小学生になったばかりだったはずである。

 この対戦は,民謡対決でもあった。三池工業の応援団は一貫して炭坑節を演奏し,対する銚子商業は大漁節を演奏し続けた。銚子の応援席では,大漁旗が振られていた。

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Mar 30, 2008

夜行の時代

 3月14日限りで東海道本線を走る寝台急行「銀河」が廃止になった。昨年(2007年)1月,大阪発の新幹線「のぞみ」の最終に乗り遅れて,予定外の上り「銀河」乗車となったのだが,これが「銀河」への最後の乗車になった(→参照)。「銀河」の下りには2回乗ったことがあったが,上りに乗ったのはこれが最初で最後となった。

 高校生のころ,年上の従兄弟に連れられて,初めて関西へ出かけた。このときは客車急行の夜行に乗った。ボックス席を従兄弟と2人で使って,一応横になることができた。当時,東海道新幹線はすでに開通していたが,在来線にも優等列車が多数走っていたし,夜行もあって,特に若者は在来線に乗る方が普通だった。
 その2年後の東北への修学旅行も,夜,上野駅に集合し,夜行の座席車で出かけた。朝の平泉の陽光がまぶしかった。
 その後,東海道ではさすがに新幹線が普通になったが,他の線区では,遠くへ出かけるときは,少なくとも片道は夜行に乗ることが多かった。

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Jul 14, 2007

Tempi too urgent――ロンドンで 1975

(ひとつ前の続き)
 ロンドンに着いた翌日,大英博物館やテイトギャラリーを見て,夕方一度ホテルに戻った。

 町でもらった観光案内の新聞によると,夜8時から,ロイヤル・フェスティバルホールでニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏会があるという。地図を見ると,フェスティバルホールは市の中心部を横切っていった先にある。東京で山手線の反対側へは30分かかるという感覚で考えて行くのに4,50分かかると推定し,1時間半前にホテルを出た。しかし実際は,地下鉄で15分ほどであっけなく着いてしまった。後でパリの町も意外と小さいことを知り,東京のばかでかさをあらためて感じた。

 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏会は若きムーティ指揮で,ショパンのピアノ協奏曲のたぶん第2番(独奏はペライア)とブルックナーの6番というプログラムだった。ショパンはピアノの音がちょっと汚いのが困りものだったが,よく歌っていた。ブルックナーはすっきりさわやかな軽量級。
 フェスティバルホールはロビーがガラス張りで,テムズ河を見下ろすことができる。休憩の時,ちょうど日没が近くなっていて,夕日がテムズを赤く染めていた。横浜の神奈川県民ホールで海が夕日に染まるのを見ると,このときのフェスティバルホールを思い出す。

 翌朝の新聞に演奏会評が載っていて,見出しは「Tempi too urgent」 そうか,tempo の複数形は tempi なのかと思いつつも,なんだか「天火が過熱した」といっているような感じがしてしまった。

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Jul 09, 2007

ミルク・ドレッシング――ロンドンへ 1975

 初めて海外へでかけたのは1975年6月だった。安い航空券を個人でもなんとか買えるようになったころで,友人の知り合いの多少怪しげなブローカーのような人からアエロフロート(ソ連航空)でヨーロッパ往復22万円のチケットを買った。当時の月給の2か月分近い額だが,これでも格安チケットだった。
 成田空港ができる前で,羽田から出発した。飛行機に乗るのも初めてで,窓から佐渡が見えたときは「あ,地図と同じ形だ」と感激した。
 食事では,なぜかやたら固かったけれど一応キャビアが出てきた。ロシア語で表示のある小さな容器に入った白い液体がついていたので,ドレッシングだろうと思って野菜にかけたら,実はコーヒーに入れるミルクだったということがあった。

 当時ソ連の上空を飛んでヨーロッパへ行けるのはアエロフロートだけで,これが所要14時間で最速,他の飛行機はアンカレッジ経由で北極海を飛び,所要16時間だった。(ほかに南回りというのもあり,これは23時間かかった。) ずっとシベリアの上を飛び,モスクワでトランジットがあり,ロンドンのヒースロウ空港に現地時間の夜9時ごろ到着した。日が長い季節で,まだ夕日が落ちていなかった。このとき空港で出会ったのが,ずっと前に書いた「→Man」という掲示である(→参照)。
 空港の案内所で,エアターミナルの近くのホテルを紹介してもらった。十数室のかわいらしいホテルだった。

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